第四章 日蓮正宗の信仰
26 日蓮正宗の「信仰」とは何ですか。
総本山大石寺にまします、本門戒壇の大御本尊を根本とし、唯授一人の血脈に従い、本門の題目を自行化他にわたって行じることです。
信仰とは、絶対的なものを「信じ仰ぐ」ことです。「何」を対象として信ずるかによって正邪が決まりますが、仏法では三宝を対象とします。
日蓮正宗の法義では「文底下種の三宝」といって、
仏宝―日蓮大聖人
法宝―本門戒壇の大御本尊
僧宝―日興上人を随一とする御歴代上人
と立てます。
その当体への「信仰」については、『当流行事抄』に、
「我等唱え奉る所の本門の題目其の体何物ぞや、謂わく、本門の大本尊是れなり、本門の大本尊其の体何物ぞや、謂わく、蓮祖大聖人是れなり」(聖典 954頁)
と、人法一箇の御本尊を信じ、本門の題目を唱えることと明示されています。
唯授一人血脈相承の御法主上人の御指南に従い、大聖人出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊を、信じ行ずることが日蓮正宗の「信仰」なのです。
27 「広宣流布」の本当の意味は何ですか。
総本山第二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に
「富士山は是れ広宣流布の根源の故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(聖典 855頁)
と仰せです。
すなわち、全世界の人々が総本山にまします本門戒壇の大御本尊に帰依して、本門の題目を唱えることを「広宣流布」といいます。
『諸法実相抄』に
「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(新編 666頁)
と仰せられ、『如説修行抄』には、広宣流布のときには、自然界も、社会も、そして個人も、平和で安穏な世界になると説かれております。
日蓮正宗の仏法を「広宣流布」することが大聖人の御遺命なのです。現在の創価学会のような、本尊と血脈に迷う人々がどれほど増えても、大聖人の御正意の「広宣流布」ではありません。
日達上人も
「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(達全 2−6−295頁)
と明確に仰せられています。
28 「令法久住」と「広宣流布」とはどのような関係にあるのですか。
大聖人の仏法を血脈相承によって、末法万年に正しく伝えることが「令法久住」であり、正法が全世界に弘まることを「広宣流布」といいます。
『報恩抄』には
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」
(新編 1036頁)
と仰せです。「令法久住」と「広宣流布」とは「法を正しく久住させる」時間的な縦の流れと、「広く正しく流布せしめる」地域的、現実的な横の流れという、不離の関係にあるといえましょう。
大地から幹が伸びるすがたを「令法久住」、幹から枝が繁るすがたを「広宣流布」に譬えれば、幹から離れた枝は枯れますが、幹からは再び新しい芽を吹き出します。その幹こそ血脈相承ですから、歴代の御法主上人を誹謗する創価学会が、いかに「広宣流布が進んだ」といっても、所詮枯れ枝となるのは明白です。
本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承の「令法久住」があってこそ、万年にわたる一切衆生成仏の「広宣流布」が成就するのです。
29 学会では「宗門は法主信仰だ」といっていますが本当ですか。
宗門は「法主信仰」ではありません。
本宗では、あくまで信仰の対境は本門戒壇の大御本尊であり、これは昔も今もまったく変わりがありません。私たちにとって、御法主上人は御本仏日蓮大聖人の御内証を受け継ぐ正しい師ですから、敬うのは当然です。
大聖人の仏法は、日興上人ただお一人に付嘱されました。また日興上人より日目上人へ、日目上人より代々の御法主上人へと正しく伝えられ、今日の日蓮正宗があるのです。
かつて池田大作氏も、
「ご存じのとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、(中略)現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである」
(広布と人生を語る 三−二四九頁)
と述べていました。現在<の宗門を「法主信仰だ」というならば、池田氏も法主信仰者だったことになります。
「宗門は法主信仰だ」と創価学会がいい張るのは、本来敬うべき御法主上人を誹謗し、かつ宗門から会員を引き離すためのデッチあげにすぎません。
それよりも、池田大作氏の意向によって、大聖人が定められた血脈相承を否定し、戒壇の大御本尊をも軽視する創価学会こそ、「池田教」といわれても仕方ありません。
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