自称在勤教師会では
「日蓮大聖人といっても、鎌倉時代の日蓮、上行再誕の日蓮、本仏日蓮等、それぞれ意義が違うのであり、日寛上人の記述に蓮師、蓮祖聖人、蓮祖大聖人、南無日蓮大聖人等の立分けが伺える」
とか
「日寛上人は鎌倉に出現された宗祖については、蓮祖と称され、宗祖の魂魄を蓮祖聖人、師弟一箇の法体を蓮祖大聖人、師弟一箇の本尊を南無日蓮大聖人と称され、凡身の大聖人と区別され、本尊を論じている」
と力説する
▼この説について、過日、某委員より疑点多し、検討の要あり≠ニの発言があり、早速、数名の委員が確認のため文献をめくる。なにしろ狂者のうわ言に近い無責任な放言だから、確認のためとはいえ、付き合うほうも楽ではない。間もなく彼等の馬脚が露われた
▼「蓮祖」について日寛上人は、文底秘沈抄に
末法相応抄に
「人法体一の故に蓮祖を以って本尊と為す」、
当流行事抄には
「蓮祖若し久遠元初の自受用身に非ずんば焉んぞ教主釈尊に勝るることを得可けんや」
と説いて、「蓮祖」こそ久遠元初の自受用身であり、人法体一の本尊なることを明示されている
▼この外に
「自受用身とは即ち是れ蓮祖聖人云々」(聖典九〇七)
などの文もあり、寛尊の六巻抄において蓮祖と蓮祖聖人の間に特に意義の差異は見られない
▼ここで彼等は三つの重大な誤ちを犯している。その第一は、あたかも寛尊が仏身の大聖人と凡身の大聖人を立て分けているかのように偽証していること
▼第二は、「蓮祖」という呼称が非本仏の凡身日蓮に限るという彼等の説は、前引の文証に照らしても全くの虚言であること。なお、これに関連して
という彼等の説を見るに、文底秘沈抄には文永八年の竜口で発迹顕本された文証たる
の開目抄の聖文を釈して、
と仰せられている。すなわち、開目抄にいう魂魄たる顕本後の大聖人をも「蓮祖」と称されており、ここでも彼等は幼稚な
欺瞞を犯している
▼第三に、彼等はあたかも寛尊が
を主唱しているかの如く宣伝し、
冒涜していることである。もし彼等の説の如く、
末法出現が本仏らしくないというならば、寛尊の
「本因妙の教主釈尊とは即ち是れ末法出現の蓮祖聖人の御事なり」(聖典九一三)
の文に背き、もし
凡身日蓮を
疎んずるならば
「久遠元初の自受用身とは本因名字の報身にして(中略)但名字凡身の当体なり」(聖典九一四)
の指南に反する
▼所詮、末法の本仏とは末法出現名字凡身の日蓮大聖人であり、寛尊の御教示はここに尽きているのである。愚劣な立て分けや、うわ言は後代のお笑いぐさでしかない。
(水島)