「師弟一箇の本尊」という邪説の文証について

 
 自称在勤教師会が主張する邪説のひとつに「師弟一箇の本尊」説がある。我々にとって「人法一箇の本尊」とか「師弟相対の信心」という本宗古来の用語ならば、よく拝承するところであるが、「師弟一箇の本尊」という未聞の珍説を理解するとなると、至難この上ない。それというのも、彼等の主張内容が深遠だからではなく、あまりに独善的であり、混濁(こんじょく)しているからにすぎない

▼むろん師弟一箇の本尊を立証する文拠などあろうはずもないが、彼等は我見を正当化しようと腐心し、次のように強弁する。云く と。これをさらに転開して、彼等は という

▼有師の仰せとは、長録二年の春、筑前阿日拾が登山した折、日有上人より承った話を記録したもので、有師の御意をどこまで正確に伝えているかは定かではないが、例えば「受持斯経」の経文を、日寛上人が と釈されたように、この引文は、衆生(機)の受持と師弟相対の信心、即ち仏果の大聖人を師と定め、九界本因妙の日興上人を弟子と定めて、本宗における正当な師弟のあり方を後代に教示したものにほかならない

▼この有師の仰せのいずこに「師弟一箇」や「無差別の中で師弟が入れ替わって修行する」などの意義があるというのであろう。当家における師弟相対とは、「師弟無差別」や「師弟同等」の意味ではなく、弟子を垂教善導する師と、師を尊信拝伏する弟子との関係をもって本義とするのである

▼その証拠が、彼等の引文中、(中略)と割愛した部分に記されているのだから皮肉である。そこには とあり、画然(かくぜん)たる師弟の関係を明示している

(ちな)みに「結帰」の二字は、現在「結縁」と改正されていることを付記する。(せん)ずる所、有師仰せの御文全体は、むしろ師弟無差別論や師弟一箇の本尊説などを破祈する文証なのである

▼自分の都合によって、先師の御文を隠蔽(いんぺい)し、切り貼りすることは、最も卑劣な恥ずべき行為である。
 (水島)
大日蓮 昭和58年8月(第450号・84頁)
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