第八章 法主上人の允可、開眼について

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 62 「允可(いんか)」とはどういう意味ですか。

 「允可(いんか)」とは、一般に、師匠が弟子の悟りに対して、許可を与えることであり、印可とも書きます。
 日蓮正宗においては、信心修行の根本となる「本尊」は、本仏の悟りであり、仏の当体ですから、こと「御本尊」に関しては允可は絶対に必要なのです。
 日蓮正宗では、大聖人の仏法を相伝された唯授一人の御法主上人の允可による本尊を立ててこそ成仏が可能なのですから、御法主上人の允可のない本尊は『ニセ本尊』であり、これを拝むことは()地獄の因となります。
 創価学会の『折伏教典』にも と書かれています。


 63 「開眼(かいげん)」とはどういうことですか。

 開眼(かいげん)とは一般には「魂を入れる」などといわれていますが、書写された御本尊を法によって供養し、魂を入れることです。
 日蓮大聖人は『本尊問答抄』に と仰せられ、『四条金吾釈迦仏供養事』に と説かれております。
 また、第三十一世日因上人は御消息の中で と仰せられ、第五十六世日応上人は と仰せのように、本宗において御本尊の開眼は、本門戒壇の大御本尊の功力と、「大事至極」の「極意の相伝」による御法主上人の允可によらなければなりません。
 ちなみに学会の『仏教哲学大辞典』では、 と説明していますが、今日の学会のように「信心をもって拝すれば、本尊も開眼できる」と指導するのは、大きな誤りです。


 64 末寺で下付されてきた御本尊は、御法主上人が開眼されたものなのですか。

 本宗における「開眼(かいげん)」とは、御法主上人の允可(いんか)によって、本門戒壇の大御本尊の血脈が通じることであり、従来、末寺で信徒に下付されてきた御本尊は、すべて御法主上人の允可すなわち開眼がなされてきたものです。
 『大白蓮華』にも と説明していたように、宗門では七百年来本門戒壇の大御本尊のもと、御法主上人によって御本尊の開眼がなされてきたのです。


 65 学会では「本尊の開眼などは僧侶の権威を高めるための儀式、実際には無用のもの」と指導していますが、どうでしょうか。

 大聖人は『木絵二像開眼之事』に、 と、開眼供養をしなければ主人のいない家に盗人が入り、魂の去った死人に鬼神が入ってしまうようなことになると教えられています。
 このように日蓮大聖人自ら開眼の重要性を示されることからもわかるように、御本尊の開眼は本宗の伝統法義なのです。
 かつて、池田氏は と述べていました。
 これらの池田氏の指導は、「正宗の伝統法義を守る」ことが「創価学会の根本軌道であり」将来にわたって絶対に崩してはならない不動の路線として示されたものです。
 御本尊の開眼は本宗の伝統法義の中でも、最も重要なものです。
 それを都合が悪くなると「権威を高めるための儀式」だとか、「無用のもの」などと指導する学会のいい分は、まさに自語相違です。


 66 聖教新聞には「拝する側の信力・行力によって、御本尊の仏力・法力は発現する。これが本来の開眼の意義である」(H五・九・二〇 取意)といっておりますが、これは正しい考え方でしょうか。

 このような考え方は、大変な間違いです。
 なぜなら「拝する側の信力・行力」とは凡夫衆生の信心(観心)であり、「御本尊の仏力・法力」とは御本仏(本尊)の力用のことで、この仏意・機情の二義を同等に論ずることは法義の混乱になるからです。
 日寛上人は、『観心本尊抄文段』に と、厳しく二義の混同を戒められ、さらに同書に と、信仰者の信力・行力よりも、正しい御本尊を正境として信仰することが第一番に大事であると説かれています。
 もし聖教新聞のいうとおりならば、他宗の人でも信力・行力があれば御本尊の開眼ができることになり、身延日蓮宗の漫荼羅も信力・行力によって正しい本尊に開眼できることになりますが、このような説は前代未聞の愚論というべきです。


 67 昔は末寺でも、法主の許可なしで御形木(おかたぎ)御本尊を作って下付していたのではないでしょうか。

 宗門においては古来、御本尊を御法主上人の許可なしで下付したことはありません。
 第六十六世日達上人は、『化儀抄略解』の注に と仰せです。
 このように御形木御本尊を末寺で作り、下付されたことがあっても、それは特殊な時代状況のもとで、御法主上人の許可を得て、一時的に行なわれたことです。
 また、たとえ特殊の事情があったとしても、こと御本尊に関しては、第二十九世日東上人が『当家法則文抜書(ぬきがき)』に と教示されているように、本宗では昔から、御本尊に関してはすべて御法主上人の許可が必要だったのです。
 今日、学会で御本尊を勝手にコピーし、授与するなどはもってのほかの所業なのです。


 68 聖教新聞によると「従来は御本尊に関する権能が法主一人に限られたが、現在は『一閻浮提総与』の意味からも法主一人に限定する時代ではない」(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)とありますが、それでよいのでしょうか。

 この主張は、創価学会の「ご都合主義」による思いつきの邪説であり、「一閻浮提総与」の意味を歪曲(わいきょく)した邪義です。
本宗においては御本尊の大権は、唯授一人血脈付法の御法主上人にのみ具わっており、このことは一貫して不変のものです。「一閻浮提総与の大御本尊」とは、「全世界の人々が信受すべき御本尊」との意味であって、民衆が御本尊の権能を持つということではありません。
 そもそも「従来」と「現在」の時間的な立て分けは何を根拠にしているのでしょうか。第六十五世日淳上人はかつて、 と述べられましたが、これは妙法流布の相を区分されたものであって、御本尊の権能や僧俗の立て分けを述べられたものではありません。
創価学会では、十数年前に と発表しながら、破門されるや、などといって、簡単に「不動の路線」を変更しています。
 学会では「不動」という言葉のもつ意味がわからないのでしょうか。
 ともあれ、このような学会の主張を「詭弁(きべん)」というのです。


 69 宗門から離脱した僧侶の話では「総本山でも末寺でも御形木御本尊の開眼などは、していない」とのことですが、本当ですか。

 宗門から離脱した僧侶の話が、はたして信じられるでしょうか。創価学会の手先となり、血脈付法の御法主上人から頂いた袈裟と衣を身につけて、「宗門は悪」「猊下は悪」と喧伝(けんでん)している不知恩の徒輩ですから、はじめから信じるに足りないのは当然のことです。
 御当代日顕上人は、御登座(とうざ)以来今日に至るまで、御本尊を必ず()宝前(ほうぜん)にお供えし、開眼されています。
 末寺住職は御法主上人の任命を拝し、名代として住職の任を務めています。檀信徒に御本尊を下付するときは、その名代としての責務の上から、御法主上人の允可のもと、御形木御本尊を「本門戒壇の大御本尊」の分身たる寺院の御宝前に供え奉り、読経唱題を申し上げるのです。
 この尊厳なる責務を忘れ、邪智謗法の創価学会と(くみ)する離脱僧には、始めからこの尊厳なる責務を全うする信心がなかったのです。
 「あるものをない」といい、「ないものまである」といって、檀信徒を(たぶ)らかす離脱僧は、まさに僧形の天魔といえましょう。


 70 特定の人に与えられた御本尊を、他の人が拝んでも功徳はありますか。

 基本としては、願主が誰であっても、本宗の御本尊を正しく信仰するならば、誰にでも功徳はあります。
 しかし、この質問は、今回創価学会が(じょう)(えん)()大行(だいぎょう)阿闍梨本證坊授与の日寛上人御書写の御本尊を、御法主上人の許可なく授与書きを削除し、コピーして会員に販売していることについて、御本尊をこのように勝手に扱ってもよいのか、ということでしょう。
 実例を挙げて説明しましょう。
 「お守り御本尊」は授与を受けた願主が死亡した場合、寺院に返納するのが原則です。
 また授与書きのある「常住御本尊」も、願主が死亡したときには寺院に返納します。遺族が引き続きその御本尊を受持したいときは、「感得(かんとく)願い」を申し出なければなりません。
 寺院の常住御本尊には脇書(わきが)きに「○○寺安置」としたためられている御本尊がありますが、その御本尊の御安置の場所を変えるときも、御法主上人の許可が必要です。
 要は、本宗の御本尊はすべて日蓮大聖人の魂魄(こんぱく)であり、御本仏の当体ですから、大聖人の仏法を受け継がれている御法主上人の許可なく、勝手に取り扱うことは厳しく戒められているのです。
 今回の学会のように、御本尊の授与書きを勝手に削り、勝手にコピーして販売することは、大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪となります。


 71 学会では、「(いっ)()一縁(いちえん)」とは大聖人の直筆御本尊に限られるもので、今回下付するのは日寛上人が「一閻浮提総与」の御本尊を書写されたものだから問題ないといっていますが、本当ですか。

 ここでも学会は二重の(あやま)ちを犯しています。
 第一は「(いっ)()一縁(いちえん)」の過ちです。御本尊には、万人を対象とした御本尊と、末寺や個人を対象にした御本尊とがあります。
 万人を対象とした御本尊を「一閻浮提総与の御本尊」といい、現在奉安堂に御安置されている「戒壇の大御本尊」ただ一体を指します。
 それ以外の授与の御本尊はすべて「一機一縁の御本尊」と称します。
 そして、大聖人入滅後の御本尊書写は、日興上人以来血脈相承の御歴代上人が受け継がれ、その時々の僧侶や信徒、寺院に対して「一機一縁」の御本尊を書写し授与されるのです。
 学会でも一機一縁について と説明し、御歴代上人の御本尊が一機一縁であることを認めています。
 第二は「一閻浮提総与の御本尊を書写されたものだから問題ない」といって、今回の日寛上人御書写の御本尊のコピ−(ニセ本尊)を正当化し、授与書きを抹消(まっしょう)したことを弁解していますが、本宗では昔から「一閻浮提総与の御本尊を書写した御本尊だから誰が複製してもよい」とか「一閻浮提総与の御本尊を書写した御本尊だから授与書きを抹消してもよい」などという教えはありません。
 このような学会の行為は大謗法なのです。


 72 創価学会の『ニセ御本尊』は、日寛上人の享保五年六月十三日御書写の御本尊に書かれていた「下野国小薬邑本如山浄圓寺大行阿闍梨本證坊日證授与之」という「授与書き」を抹消していますが、このような変造は許されることなのでしょうか。

 絶対に許されることではありません。
 この御本尊は、日寛上人が本證坊個人に授与されたものですが、これを後の住職が御法主上人の許可もなく他人に提供したり、第三者が勝手に変造し、授与することなど、絶対にあってはならないことです。
 もしそういうことが許されるならば、常住御本尊を下付された信徒は、誰でも勝手に変造し、複製してもよいことになります。
 日興上人は『富士一跡門徒存知事』に と示され、大聖人の御本尊の散失を防ぐためとはいえ、日興上人御自身が「授与書き」を書き加えることすら、「聖筆を黷す恐れあり」と自戒されているのです。
 それを相承なき(やから)が、勝手に「授与書き」を削除し、不特定多数の者へ配布することは、日寛上人の御心を踏みにじる行為になるのは当然です。
 「授与書き」について同抄に とあるように、御歴代上人が書き付けられる「授与書き」には甚深の意義があるのですから、これを法主上人の許可もなく勝手に削り取ることは絶対に許されないのです。


 73 御本尊の「授与書き」を抹消することが大謗法ならば、御歴代上人の御本尊に、「願主弥四(やし)郎国重(ろうくにしげ)」という「授与書き」が書かれていないのは大謗法になりませんか。

 御本尊の書写については、唯授一人の血脈相承による秘伝であり、他の者がとやかく疑難をさしはさむべきではありません。本門戒壇の大御本尊を一番初めに書写された方は第二祖日興上人です。
 その日興上人は宗祖日蓮大聖人から仏法の一切を相承伝授されていることは間違いない事実であり、その相伝による甚深の御境界の上から御本尊を書写されているのです。
 相伝の大事を知らない者が、日興上人以来の御歴代上人の御本尊書写についてとやかくいうことは厳に慎むべきです。
 要は、「法体相承」すなわち宗祖の魂魄(こんぱく)たる御本尊を相伝された御法主上人の許可なく、他の者が勝手に御本尊を複写し、「授与書き」を削除(さくじょ)し、変造することが大謗法になるのです。


 74 現在の創価学会は、本当に日寛上人の御精神に(かな)った教団なのですか。

 創価学会では、 といって、日寛上人をあたかも学会のシンボル的存在として宣伝しています。しかし、現在の創価学会は日寛上人の御精神に背反(はいはん)しております。その例をいくつか挙げてみましょう。
 第一に、学会では、三座の報恩謝徳の観念文から日寛上人をはじめとする御歴代上人を削除していますが、日寛上人は『福原式治状』の中で勤行の観念について、「第三座は十如・壽量、祖師代々」と記されており、総本山大石寺の歴代上人への御報恩謝徳の観念を欠かされなかったのです。
 第二に、学会では、三宝の中の僧宝を日興上人お一人に限定したり、「創価学会こそ僧宝である」などといっておりますが、日寛上人は『当家三衣抄』に、本宗の三宝を明かす中で僧宝として日興上人、日目上人を挙げたのち、 と、御歴代上人を僧宝と立てられています。
 第三に、学会では、唯授一人金口(こんく)相承を否定し、三大秘法の御本尊も法主から法主に付嘱されるのではなく、万人に与えられたもの≠ニいっていますが、日寛上人は『寿量品談義』に と仰せられ、本門戒壇の大御本尊が唯授一人の金口相承として、代々の御法主上人に受け継がれ、厳然と大石寺にましますことを説示されています。
 第四に、日寛上人は総本山大石寺の御法主として、『六巻抄』『文段』等を著わされ、邪義邪宗の徒から大石寺を厳護するために、全力を傾注(けいちゅう)されましたが、現在の学会は総本山を敵視し、宗門を攻撃しています。この学会の姿を見られたならば、日寛上人の憤りはいかばかりでありましょう。
 このような事実を(おお)(かく)し、総本山大石寺に敵対して学会の御本尊授与は日寛上人御自身の誓願≠ネどとうそぶく創価学会は、まさに不知恩の徒というべきです。今や創価学会は、「宗教団体」とは名ばかりで、その中味は、本尊も題目も化儀もすべて、大石寺のそれを模倣したものばかりではありませんか。迷走する創価学会は、いずれ日寛上人をも否定することになるのは明白です。


 75 「御本尊根本の信心」や「広布を目指す信心」があれば、誰が本尊を複製してもよいのですか。

 そのようなことは絶対にしてはいけません。
 『本因妙抄』に と教示されているように、戒壇の大御本尊の護持ならびに御本尊の書写と授与など御本尊に関する一切の権能は、唯授一人血脈付法の御法主上人に限るのです。
 学会でいう「御本尊根本の信心」とは本書三一項に破折してあるとおり、「大聖人直結の信心」ということと本質的に同じことです。これらはともに本来の日蓮正宗の信心ではありません。
 また「広布を目指す信心」とは本宗の僧俗が常に心がけなければならないことですが、だからといって「広布を目指す信心」があれば御本尊を複製してもよいということにはなりません。これも本書六七項に破折しているように、衆生の「観心」と本仏の「本尊」とを混乱した邪義というべきです。


 76 今回の創価学会のように、末寺の住職から所蔵の本尊を提供されれば、在家の者が複製して配布することは許されるのですか。

 そのようなことは絶対に許されません。
 かつて池田氏は と、御法主上人お一人が末法の大白法を伝え、そのうえから御本尊をおしたためくださったといっていました。
 『本因妙抄』に と御教示のように、御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能があります。
 したがって、たとえ末寺所蔵の御本尊であっても、末寺の住職の勝手な判断で、御本尊を他人に提供することなど許されません。日興上人は、 として、大謗法であると断ぜられております。
 また、もし御法主上人の許可を受けて末寺住職が御本尊を在家の人に下付したとしても、それを勝手に複製したり配布することは、当然大謗法です。


 77 「正本堂賞与御本尊」について教えてください。

 昭和四十七年の十月、全世界の日蓮正宗の僧俗の御供養をもって、総本山に正本堂が完成されました。
 その発願(ほつがん)者である池田氏に対し、第六十六世日達上人は「正本堂賞与御本尊」を授与し、その功績を(たた)えられたのです。
 ところが池田氏は正式な手続きをとらず、この御本尊を勝手に模刻し、会館に安置して一般の学会員に拝ませたのです。
 日達上人は後に昭和五十三年六月二十九日の教師指導会において と仰せられています。
 御法主上人の允可(いんか)を得ないで、池田氏が勝手に模刻した本尊は、まさに『ニセ本尊』であり、これは後日、池田氏等の詫びとともに、総本山に納められ、二度と日の目を見ることなく今日に至っております。
 なお「正本堂賞与御本尊」の裏に、日達上人の直筆(じきひつ) と書かれていますが、これは当初、学会側から と書いてほしいと原稿を持参して申し入れてきたものです。
 日達上人はこの不遜(ふそん)な申し入れに苦慮のうえ、あえて「準」の一字を入れられて、学会の慢心を戒め、正本堂が直ちに事の戒壇ではないことを念のために書かれたのです。



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