第六章 血脈について

『ニセ本尊』破折目次へ 


 41 「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」とは同じものですか。

 「唯授一人の血脈」は、日蓮大聖人が大法を(あま)すことなく日興上人お一人に相承され、さらに日目上人、日道上人以来の御歴代上人を経て、御当代日顕上人へと伝えられています。
 一方「信心の血脈」とは、この唯授一人の血脈を信順することを前提として、日蓮正宗の御本尊を無二に信ずるところに流れ通うものであり、「信心の血脈」のみを切り離して本宗の信仰を語れるものではありません。したがって、「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」を同列に考えることは間違いであり、「唯授一人の血脈」を信ずるうえで御本尊を拝することが大切なのです。
 以前に学会が発行した『生死一大事血脈抄』の講義には、「信心の血脈」を解釈する段で、 と述べています。
 現在の学会では「信心さえあればよい」と指導しているようですが、「何を、どのように信ずるか」ということが明確でなければなりません。
 やみくもに「信心の血脈」だけをふりかざす指導は、「唯授一人の血脈」をないがしろにするものです。


 42 唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈を否定して「御本尊根本」を唱えることは矛盾するのではありませんか。

 そのとおり、矛盾しています。
 なぜならば、『本因(ほんにん)妙抄(みょうしょう)』に とお示しのように、唯授一人の血脈と御本尊の大事は一体不二なるものであって、これを分けて論ずることはできないからです。
 総本山第五十六世日応上人も『弁惑観心抄』の中で と仰せのように、御本尊は宗祖大聖人の法魂であり、その法魂を唯授一人の相承によって写し奉るものですから、唯授一人の血脈を否定する者は、御本尊をも否定することになるのです。
 「唯授一人の相承」なくして日蓮正宗の御本尊はありえないことを知るべきであります。
 かつて池田大作氏が と指導していたとおりです。


 43 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。

 これこそ、創価学会の指導が一貫していない見本であり、明らかな邪義です。
 学会は『生死一大事血脈抄』の講義で、 と述べていますが、この池田氏の言葉は間違っていたのでしょうか。
 第五十六世日応上人は、『弁惑観心抄』に と仰せのように、日蓮大聖人の御内証(ないしょう)と戒壇の大御本尊は代々の御法主上人お一人に「法体相承」されているのです。


 44 「創価学会こそ現代における唯一の『信心の血脈』を受け継ぐ和合僧団である」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当でしょうか。

 かつて創価学会では と正しい法義に準じた説明をしていました。
 この説明にもあるように「信心の血脈」とは、あくまでも、別しての法体の血脈相承を受けられている御法主上人への信順なくして流れ通うものではありません。
 御法主上人を仏法上の師匠と仰ぎ、師弟相対して大御本尊を信受するところに信心の血脈も流れ通うのです。
 ところが現在の学会は、法体の血脈を否定し、御法主上人に敵対しているために、「信心の血脈」を破壊する破和合僧団になり下がったのです。


 45 日蓮正宗の僧宝について、『当流行事抄』には日興上人に限るとあり、『当家三衣抄』には「御歴代の諸師」とありますが、どちらが正しいのですか。

 御法主日顕上人は「法華講連合会第二十八回総会」の折に、 と指南されました。
 この下種三宝観は、僧宝として日興上人お一人に御歴代上人を集約された姿であり、常住不変の義を表わしています。また日寛上人が『当流行事抄』で、僧宝を日興上人お一人に限定される御文がありますが、これは客殿などに見られる別体三宝の奉安形式を意図して述べられたものです。
 しかし、これを「伝持」の上からいうならば、御歴代上人も僧宝になるのです。
 日寛上人の『当家三衣(さんね)抄』に と、伝法所持の上から御歴代上人も僧宝に入ることが示されています。
 私たちは、御本仏大聖人以来の血脈付法の御歴代上人の御指南に従って、本門戒壇の大御本尊を深く信順し、信心修行を実践していくところにのみ、真の即身成仏がかなうのです。


 46 学会では「宗門は自らが、三宝の次第を越えた法主信仰を立て、僧宝としての働きを失っている」(聖教新聞 H三・一一・二〇)といっていますが、本当でしょうか。

 本宗には「法主信仰」などというものはありません。
 本宗においては今日に至るまでの七百余年にわたり、本門戒壇の大御本尊を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝と仰ぎ、また第二祖日興上人を随一とする御歴代上人を僧宝と拝して、僧俗ともに信心修行に邁進(まいしん)してきたのです。
 僧宝とは、大聖人が『四恩抄』に、 と示されているように、大聖人の仏法を(りょう)(ぼう)()(じゅう)・広宣流布せしめるために絶対になくてはならないものです。
 かつて池田大作氏は長野研修道場において、 といいましたが、当時も今も宗門は全く変わっておりません。
 現御法主日顕上人は毎朝の丑寅(うしとら)勤行はもちろんのこと、全国各地へ御親教され、休む間もなく宗内僧侶及び全国信徒の教導に当たられております。また、総本山の寺域整備や諸堂宇の荘厳にも心を(くだ)かれ、常に正法興隆のため、率先(そっせん)して法務に務められているのです。しかも、平成五年十二月には、スペインに欧州初の本宗寺院を建立され、その入仏法要の大導師まで勤められました。宗内において、このお姿を知る人は、誰一人として尊敬の念を(いだ)かない者はいないのです。
 今の宗門は「僧宝の働きを失っている」どころか、御法主上人が常に第一線に立たれて、大いに僧宝の働きをなしているのです。


 47 学会では「相承」や「相伝」とは別に「血脈」があると立て、「血脈は信心の次元の問題であり、大聖人と自分自身の師弟の問題である」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、本当でしょうか。

 創価学会が主張するこのような邪義の「文証」は、どこにもありません。
 日蓮正宗の仏法においては、「相承」「相伝」がなければ「血脈」もありえないのです。『身延相承書』に と、「付嘱」「血脈」を示されています。また『池上相承書』には とあり、ここには「相承」と記されています。
 宗祖日蓮大聖人が御入滅に当たって、日興上人に仏法の一切を相承された証しとなるこの両付嘱書は『二箇(にか)相承』といって、二書を切り離して考えるべきではありません。「相承」「相伝」という仏法の大事を離れて「血脈」がないことのなによりの証拠です。
 かつて学会においても、『折伏教典』第九章に二箇相承を引用したのち と説明していたのです。
 このように「血脈の次第」があるからこそ、日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと「相承」「相伝」されてきたのです。
 ゆえに「相承」「相伝」を離れた血脈は絶対にありません。学会でいう「大聖人と自分自身の問題である」との考えは、唯授一人の血脈を否定する邪説です。


 48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といってい ますが、本当ですか。

 この説は、創価学会には絶対にない「唯授一人の血脈相承」を否定するために、無理やりいい出したことです。
 御相承について、御法主日顕上人は と指南され、その証拠に『()(ちゅう)(しょう)』の道師伝(どうしでん)を引かれ、 と、金紙の存在を明らかにされております。
 もちろん、これは唯授一人の秘伝ですから、私たちにその内容がわかるはずはありません。第五十六世日応上人も、 と仰せられ、法体別付属相承が他に披見を許されない秘伝であると指南されています。
 私たちは、御当代上人の、その時々に応じた指南を素直に受けとめ、成仏の信心修行に邁進(まいしん)するべきなのです。
 部外の者が唯授一人の法体相承をみだりに云云(うんぬん)することは厳に(つつし)むべきです。
[TOP]