第九章 御授戒について
78 日蓮正宗の授戒にはどのような意義があるのでしょうか。
本宗の授戒は、御本尊の御宝前において、僧侶の導師によって読経・唱題した後、御本尊を頭に頂戴し、爾前迹門の謗法を捨てて、一生の間退転なく、三大秘法を受持することを下種三宝に誓う儀式です。
これによって、授戒者は大聖人以来の血脈に浴し、妙法の信仰者として認められるのです。
大聖人は最蓮房に「授職灌頂」をしておられますが、これは現在の御授戒に当たります。(次項参照)
この戒体について『教行証御書』に
「但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず。是を金剛宝器戒とや申しけん」( 新編 1109頁)
と仰せられ、一度受けた戒体は未来永劫に失せることなく存続し、必ず自分自身を成仏へ導く力となるのです。
御本尊を頭に頂戴し、本門の戒体を授かることによって、事実の上に仏界を具し即身成仏の当体となることができるのです。
そのような意義から御授戒は重要な儀式なのです。
〔参考文献〕
「久遠の一念元初の妙法を受け頂く事は、最極無上の潅頂なり」
(百六箇抄・新編 1699頁)
「十界三千の諸法を一言を以て授職する所の秘文なり」(御講聞書・新編1860頁)
79 「受持即持戒」という仏法の本義に立てば、従来の御授戒の儀式は必要ないものになるのですか。
「受持即持戒」とは、本門戒壇の大御本尊を受持することによる功徳を表現したものであって、信仰の出発となる授戒の儀式が不要であるという意味ではありません。
日蓮正宗では御授戒の儀式により、邪宗の謗法を捨てて、三大秘法を持つことを誓います。
日蓮大聖人は、『最蓮房御返事』に
「結句は卯月八日夜半寅の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり。此の受職を得るの人争でか現在なりとも妙覚の仏を成ぜざらん」(新編 587)
と示され、また『得受職人功徳法門抄』には、
「釈迦すでに妙法の智水をもって日蓮の頂に灌いで面授口決せしめ給う。日蓮又日浄に受職せしむ」(新定 1―854頁)
と仰せになり、大聖人自ら最蓮房に対し、本円戒を授けたことを明示されています。
この授戒は僧侶に対してでありますが、信徒もこれに準じて考えるべきです。
「受持即持戒」の大法だからこそ、正法を受持することを誓う御授戒は大切な儀式なのです。
80 『十法界明因果抄』に「爾前経の如く師に随ひて戒を持せず、但此の経を信ずるが即ち持戒なり」(新編 216頁)とありますが、これは授戒の儀式を不要とする文証ではありませんか。
この御文は、釈尊の仏法において、法華経を信ずる者は戒を持つことになると明かされたもので、この文の前には
「爾前の十界の人、法華経に来至すれば皆持戒なり」
とあるとおりです。
ですから、この御文をもって「僧侶による授戒は不要だ」などというのは、的はずれのいいがかりにすぎません。
本宗の御授戒は大聖人の時代からとり行なわれてきたものであり、即身成仏のために大事な儀式なのです。
もし、今になって「御授戒は必要ない」というなら、近年、何百万という人が御授戒を受け、日蓮正宗に入信された事実はどうなるのでしょう。御授戒は無駄なことであった、とでもいうのでしょうか。
大聖人様は『御義口伝』に
「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり」
(新編 1765頁)
と仰せられておりますし、日寛上人の『福原式治状』にも、
「本尊等、願の事。之れ有るにおいては、遠慮なく申し遣べし(中略)たとへ授戒候とも、本尊なくば別して力も有るまじく候」
とあり、当時、御授戒が行なわれていたことが明らかです。
81 学会では「御授戒の儀式は、昭和十二年ごろ牧口会長が宗門に依頼して始められたもので、古来不変の伝統などはない」といっていますが、本当でしょうか。
御授戒は大聖人御在世当時から行なわれていました。
『最蓮房御返事』に
「結句は卯月八日夜半寅の時に妙法の本円戒を以て授職潅頂せしめ奉る者なり」(新編 587頁)
とあり、この「授職潅頂」とは御授戒の意味です。
また、江戸時代には金沢の信徒が受戒したことが日寛上人の書状から伺えます。(前項参照)
ただし戦前から戦後にかけて厳しい言論統制と布教の抑圧があり、地方では御授戒を行なう機会がなかった寺院もありました。だからといって「御授戒は学会のはたらきかけによって始められた」というのは間違いです。
[TOP]