第六章 血脈について
41 「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」とは同じものですか。
「唯授一人の血脈」は、日蓮大聖人が大法を余すことなく日興上人お一人に相承され、さらに日目上人、日道上人以来の御歴代上人を経て、御当代日顕上人へと伝えられています。
一方「信心の血脈」とは、この唯授一人の血脈を信順することを前提として、日蓮正宗の御本尊を無二に信ずるところに流れ通うものであり、「信心の血脈」のみを切り離して本宗の信仰を語れるものではありません。したがって、「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」を同列に考えることは間違いであり、「唯授一人の血脈」を信ずるうえで御本尊を拝することが大切なのです。
以前に学会が発行した『生死一大事血脈抄』の講義には、「信心の血脈」を解釈する段で、
「もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない」(学講 三〇上−三二頁)
と述べています。
現在の学会では「信心さえあればよい」と指導しているようですが、「何を、どのように信ずるか」ということが明確でなければなりません。
やみくもに「信心の血脈」だけをふりかざす指導は、「唯授一人の血脈」をないがしろにするものです。
42 唯授一人の血脈を否定して「御本尊根本」を唱えることは矛盾するのではありませんか。
そのとおり、矛盾しています。
なぜならば、『本因妙抄』に
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
とお示しのように、唯授一人の血脈と御本尊の大事は一体不二なるものであって、これを分けて論ずることはできないからです。
総本山第五十六世日応上人も『弁惑観心抄』の中で
「此の金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能わず」(同書 212頁)
とも
「この金口の血脈こそ、宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝ふるものなり。これを真の唯授一人と云ふ」(同書 219頁)
と仰せのように、御本尊は宗祖大聖人の法魂であり、その法魂を唯授一人の相承によって写し奉るものですから、唯授一人の血脈を否定する者は、御本尊をも否定することになるのです。
「唯授一人の相承」なくして日蓮正宗の御本尊はありえないことを知るべきであります。
かつて池田大作氏が
「法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」
(広布と人生を語る 八−二二八頁)
と指導していたとおりです。
43 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。
これこそ、創価学会の指導が一貫していない見本であり、明らかな邪義です。
学会は『生死一大事血脈抄』の講義で、
「ここで心すべきことは血脈には別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、明確に立て分けなければならないことである。すなわち、法体の血脈についていえば、久遠元初の自受用報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである」
(学講 三〇上−五八頁)
と述べていますが、この池田氏の言葉は間違っていたのでしょうか。
第五十六世日応上人は、『弁惑観心抄』に
「法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是れなり(中略)此の法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり」(同書 212頁)
と仰せのように、日蓮大聖人の御内証と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に「法体相承」されているのです。
44 「創価学会こそ現代における唯一の『信心の血脈』を受け継ぐ和合僧団である」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当でしょうか。
かつて創価学会では
「『総じて日蓮が弟子檀那等(中略)異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり』の御文は、別しての『法体の血脈』を大前提として、総じての『信心の血脈』について述べられたものである」(学講 三〇上−五九頁)
と正しい法義に準じた説明をしていました。
この説明にもあるように「信心の血脈」とは、あくまでも、別しての法体の血脈相承を受けられている御法主上人への信順なくして流れ通うものではありません。
御法主上人を仏法上の師匠と仰ぎ、師弟相対して大御本尊を信受するところに信心の血脈も流れ通うのです。
ところが現在の学会は、法体の血脈を否定し、御法主上人に敵対しているために、「信心の血脈」を破壊する破和合僧団になり下がったのです。
45 日蓮正宗の僧宝について、『当流行事抄』には日興上人に限るとあり、『当家三衣抄』には「御歴代の諸師」とありますが、どちらが正しいのですか。
御法主日顕上人は「法華講連合会第二十八回総会」の折に、
「大聖人様が下種の仏宝であり、南無妙法蓮華経の大御本尊が法宝であるのに対して、久遠常住の下種三宝、つまり化導の上の下種三宝の僧宝とは、その随一が二祖・白蓮阿闍梨日興上人様にあらせられる」(大日蓮 547−66頁)
と指南されました。
この下種三宝観は、僧宝として日興上人お一人に御歴代上人を集約された姿であり、常住不変の義を表わしています。また日寛上人が『当流行事抄』で、僧宝を日興上人お一人に限定される御文がありますが、これは客殿などに見られる別体三宝の奉安形式を意図して述べられたものです。
しかし、これを「伝持」の上からいうならば、御歴代上人も僧宝になるのです。
日寛上人の『当家三衣抄』に
「南無僧とは(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡嫡付法・歴代の諸師」(聖典 971頁)
と、伝法所持の上から御歴代上人も僧宝に入ることが示されています。
私たちは、御本仏大聖人以来の血脈付法の御歴代上人の御指南に従って、本門戒壇の大御本尊を深く信順し、信心修行を実践していくところにのみ、真の即身成仏がかなうのです。
46 学会では「宗門は自らが、三宝の次第を越えた法主信仰を立て、僧宝としての働きを失っている」(聖教新聞 H三・一一・二〇)といっていますが、本当でしょうか。
本宗には「法主信仰」などというものはありません。
本宗においては今日に至るまでの七百余年にわたり、本門戒壇の大御本尊を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝と仰ぎ、また第二祖日興上人を随一とする御歴代上人を僧宝と拝して、僧俗ともに信心修行に邁進してきたのです。
僧宝とは、大聖人が『四恩抄』に、
「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(新編 268頁)
と示されているように、大聖人の仏法を令法久住・広宣流布せしめるために絶対になくてはならないものです。
かつて池田大作氏は長野研修道場において、
「日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた」(広布と人生を語る 三−二五六頁)
といいましたが、当時も今も宗門は全く変わっておりません。
現御法主日顕上人は毎朝の丑寅勤行はもちろんのこと、全国各地へ御親教され、休む間もなく宗内僧侶及び全国信徒の教導に当たられております。また、総本山の寺域整備や諸堂宇の荘厳にも心を砕かれ、常に正法興隆のため、率先して法務に務められているのです。しかも、平成五年十二月には、スペインに欧州初の本宗寺院を建立され、その入仏法要の大導師まで勤められました。宗内において、このお姿を知る人は、誰一人として尊敬の念を抱かない者はいないのです。
今の宗門は「僧宝の働きを失っている」どころか、御法主上人が常に第一線に立たれて、大いに僧宝の働きをなしているのです。
47 学会では「相承」や「相伝」とは別に「血脈」があると立て、「血脈は信心の次元の問題であり、大聖人と自分自身の師弟の問題である」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、本当でしょうか。
創価学会が主張するこのような邪義の「文証」は、どこにもありません。
日蓮正宗の仏法においては、「相承」「相伝」がなければ「血脈」もありえないのです。『身延相承書』に
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す(中略)
血脈の次第 日蓮日興」(新編 1675頁)
と、「付嘱」「血脈」を示されています。また『池上相承書』には
とあり、ここには「相承」と記されています。
宗祖日蓮大聖人が御入滅に当たって、日興上人に仏法の一切を相承された証しとなるこの両付嘱書は『二箇相承』といって、二書を切り離して考えるべきではありません。「相承」「相伝」という仏法の大事を離れて「血脈」がないことのなによりの証拠です。
かつて学会においても、『折伏教典』第九章に二箇相承を引用したのち
「(日興上人は)入滅にさきだち、第三世として日目上人を選ばれ、日蓮大聖人から相伝された一切を日目上人に付属された」
(同書 二二九頁)
と説明していたのです。
このように「血脈の次第」があるからこそ、日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと「相承」「相伝」されてきたのです。
ゆえに「相承」「相伝」を離れた血脈は絶対にありません。学会でいう「大聖人と自分自身の問題である」との考えは、唯授一人の血脈を否定する邪説です。
48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といってい ますが、本当ですか。
この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
御相承について、御法主日顕上人は
「金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇相承が金紙として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(大日蓮 560−19頁)
と指南され、その証拠に『家中抄』の道師伝を引かれ、
「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(聖典 695頁)
と、金紙の存在を明らかにされております。
もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。第五十六世日応上人も、
「仮令、広布の日といへども別付血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教 二七−四五六頁)
と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進するべきなのです。
部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云することは厳に慎むべきです。
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