第七章 御本尊の書写・授与について
49 御本尊の「書写」とはどういうことですか。
日蓮正宗の各末寺に安置されている御本尊や信徒に下付される御本尊(ニセ本尊は除く)は、すべて根本の御本尊たる本門戒壇の大御本尊のお写しです。御本尊の左下の方を拝すると、「奉書写之」(之を書写し奉る)としたためられています。
「之」とは、とりもなおさず本門戒壇の大御本尊のことです。
この戒壇の大御本尊の御内証を書写できるのは、大聖人より唯授一人の血脈を相承された御法主上人ただお一人なのです。
このことは、第五十六世日応上人が
「金口嫡々相承を受けざれば、決して本尊の書写をなすこと能はず」(弁惑観心抄 212頁)
と、はっきり戒められています。
つまり、御本尊の書写とは本門戒壇の大御本尊を所持され、大聖人の仏法の一切を受けられている御法主上人が金口嫡々相承のもとに、その御内証を書写あそばすことであり、他の誰人もできないことです。
かつて、池田大作氏も
「われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体の法理からおしたためくださるのである」
(広布と人生を語る 一−一一二頁)
と明言していたとおりです。
50 学会では「従来、法主の権能とされてきた御本尊書写などは、実際は単なる『役割』にすぎない」といっていますが、本当でしょうか。
従来、御本尊のことはすべて御法主上人お一人に限られてきたのですから、それは「権限」であり「権能」です。
日蓮大聖人は『百六箇抄』に
「日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」
(新編 1702頁)
と仰せです。さらに日興上人は『日興跡条々事』に
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」(新編 1883頁)
と、本門戒壇の大御本尊を日目上人へ相伝され、さらには日道上人等の御歴代上人に相承されてきました。
『百六箇抄』に
「御本尊書写の事予が顕し奉るが如くなるべし」(全集 八六九頁)
とあるように、御本尊書写のことは、御法主上人の権能です。
さらに御法主上人は、日蓮大聖人の仏法の一切を相承伝持される立場から、御本尊を書写され、我々に下付されるのですから、単に「役割」などという軽いものではないのです。
51 御法主上人以外の人が御本尊を書写したという例はありますか。
御本尊書写の権能は、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人お一人に限られるというのが、日蓮大聖人の教えです。
『本因妙抄』に、
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
と仰せられています。
また、第五十六世日応上人は
「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能はず」
(弁惑観心抄 212頁)
と仰せです。
したがって宗門七百年の歴史において、御法主上人以外の僧侶が、たとえ高徳、博学、能筆の方であろうとも、御本尊を書写したということはありません。
ただし御隠尊猊下が御当代上人の委託を受けて、御本尊を書写されることはあります。(次項参照)
[参考資料]
「尊師自らも在世中一幅の本尊をも書写し玉はざる。唯授一人の相伝なくして書写すべきものに非ざるが故になり、然るに其の末弟として其の禁誡を犯し、恣に血脈相承ありとして、本尊を書写せること、師敵対・僣聖上慢の悪比丘たるべし」(研教 二七−四七二頁)
52 御隠尊猊下が御本尊を書写されることはあるのですか。
御隠尊猊下とは、御法主を退職された方の尊称です。
『日蓮正宗宗規』第十四条の第五項に、
「退職した法主は、前法主と称し、血脈の不断に備える」
とあり、同条第六項には、
「前法主は、法主の委嘱により、本尊を書写し、日号を授与する」
とあります。
すなわち、御隠尊猊下は、唯授一人の血脈が断絶しないよう不測の事態に備えられるとともにまた現御法主上人からの委託(委ねたのむこと)を受けて御本尊書写をされることがあるのです。
53 創価学会では「御本尊の書写や授与などの権限は広布を目指す『信心の血脈』ある和合僧団にこそ与えられる資格がある」といって創価学会の本尊授与を正当化していますが、それでよいのでしょうか。
創価学会には、決して本尊授与の資格はありません。なぜならば、本尊授与は唯授一人の血脈によってなされるからです。
第五十九世日亨上人は、『化儀抄註解』に
「然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限る」(富要 1−112頁)
と仰せられ、本尊授与を含めた御本尊にかかわる一切のことは、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人以外には許されないと教示されています。
学会は「自分たちが和合僧団である」とか「信心の血脈がある」といいますが、総本山大石寺に敵対し、御法主上人を誹謗する現在の学会は、日蓮大聖人の御精神を欠落した謗法集団であり、和合僧団などではありません。
まして「御本尊を授与する資格がある」などは、根拠のない戯言というほかありません。
54 御本尊に関する「書写」「授与」「允可」の権能は、どのような関係にあるのですか。
日蓮正宗において、御本尊を「書写」できる方は、御法主上人お一人であり、御本尊の「授与」および「允可」の権能も、唯授一人血脈相承のなかに含まれているのです。
『本因妙抄』に
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁)
と仰せのように、本尊にかかわるすべてのことは、御法主上人の権能であり、他の誰人も触れることはできないのです。
日興上人の時代において、本尊の大事の相伝もない者が大聖人の直筆御本尊を勝手に形木に彫り、本尊を作って、不信の者に配った例があり、これについて日興上人は『富士一跡門徒存知事』に
「御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賎する由諸方に其の聞こえ有り、所謂日向・日頂・日春等なり」
(新編 1872頁)
と戒められております。
さらに前項(第五三項)の第五十九世日亨上人のご教示からも御本尊の書写や授与などの大権は、すべて御法主上人お一人に限ることが明かです。
55 『本因妙抄』の抄末にある「唯授一人の血脈」の語は、後人の加筆であり、大聖人の教えではないと聞きましたが、本当ですか。
そんなことはありません。「唯授一人の血脈」こそ、大聖人の仏法を正しく末法万年に伝えるための教えであり、大聖人御自らが定められたものです。
『身延相承書』に
とあり、日蓮大聖人から日興上人お一人に血脈を相承されたことが明らかです。これが「唯授一人の血脈」でなくてなんでありましょう。
『本因妙抄』の御文については、重須の第二代学頭であった三位日順師が、『本因妙抄』を解釈して『本因妙口決』を著わし、そこに
「唯授一人の一人は日興上人にて御座候」(富要 2−84頁)
と注記しました。これについて、第六十五世日淳上人は、
「上掲の御文は本抄(本因妙抄)末尾に『日蓮嫡々座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり』との御文につき唯授一人とは日興上人であらせられると、念釈をなされたのである」
(淳全 1449頁)
と仰せられています。
このことからも明らかなように、「唯授一人の血脈」という教えは、日興上人にお仕えした三位日順師が明言しているのですから、「『本因妙抄』は大聖人の御書ではない」などといって、「唯授一人の血脈」を否定する学会の主張は全くの妄説というべきです。
また学会では、御書全集を編纂された日亨上人が、『本因妙抄』の末尾部分が大聖人の教えでないために小さい活字にしたといっています。それでは日亨上人が大聖人の教えでないものを、わざわざ御書に載せたことになるではありませんか。それこそ日亨上人に対する冒涜といえましょう。
56 学会では、『百六箇抄』の「上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」の御文を、後人が勝手に書き加えたもので、大聖人の御書ではないといっていますが、それは本当ですか。
『百六箇抄』のこの御文を「御書ではない」などというのは、本宗相伝の仏法を知らない人の言です。
御書全集には、日興上人が大聖人の代わりに後半部分を書かれた
『滝泉寺申状』をはじめ、全部を代筆された『波木井殿御報』、また『御義口伝』や『御講聞書』のように大聖人の教えを日興上人や民部日向が筆録した講義録など、大聖人の直筆でない御書が多々収録されています。まして『百六箇抄』のような相伝書の場合は、大聖人の御法門を整足するという性格上、大聖人の常の御文体とは違った形で表現されることは当然です。
もし、「大聖人の御筆によらなければ御書とはいえない」というのであれば、相伝書はすべて大聖人の御書ではなくなります。
第五十九世日亨上人が、質問の御文について、『富士宗学要集』に
「義に於いて支吾なき所」(同書 1−25頁)
といわれているように、大聖人の仏法の一切を唯授一人の血脈相承によって受け継がれた御法主上人が御允可され、自ら御書として載録されているのですから、御法門に間違いがあるなどということはありえません。たとえ大聖人・日興上人の直筆がなくとも、その正統な精神と意義において、『百六箇抄』は立派な御書です。
57 「創価学会を破門し、広布を破壊しようとした法主に御本尊を授与する資格はない」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当ですか。
この質問には@創価学会の破門について、A御法主上人が広布を破壊したか否かについて、B御法主上人の御本尊授与の資格について、の三点が含まれています。
@の学会の破門について。
第六十六世日達上人は、昭和五十四年三月三十一日の妙観会において
「長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘してなんとか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい(中略)功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱してしまえば、これはなにも役に立ちません」
(達全 2−7−327頁)
と仰せられていました。残念ながら、この日達上人の危惧が日顕上人の時代に現実のものとなったのです。
このため日顕上人は
「創価学会を破門する必然性があったため、宗門はそれを断行したのである」(大日蓮 553−48頁)
と仰せのように、宗門古来の信仰に照らして厳正に学会を破門処分にしたのです。
Aの広布の破壊について。
池田大作氏が率いる創価学会が、本当に正しい正宗信徒であったのか、また正しく日蓮正宗の仏法を広めていたのかどうか、まことに疑問です。また昭和四十五年頃に「八百万」といっていた信徒数が二十年以上経過した現在、どれほど増加しているのか、はなはだ疑問です。広布の進展を妨げているのは宗門や御法主上人ではなく、池田氏の指導性と学会の体質にあったというほうが適当でしょう。
Bの法主に授与の資格がないという主張は、単なる言いがかりであり、本宗本来の教義に照らせば、御本尊授与に関することは、唯授一人の血脈相承を受けられた御法主上人お一人に限られることは、永遠不変の鉄則なのです。
58 現在も末寺で御本尊を下付されますが、末寺の僧侶にも御本尊下付の権限があるのですか。
日蓮正宗の末寺は、すべて総本山大石寺を根本としております。また末寺の住職は、日蓮正宗管長(御法主上人)の任命によって就任します。
これは本宗の末寺はすべて総本山の所有するところであり、末寺住職は御法主上人の名代として各地に派遣され、定められた寺務・法務を代行することを意味しています。
日有上人の『化儀抄』七十四条に
「本寺直の弘通所にて経を持つ真俗の衆は数代を経れども本寺の直弟たるべし」(富要 1−71頁)
とあり、日達上人も
「その寺の本山法主上人の御代理人たる住職」
(達全 1−4−557頁)
と明確に指南されています。
本宗の末寺において、住職が御本尊を下付するのは、御法主上人の代理として許可を受けたうえでのことなのです。
59 過去には学会の会館で御本尊を授与したことがありましたが、在家信徒にも授与の権能があるのですか。
信徒が勝手に御本尊を授与することはできません。
以前、日達上人の時代に、特別御形木御本尊に限り、創価学会の会館で下付したことがありましたが、これは当時の状況を配慮された日達上人の許可を受けて行われたものです。
したがって、この場合は実質的には日達上人が会員に授与されたということであり、創価学会が授与したということではありません。
御当代日顕上人の代になってからは、従来どおり末寺を通じて下付申請の手続きをとり、末寺において下付されています。
日達上人が『化儀抄略解』に
「守本尊や、常住本尊の下附を、本山へ登山参詣して願うにしても、まず第一に自分の直接の師匠に話をして、その師匠の添書をもらって、本山に願い出て、始めて許可せられてこそ、功徳が備わるのであります」(達全 1−4−512頁)
と述べられているとおり、末寺(所属寺院)を通して、御本尊の授与がなされるのが、本来のあり方なのです。
60 「御本尊の偉大なる功徳を実証した者」には御本尊を授与する資格があるのですか。
日蓮正宗七百年の歴史において、御本尊の偉大な功徳を実証された僧侶・信徒は数多くいますが、その人たちが勝手に御本尊を作り、授与したということは一度もありません。
およそ、自分が御本尊の偉大な功徳を実証したなどということ自体が、増上慢の極みであり、この池田大作氏の慢心が、かつての清浄な創価学会を謗法の団体としてしまったのです。
日寛上人は『三重秘伝抄』において、
「法体と修行を混同することは誤りである」(聖典 818頁 取意)
と破折されています。
すなわち「御本尊の偉大な功徳を実証する」ということは衆生の信心修行の領域であり、「御本尊の書写・授与」とは法体に関することであって唯授一人血脈付法の大導師の権能です。この二面を混同することは大きな誤りといわねばなりません。
第六十六世日達上人は
「長い間学会はよく宗門のために尽くして下さいました。その功徳は大きいのであります。しかし功績が大きいからといって教義を間違えて宗門から逸脱してしまえば、これはなにも役に立ちません」
(達全 2−7−327頁)
と指南されています。
たとえ御本尊の功徳を実証したからといって、相伝なき凡夫が御本尊の権能にまで立ち入ることは絶対に許されないことです。
61 御本尊を授与する場合は、総本山の許可が絶対に必要なのですか。
御本尊授与には、本門戒壇の大御本尊の法体がまします総本山の許可が必要です。総本山の許可ということは、御法主上人の許可ということです。
総本山第九世日有上人は『化儀抄』に
「実名・有職・袈裟・守・曼荼羅・本尊等の望みを、本寺(総本山)に登山しても田舎の小師へ披露し、小師の吹挙を取りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然るべく候、直に申す時は功徳爾るべからず」(聖典 九七四頁)
と仰せられ、御本尊の授与は末寺の住職を通して、総本山の御法主上人へ願い出なければならないと定めています。
また、第五十九世日亨上人は『有師化儀抄註解』に、
「授与する人は金口相承の法主に限る」(富要 1−112頁)
と仰せです。
このように御本尊の授与は、すべて御法主上人の権限であって、総本山の許可が絶対に必要なのです。
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