「蓮祖」と「蓮祖聖人」の違いについて

 
 自称在勤教師会では とか と力説する

▼この説について、過日、某委員より疑点多し、検討の要あり≠ニの発言があり、早速、数名の委員が確認のため文献をめくる。なにしろ狂者のうわ(ごと)に近い無責任な放言だから、確認のためとはいえ、付き合うほうも楽ではない。間もなく彼等の馬脚が(あら)われた

▼「蓮祖」について日寛上人は、文底秘沈抄に 末法相応抄に 当流行事抄には と説いて、「蓮祖」こそ久遠元初の自受用身であり、人法体一の本尊なることを明示されている

▼この外に などの文もあり、寛尊の六巻抄において蓮祖と蓮祖聖人の間に特に意義の差異は見られない

▼ここで彼等は三つの重大な誤ちを犯している。その第一は、あたかも寛尊が仏身の大聖人と凡身の大聖人を立て分けているかのように偽証していること

▼第二は、「蓮祖」という呼称が非本仏の凡身日蓮に限るという彼等の説は、前引の文証に照らしても全くの虚言であること。なお、これに関連して という彼等の説を見るに、文底秘沈抄には文永八年の竜口で発迹顕本された文証たる の開目抄の聖文を釈して、 と仰せられている。すなわち、開目抄にいう魂魄たる顕本後の大聖人をも「蓮祖」と称されており、ここでも彼等は幼稚な欺瞞(ぎまん)を犯している

▼第三に、彼等はあたかも寛尊が を主唱しているかの如く宣伝し、冒涜(ぼうとく)していることである。もし彼等の説の如く、末法出現が本仏らしくないというならば、寛尊の の文に背き、もし凡身日蓮を(うと)んずるならば の指南に反する

▼所詮、末法の本仏とは末法出現名字凡身の日蓮大聖人であり、寛尊の御教示はここに尽きているのである。愚劣な立て分けや、うわ言は後代のお笑いぐさでしかない。
(水島)
 
大日蓮昭和58年7月(第449号・94頁)
(O印の付された文字は色づけした)
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