信仰に反対する人へ


13 利益や罰はその人の心の持ち方によるのであって、客観的にあるものではない



 人間の幸福と不幸を、線を引いて区分(くぶん)することはできません。まったく同じ条件のなかにあって、ある人は自分は不幸だと思う人もいれば、別な人は自分は幸福だと思う場合もあります。ひとつの結果を利益とみるか、罰とみるかはその人の心や考え方によって決定されるといっても間違いではありません。
 「心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば火もまた(すず)し」という言葉がありますが、どこまで心頭を滅却(無念無想(むねんむそう)の境地)できるか、どの程度の火熱(かねつ)を涼しく感ずるかという限界点は個人差がありましょう。しかし普通の人で、真っ赤に焼けた鉄にふれても何も感じない人はいません。また食事をとらないで一日二日は我慢(がまん)できても、十日も二十日も絶食して平常と変わらない人はいません。どんな人でも体に激痛(げきつう)を感ずれば心も落着(おちつ)かなくなるのは当然です。
 これらの事実から見ても、現実の結果や物事(ものごと)(ひょう)()は人間の心によって決定されるものですが、心はまた現実の物質世界に支えられていることがわかるでしょう。
 これらの原理を仏法では「色心(しきしん)不二(ふに)」といって物質や肉体(色)と精神(心)はたがいに(はな)れることなく一体であると説いています。
 この色心不二の生命に根本的な影響を与えるものが宗教です。 日蓮大聖人の教えによりますと、妙法を信受(しんじゅ)する者について、(おお)せられ、心に禅定を()るばかりでなく、身体も安穏(あんのん)になると説かれています。 また、正法に(そむ)く者について、経文を引用して、 と説かれています。この文の意味は、というのです。
 これらの教えは因果(いんが)の道理、すなわち善因(ぜんいん)を積めば善果(ぜんか)()悪因(あくいん)には悪果(あっか)を生じるという当然の姿を(しる)したものであり、正法を信受する者には大利益(だいりやく)が、不信(ふしん)毀謗(きぼう)の者には厳然(げんぜん)とした(ばち)が、身心両面に現れることを説いているのです。
 真実の幸福と安穏な境涯は、凡俗(ぼんぞく)の私たちが心でどのように受けとめるか、あるいは一時的な感情でどのように考えるか、というところにあるのではなく、正しい仏法をいかに余念(よねん)なく信受(しんじゅ)し、行じうるかにかかっていることを知るべきでしょう。