第三章 『ニセ本尊』について
19 なぜ学会で授与する本尊が「ニセ本尊」なのですか。
たとえば、精巧)なカラーコピーの機械で、紙幣()をコピーして「お札」を作製するとします。いかに本物の「お札」と見分けがつかなくても、そのコピー札は「ニセ札」であり、それを使えば法的に罰せられます。
なぜかといえば、
@正式な政府の許可がなく、
A日本銀行から発行されたものでなく、
B自分で勝手に作ったものだからです。
「ニセ本尊」はこれと全く同じ道理です。
@御法主上人の許可を受けず、
A総本山から下付されたものではなく、
B学会が勝手に作製したものだからです。
学会では「自分たちが和合僧団だから、その資格がある」と主張しますが、一体その資格は、どなたから受けたのでしょうか。御歴代上人の中で、創価学会に相承された方などおられません。もし「広布を願う一念があれば資格が具わる」などと
いうのならば、誰でもいつでも勝手に本尊を作ることができることになり、大聖人の仏法は混乱し、滅亡してしまうでしょう。
ニセ札は法律で罰せられますが、「ニセ本尊」は仏法破壊の大罪として、必ず現罰をこうむるのです。
20 総本山第二十六世日寛上人の御本尊を「ニセ本尊」と呼ぶのは日寛上人に対する冒涜()ではありませんか。
宗門では、浄圓寺所蔵の本證坊()個人に下付された日寛上人御書写の真正の御本尊を「ニセ本尊」といっているのではありません。
御法主上人の許可なく、勝手に複製されたものを、私たちは「ニセ本尊」と呼んでいるのです。
そのうえ、創価学会は日寛上人の御本尊にしたためられていた「授与書き」を勝手に削り、会員に販売しているのですから、学会が日寛上人のお心に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪を犯しているのは明白です。
これこそまさに、日寛上人に対する冒涜以外の何ものでもありません。
21 日寛上人の御本尊を複写したものを、なぜ宗門では「日寛上人の本尊ではない」「日寛上人のお心にそむく大謗法」というのですか。
宗門でいう「日寛上人の御本尊」とは、
「日蓮がたまし()ひをすみ()にそめながしてかきて候ぞ」
(新編 685頁)
と仰せの、大聖人の「たましい」が、血脈相承のうえから、正しく写されている御本尊のことです。
しかし、今回学会が勝手に複写して作ったものは、姿・形は日寛上人の御真筆とそっくりであっても、血脈付法の御法主上人の許可がないので、大聖人の「たましい」が写されておらず、「日寛上人の御本尊」とはいえないしろものです。
たとえば自分で勝手に御本尊を写真に撮って、それを拝むのと全く同じことであり、大謗法なのです。
また、学会では日寛上人の御真筆御本尊にしたためられていた「大行阿闍梨本證
坊日證」という授与書きを勝手に抹消し、変造しており、これが「日寛上人のお心にそむく大謗法」になるのは当然です。
22 学会では「宗門が御本尊を下付してくれないので、やむをえず複写して授与することになった」といっていますが、本当ですか。
この問いでは「なぜ宗門が下付しないのか」を知ることが大切でしょう。
日蓮正宗は、大聖人、日興上人以来の化儀・化法を守り、正しく信仰する人々に
対しては、いかなる人であっても御本尊を下付してきました。
これは創価学会に対しても同様です。
ところが学会は、次第に正宗信徒の道から外れ、宗門からのたび重なる教導に対しても、それを受け入れないのみならず、仏法僧の三宝を破壊する大謗法団体と化してしまったのです。
換言()すれば、本宗の信徒団体としての資格を自ら放棄してしまったのですから、団体破門となり、そのために会員に対する御本尊下付もされなくなったのです。
一時は広宣流布を目指すように見えた学会でしたが、その本性は日蓮正宗信徒とはかけ離れた、御法主上人誹謗、三宝破壊を平気で行なう池田教だったのですから、御本尊下付の停止は当然の処置です。
23 拝む人に「信力」「行力」があれば、複写本尊でも「仏力」「法力」を発現する、という主張は正しいのですか。
これは、本末転倒であり増上慢()の考えです。
仏力・法力・信力・行力は四力といいます。その関係について、日寛上人は『観
心本尊抄文段()』に
「当に知るべし、蓮華は水によって生じ、我等が信力・行力は必ず法力によって生ずるなり。若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何んぞ信行を生ぜん(中略)我等、法力により信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず」(富要 4−248頁)
と仰せです。
もともと日蓮大聖人の御当体たる御本尊には仏力と法力が具わっており、この御本尊に対して信じ(信力)、唱題を行ずる(行力)ときに四力が合して成仏がかなうのです。「仏力」も「法力」もない複写の「ニセ本尊」に向かって、凡夫がいかに信力・行力を発動しようとも、真実の境()智()冥合()などありえません。
迷いの衆生である凡夫の信力・行力によって、御本尊に仏力・法力が具わり、本当の本尊になるなどという論は、因果を無視した外道の考えであり、また「我、仏に勝れたり」とする増上慢の極()みです。
24 「ニセ本尊」を拝むとどうなるのですか。
「ニセ本尊」には、仏法に敵対する魔の力があり、これを拝むと魔の通力によって現罰を受け、その謗法の罪によって永く地獄に堕ちる結果となります。
大聖人の仏法において「似て非なるもの」を用いるということは、大謗法です。
その理由は、仏に似ているがゆえに、正しい教えが隠され、多くの人々が真実の仏を見失ってしまうからです。
大聖人は、真言宗が天台の一念三千を盗み入れて「大日経()第一」と立てたことに対して「真言亡国」と破折されていますが、今回創価学会が作製した「ニセ本尊」は、日蓮正宗の御本尊を盗み取り、日寛上人の御本尊に姿・形を似せているだけに、その罪もまた大きいのです。
第二代戸田会長は、御本尊について
「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」(大白蓮華 九八―九頁)
と指導しています。
25 「『ニセ本尊』に功徳がない」ということは、学会員が拝んでいる従来の御本尊には功徳があるということですか。
三宝を誹謗する謗法団体となった創価学会に所属している人は、従来の御本尊でも功徳は積めません。
「『ニセ本尊』に功徳はない」というのは、その本尊自体が、最初から大御本尊の血脈が通じておらず、仏力・法力が具わっていないからです。
従来の御本尊は正しい血脈のもとにまさしく仏力・法力が具わっており、御法主上人の御指南に従って正しく信仰をすれば、功徳があることはいうまでもありません。
しかし、従来の御本尊であっても、拝む人が血脈付法の御法主上人を誹謗するならば、四力(仏力・法力・信力・行力)が合せず、功徳はありません。まして何よりも「ニセ本尊」を作るほどの謗法団体になった学会に所属していては、絶対に功徳はありません。かえって、拝むほどに罪業を積み重ねることになります。さらには今までの信心による一切の功徳が消えてしまうことを恐れるべきです。
「信心の血脈なくんば法華経を持()つとも無益なり」(新編 515頁)
とは、このことです。
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