第二章 創価学会の本尊観
8 創価学会の本尊観は昔から一貫して変わらないのでしょうか。
かつて創価学会では、
「この本門戒壇の大御本尊を根本として、血脈付法の歴代の御法主上人が大御本尊を御書写になり、御下附くださったのが、私達の家家に御安置申し上げている御本尊です」
(大白蓮華 345ー36頁)
と述べていたように、血脈付法の御歴代上人を通じて本門戒壇の大御本尊に帰依するという本宗本来の正しい本尊観をもっていました。
ところが、現在は、「大聖人直結」といい、「代々の法主に伝わる特別な相承などない」といって、経本の観念文から御歴代上人に対する報恩謝徳の御文を削除し、
「本尊は我々の信心の中にある」とか
「我々の信力・行力によって仏力・法力は完結する」
「大石寺の御本尊にお目通りしなくてもよい」
などといい出しています。
このように創価学会は、信仰の根本たる戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈を否定した本尊観に大きく変わっており、現今の創価学会の説が本宗の教えに背く邪義であることはいうまでもありません。
9 「御本尊は幸福製造機」という考えは正しいのでしょうか。
御本尊は、「幸福製造機」などという「単なる機械」「単なる物」ではありません。
日蓮正宗の御本尊は、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(新編 1773頁)
とも
「即ち彼の池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なり」
(聖典 380頁)
と説かれるように、生きた日蓮大聖人そのままの御当体なのです。大慈悲を具えた生きた仏様だからこそ私たちは御報恩謝徳申し上げるのです。
日寛上人が、『観心本尊抄文段』に
「則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕われざるなきなり」(富要 4−213頁)
と仰せのように、御本尊の功徳は無量無辺です。
しかし、そのためには「正しい本尊」を信じなければなりません。『同文段』に
「この本尊に人あり法あり(中略)法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり」(同頁)
と説かれるように、宗祖大聖人の御当体たる御本尊を信受することが大切なのです。
創価学会では以前から「御本尊は幸福製造機」といっていましたが、宗門においては、これを一般信徒に御本尊の功徳を説明するための方便としてうけとめてきました。
しかし現在、創価学会は
「御本尊といっても物体にすぎない」
(池田スピーチH五・五・三 取意)
という誤った考えに陥っています。御本尊を単なる機械と見る考え方は大謗法であり、根本から改めなければなりません。
10 池田大作氏は「もはや本尊はどれも同じ」といっていますが、正しいのでしょうか。
池田氏は本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊を混同し、会員の心を本門戒壇の大御本尊から離れさせようと企てているのです。
御本仏日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕された人法一箇の「本門戒壇の大御本尊」が本宗の根本の御本尊です。
これに対して、各家庭や各人に下付される御本尊は、その根源の本門戒壇の大御本尊の御内証を、唯授一人血脈付法の御法主上人が、その権能において書写され、本宗僧俗に下付されるのです。
したがって、本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊は、もとより能開と所開の関係にあることを知らなければなりません。
かつて創価学会では
「私どもが留意すべき点について申し上げます。それはまず第一に、戒壇の大御本尊根本の信心に立ち、総本山大石寺こそ、信仰の根本道場であることを、ふたたび原点に戻って確認したいのであります。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません」
(特別学習会テキスト 五六頁)
と指導していました。
大聖人は『題目弥陀名号勝劣事』に、
「能開所開を弁へずして物知りがほに申し侍るなり」
(新編 332頁 取意)
と仰せですが、現在の池田氏率いる創価学会は、まさに大聖人のこの厳しい責めをこうむる大謗法を犯しているのです。
11 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。
創価学会のこの指導は、会員を戒壇の大御本尊から引き離すためになされているものです。
そのために学会では、『日女御前御返事』の
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」
(新編 1388頁)
の御文を利用しています。
昭和五十二年路線の当時にも、学会は同様の主張をしたことがありましたが、これについて総本山第六十六世日達上人は、
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」
(達全 2−5−600頁)
と破折されています。
胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考えは、大聖人のお心に背く悩乱の説というべきです。
12 「信心の二字の中にしか本尊はない」という考えは正しいのですか。
これは池田大作氏が『日女御前御返事』の
「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(新編 1388頁)
の御文を勝手に解釈したものです。
池田氏は、さらに日寛上人の御文を悪用して
「御本尊といっても大切なのは信心である」
(池田スピ−チ H五・九・七)
と主張していますが、これは御本尊よりも自分達の信心を中心と考える本末転倒の己義からくる邪説です。
日寛上人は『文底秘沈抄』に
「境能く智を発し、智亦行を導く故に、境若し正しからざれば則ち智行も亦随って正しからず」(聖典 833頁)
と説かれています。
すなわち対境の御本尊があって、はじめて凡夫の信心(智)が発現し、信心(智)によって修行(行)が導き出されるゆえに、もし対境の御本尊が正しくなければ、信心も修行も正しいものではないのです。
池田氏の「御本尊といっても大切なのは信心」との発言は、凡夫の信心を中心にして本門戒壇の大御本尊をないがしろにするものであり、根拠のない邪説です。
13 池田大作氏は「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」(池田スピ−チ S五六・一・二六)といっていますが、この考え方は正しいのですか。
これは池田大作氏の我見であって、大聖人の教義ではありません。これはむしろ外道の思想です。
『御義口伝』に
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(新編 1773頁)
と仰せのように、漫荼羅(本尊)とは大聖人御自身であり、大聖人を離れて妙法はないのです。
しかし池田氏は、妙法が仏とかけ離れた宇宙の根本法則であると思い込んでいるようです。このような考えについて、日淳上人は次のように破折されています。
「南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして、宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。此れは大変な誤りで、南無妙法蓮華経は仏身(大聖人)であります(中略)妙法の理は天地の間にありましても、それは理性であります。実際には仏(大聖人)の御智慧のうちにのみ、厳然として具はり玉ふのであります。その仏は、十方法界に唯一人在ますだけであります」
(淳全 982頁)
このように、人(大聖人)を離れて法(南無妙法蓮華経)はなく、大聖人はそのまま南無妙法蓮華経の御当体なのです。ゆえに池田氏の考え方は全くの我見であり、正しい考え方ではありません。
14 学会では宗教的権威は不要、信心は御本尊対自分である≠ニいうことを強調しますが、このような考えは正しいのですか。
かつて池田大作氏は、
「もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 8−228頁)
と指導しています。
しかし近年、創価学会が日蓮正宗と離れても会員が不審を抱かないように「御本尊を拝んでいれば、他の宗教的権威は不要」と指導してきました。
さらにそのうえ、純真な会員に対して「御本尊対自分」という指導を徹底し、日蓮正宗本来の法義・伝統に対する信仰心を低下させ、我見と慢心を増長させてきたのです。
日蓮大聖人は『曽谷殿御返事』に
「返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし」
(新編 1040頁)
と仰せられ、仏道を成就するためには師弟の道を全うしなければならないと説かれています。私たちにとって本従の師に至るには総貫首たる御法主上人の御指南に随順しなければなりません。
創価学会はこの仏法本来の師弟の道を「宗教的権威」と蔑称して否定してきたのです。この悪意に満ちた指導の延長線上で「御本尊対自分」という、もっともらしい指導がなされていることを知らなければなりません。
15 現在、創価学会では「総本山へ参詣しなくてもよい」と指導していますが、戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否して、家庭の御本尊を拝むだけで功徳はありますか。
本門戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否しておいて、そのお写しである家庭の御本尊だけを拝んでも功徳など絶対にありません。
『寿量品』に
「心に恋慕を懐き、仏を渇仰して」
とあるように、私たちにとって仏を恋慕渇仰する信心が大切なのです。九十歳の阿仏房が決死の覚悟で登山したのも、日妙尼が苦労をしながら大聖人のもとへ参詣したのも、すべて御本仏大聖人を恋慕渇仰する信心によるものです。
現時において、日蓮大聖人は人法一箇の大御本尊として、大石寺奉安堂にいらっしゃるのです。
日寛上人は『寿量品談義』に
「志有らん人は登山して拝したまへ」(富要 10−131頁)
と仰せられ、信心があるならば、登山して大御本尊にお目通りせよと教示されています。
かつて学会でも、小樽問答で邪宗日蓮宗に対し
「『かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき』と。霊山浄土は大聖人の御本懐である本門戒壇の大御本尊のおわす富士大石寺こそ本当の霊山浄土でなくて、どこに霊山浄土がありましょうか」(小樽問答誌 七九頁)
と破折したではありませんか。
これらのことを思えば、現在の創価学会が会員に対して、大聖人即大御本尊へのお目通りをしないよう指導していることは実に罪深い悪業というべきです。
16 日蓮正宗において、戒壇の大御本尊を離れた「御本尊根本」という考えは成り立ちますか。
本門戒壇の大御本尊を離れては、日蓮正宗の信仰そのものが成り立ちません。
なぜなら、日蓮正宗における信仰の対境は本門戒壇の大御本尊に限られるからです。
したがって、大聖人の仏法において、大御本尊から離れて「御本尊根本」の信仰をするなどはありえないことであり、このような主張は、各人に下付された御本尊が本門戒壇の大御本尊の御内証を書写されたものであることを知らない人の言葉にすぎません。
ここにわかりやすい譬えがありますので、紹介しましょう。
「電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光りを発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光りが出ないのである。(中略)したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」
これは、ご存じ、創価学会で発行した『折伏教典』(三三九頁)の一文です。
大聖人が『聖人御難事』に
と仰せられた、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を離れることは、御本仏日蓮大聖人から離れ、下種三宝のすべてを否定する大謗法なのです。
まして、今日の創価学会では、電球(本尊)までニセ物を作ってしまったのですから、そのニセ物には、光(功徳)の出ることなど絶対にありえません。
17 世間でも太陽を崇める宗教や富士山を敬う宗教がいくつもあるように、日蓮正宗を離れても本門戒壇の御本尊を根本として信仰することは少しもおかしいことではない≠ニいう考えは正しいのでしょうか。
日蓮正宗を離れては広宣流布も一生成仏もありません。
日蓮正宗は大聖人の教えを今日まで正しく継承し、実践するただ一つの教団であり、大聖人の教えを守るとともに、これを生活の中に展開して、実際に一切衆生の救済に努めてきました。
その根源はなんといっても、本門戒壇の大御本尊を法義・信仰の中心としてきたからにほかなりません。
この戒壇の大御本尊は富士大石寺に御安置されており、この大御本尊の極意は大石寺代々の御法主上人に伝えられています。
したがって戒壇の大御本尊と血脈相承の具わった日蓮正宗の信仰によって、はじめて成仏を遂げることができるのです。
大石寺を離れ、日蓮正宗から離れて、いかに「御本尊根本」などといっても、決して大聖人の御精神にかなうものではありません。
18 「御本尊根本」であるならば、正しい信仰といえるのでしょうか。
真実の「御本尊根本」とは、宗祖日蓮大聖人の教義を正しく守り、血脈付法の御法主上人の御指南のもとに、本門戒壇の大御本尊を唯一無二に信ずることです。
しかし現在の創価学会でいう「御本尊根本」とは、御歴代上人に伝わる血脈相承を否定するためにいい出した言葉なのです。
かつて創価学会は『折伏教典』に
「富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない」(同書 三四〇頁)
と解説し、たとえ日蓮大聖人の御真筆漫荼羅であっても富士大石寺の血脈から離れたものには大聖人の心は宿らないといっていました。
ところが現在は「もはや御本尊はどれも同じ」といい、富士大石寺の本門戒壇の大御本尊を軽視する邪説を唱えています。
「御本尊根本」というと聞こえはよいのですが、この言葉を使用する創価学会の意図は実に邪悪なものなのです。
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