第五章 創価学会の信仰観
30 秋谷会長が「学会は『御書根本』として進んできた」と指導していますが、「御書根本」という考えは正しいのですか。
創価学会でいう「御書根本」は、相伝によらず、自分の都合のよいように解釈するものですから、正しい考え方ではありません。
総本山第六十五世日淳上人は、
「古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知って、極理の師伝を知らずこれを忽せにするもののみを見る、此れが為に我見に堕して救うべからざるに至る、誠に嘆ずべきである」(淳全 45頁)
と、師伝すなわち相伝を曖昧にして、御書のみにこだわる人は、我見に堕ちる者として破折されています。
日蓮大聖人は、『一代聖教大意』に
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(新編 92頁)
と仰せです。創価学会が唯授一人血脈付法の御法主上人を誹謗し、否定している現在では、いくら「御書根本」と主張してみても、それが相伝によらないものである以上、御書の意味を正しく理解することはできません。
同じ日蓮大聖人の御書を拝しても、日蓮正宗以外の日蓮宗各派は、教義も本尊も大聖人の御精神に反しているのは、相伝がないためです。
日蓮大聖人の仏法は、『日興遺誡置文』の
「当門流に於ては御鈔を心肝に染め極理を師伝して」
(聖典 563頁)
との御指南のように、宗祖大聖人より日興上人、日目上人、代々の御法主上人へと血脈相伝された「極理」を師伝して、「御書を心肝に染める」ことが根本なのです。
31 学会でいう「大聖人直結」は、正しいことなのですか。
正しくありません。
学会でいう「大聖人直結」の真意は、御歴代上人の血脈相承と宗門七百年の伝統を否定して、池田教としての独立を正当化することにあります。
常に私たちは、時の御法主上人の指南に従って信仰することが大切です。なぜならば、日蓮大聖人は『身延山付嘱書』に
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」
(新編 1675頁)
と仰せのように、大聖人の御内証は日興上人ただお一人に伝えられ、その後は日目上人以来御歴代の御法主上人に相承され、今日に至っているからです。
その唯授一人の血脈相承に背き、「大聖人直結」と主張する僧俗は「非法の衆」であり、大謗法なのです。
日興上人も佐渡の信徒たちに対して
「案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候、これらの人、謗法にて候なり」
(歴全 1−184頁)
と戒められています。
32 学会でいう「人間主義」は、どこが間違っているのですか。
一般的に「人間主義」はヒュ−マニズムともいわれ、人間の意義と価値を重視し、人間の権利や自由を尊重する思想≠ニ解釈されています。
しかし創価学会は、仏法本来の僧俗・師弟の立て分けを「権威主義」として排除し、自らの優位を誇示するために「人間主義」などの聞こえのよい言葉を振り回しているに過ぎません。
人間の価値をすべてに優先させるという意味では、人間主義と民主主義は共通であり、その基本原則は自由・平等・尊厳といわれています。
私たちは、人間として何ものにも束縛されず、平等に認められ、人間としての尊厳を守ることが理想です。
しかし、これを仏法の立場からみれば、人間一人一人がそれぞれ過去の業因と宿縁によってさまざまな報いを受けているのです。
日蓮大聖人は『当体義抄』に
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて云云」
(新編 694頁)
と仰せられて、御本仏が悟られた妙法を信受することによって、衆生ははじめて人間として理想的な境界に到達できることを説かれています。
現在の創価学会が、仏法上の僧俗の節目を破壊し、在俗の池田大作氏を宣揚せんがために、さかんに「人間主義」を強調しているのは、実に愚かな行為というべきです。
33 池田氏がいう「大宇宙の生命のリズムと小宇宙である自分が合致するために唱題をする」という考え方は正しいのですか。
大宇宙の生命のリズムと自分が合致するなどという考えは全くの邪義です。
日蓮大聖人は、宇宙に遍満する法を御本尊として顕わされたのではなく、御本仏の御内証を一幅の御本尊として顕わされたのです。
それが、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊です。
本門戒壇の大御本尊は、人即法・法即人、人法一箇の御本尊であり、決して大宇宙の生命のリズムなどという法ではありません。
私たちの信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、この大御本尊を対境として唱題することにより、即身成仏の功徳を得ることができるのです。
御法主日顕上人は、法のみに偏った考えに対し、次のように破折されています。
「宇宙に遍満する法のリズムに我々が合致するなどと言っておるようですが、あれは大変な間違いです。むしろ、大聖人様の仏法に対する冒涜であります。法といっても、それは大聖人様の久遠元初の御当体としての自受用報身の一念に具わる法なのです」
(大日蓮 563−54頁)
したがって、私たちが本門戒壇の大御本尊に向かって純真に唱題するとき、御本仏の一念に境智冥合し、はじめて成仏の大利益が生ずると理解すべきです。
34 「信心の血脈さえあればよい」という学会の指導は正しいのですか。
創価学会は、『生死一大事血脈抄』の講義の中で、
「血脈には別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、明確に立て分けなければならないことである」
(学講 三〇上−五八頁)
「したがって、総じての信心の血脈は御法主上人の御指南のもと、御本尊を唯一無二に信ずる衆生の信心の一念にこそ流れる」
(同書 六一頁)
と述べていました。
日蓮大聖人は『曾谷殿御返事』に、
「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず、輪廻生死のもとゐたらん」(新編 1039頁)
と仰せですが、本宗においては血脈にも総別の立て分けがあり、そこには厳とした筋目があるのです。
現在の創価学会のように、別しての「法体の血脈」を否定し、総じての「信心の血脈」だけを強調することは、成仏どころか、堕地獄の業因となります。
35 学会では「現在の宗門は狂っているから、宗門に従っても功徳はない」といっていますが本当でしょうか。
これが今まで日蓮正宗の信仰をしていた人の言葉なのでしょうか。
日蓮正宗の総本山には本門戒壇の大御本尊が厳護されており、昔も今も七百年の間、戒壇の大御本尊を根本として、僧俗和合のもとに広宣流布に邁進しています。
ところが、創価学会はことごとく変わってしまいました。
例えば「総本山へ参詣するな」「寺院に行くな」「学会に本尊下付の資格がある」「授戒は牧口先生時代から始めたもので不要だ」「葬儀は檀家制度の弊風である」等々、実に枚挙にいとまがないほどの変貌ぶりです。学会は今回の問題が起きるや、今まで自分たちが行なってきたことを、百八十度変えてしまったのです。
一体どちらが狂っているのでしょうか。
酔った眼で山を見れば、自分は不動で山が動いているように見えるように、狂った人が宗門を見れば宗門が狂ったように見えるのでしょう。仏法の正邪を決するのは人の数や世法の力ではありません。あくまでも御本仏のお心、すなわち法体と相伝をもって判断すべきなのです。
富士大石寺から離れた創価学会には、もはや宗祖大聖人の法体はもちろん、唯授一人の相伝もないのです。そのような創価学会に従っても、罰こそあれ、決して功徳はありません。
36 学会には、「池田名誉会長が『世界の指導者』として世界各国から称賛されることが広宣流布につながる」という考えがありますが、これは正しい考えでしょうか。
広宣流布とは、正当な日蓮大聖人の仏法を弘めることです。
かつて日達上人は
「日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります」(達全 2−6−295頁)
と仰せられました。
たとえ池田大作氏が世界の要人から称賛されたとしても、その称賛する人たちは正法の護持者ではないのです。
大聖人は、『開目抄』に
「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(新編 577頁)
と仰せられております。
過去に戸田会長は『青年訓』において
「愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」(戸田城聖全集 一−六一頁)
と指導していたではありませんか。
『法門可被申様之事』の講義にも
「社会的名誉を第一とする三位房の姿勢を、大聖人は『旁せんずるところ日蓮をいやしみてかけるか』と厳しく叱責されているのである」(学講 二七−一〇五頁)
とあります。
このように、世間から誉められることが広宣流布につながるとの考えは、大聖人の教えにはありません。
大聖人は『持妙法華問答抄』に
「名聞名利は今生のかざり(中略)嗚呼、恥づべし恥づべし」
(新編 296頁)
と厳しく戒められています。
37 学会員は「学会のおかげ」「池田先生のおかげ」と指導されますが、これは正しい指導なのでしょうか。
このような指導は間違いです。
現在の創価学会員が、日蓮正宗の正しい信心ができないのは、かえって「池田先生のおかげ」を最優先させているからです。
第二代会長戸田城聖氏は
「良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめなのです。南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、かならず功徳がでてくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私はひじょうに光栄とするものであります」(戸田城聖全集 四−三九九頁)
といっています。
学会は檀那(信徒)の団体であり、会員が会長を尊敬することは当然ですが、三宝以上に敬うことは本末転倒であり、謗法になります。
今までの学会員が功徳を得てきたのは、「御本尊様のおかげ」「正しい仏法のおかげ」であって、「学会のおかげ」「池田先生のおかげ」ではないのです。
38 学会では先生と自分との関係を忘れない信心こそ功徳がある≠ニの指導をしていますが、この考えは正しいのですか。
学会では「御本尊と自分の間に、ほかのものはいらない」と指導しているのに、ずいぶん矛盾した指導ではありませんか。
日蓮正宗は、日蓮大聖人の仏法を信じる教団です。
したがって、『上野殿御返事』に
「此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゝしきひが事なり」
(新編 1219頁)
と仰せのように、大聖人の教えでないものを入れることは謗法です。
「先生と自分との関係を忘れない信心」とのことですが、信仰をしていくうえで、池田大作氏を絶対的な立場に位置づけることは間違いです。
昭和五十三年一月に、第六十六世日達上人は
「先日、東北のある県で、御本尊に向って、ある人を心に思い浮かべてお題目を唱えろ≠ニいうことを指導した人がある(中略)実に残念なことでございます。それでは謗法の念慮を絶したということにはならない」(達全 2−7−136頁)
と仰せられましたが、このある人≠ニは当時創価学会会長であった池田大作氏を指していることは周知の事実です。
ましてや、今日、池田氏は大慢心を起こして、日蓮大聖人の仏法を継承する日蓮正宗を誹謗しているのですから、その池田氏との「関係を忘れない信心」をすれば、池田氏同様、会員も頭破作七分になり、悪道に堕ちることになります。
39 「学会員が増えることが広宣流布」ということは正しいのですか。
第六十六世日達上人は、「創価学会創立四十八周年記念代表幹部会」の折、
「とにかく大聖人以来、七百年間守りつづけてきた伝統と教義の根本はあくまで守り伝えなくてはならないのであります。これを踏まえなかったならば仮りにこれからいくら勢力が増しても、広宣流布は見せかけのものであったかとの後世の批判を免れることはできないのではないかと心配いたします」(大白蓮華 三三三−一三頁)
と明確に指南されております。
かつて池田大作氏は
「現代においては、いかなる理由があれ、御本仏・日蓮大聖人の
『遣使還告』であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これら(=正信会)の徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗の異流であり、反逆者であるからである」(大白蓮華 三六三−五二頁)
と発言しておりますが、この言葉どおり、現在の創価学会は、日蓮正宗の正法に敵対する異流義となり、日蓮正宗より破門されてしまいました。
したがって、学会員がいかに増えても広宣流布とは関係ありません。
40 学会は「創立以来、一貫した信心」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、はたしてそうでしょうか。
現在の創価学会の主張と、過去における主張とが矛盾していることは、過去の学会出版物と見くらべれば明白です。
たとえば、戸田二代会長は『信者の大精神に立て』のなかで、
「先代牧口先生当時から、学会は猊座のことには一切関知せぬ大精神でとおしてきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破るものは、たとえ大幹部といえども、即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない」(聖教新聞 S三一・一・二九)
と述べています。
また、池田大作氏は会長就任式で
「御法主上人猊下にご奉公申し上げることが、学会の根本精神であると信じます」(大白蓮華 一〇九−七頁)
といい、さらにまた、
「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順してゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくるのである。創価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えていくことはまちがいないと確信する」(広布と人生を語る 三−三二頁)
と指導していますが、これらの指導と現在行なわれている指導とが一貫しているとはとうていいえません。
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