己心の仏国土に関する文証について

 
▼自称在勤教師会いわく
と。

▼いま、ここに引用される三つの御文(注・@AB)が本当に衆生の己心に御本尊が建立されたり、仏国土になるなどの珍説を立証するものか否かを検討してみよう。
 第一に@の文については『観心本尊抄』に
とあり、これを日寛上人は、観心本尊の依文なりと示されて
と対境の本尊を明かし、続いて
と説いて前段に明示された大聖人所顕の御本尊を信ずる衆生の色心にはじめて仏力、法力が光被されることを教示されている。それゆえ@の文は、正境を信ずる心が大切であることの文証にはなるが、衆生の己心に御本尊が建立されるなどの文証ではない。当然のことであるが当宗の信心≠ニは大聖人御図顕の大御本尊が(ましま)して、はじめて信力、行力として成り立つのである。

▼Aの文は『蒙古使御書』の一節であり、引用の文は、後に続く の一文に掛かり、その御意は法華経に至って一念に百界千如・三千の具足が説かれ、万法は己心に収まることが明かされたとの趣旨である。この己心たる一念をめぐって法華経の中にあっても迹門・本門・文底の立場に雲泥の相違があることは、寛尊の『三重秘伝抄』等に明白であり、この相対・教判こそ当宗教義の冲微(ちゅうび)というべきである。
 もし文底の立場よりこの一念を解釈すれば との教示に尽きるのである。故にAの文も彼等の衆生己心に執する主張を立証するものではない。

▼Bの文は、夫を身延まで遣わした千日尼に対して大聖人が と、その信心を()でられ、仏に成る道も同様に身は穢土にあっても心は霊山に住むのであると指南された箇所である。これをもって拝察するにBの文は あるいは と同趣旨の御意と拝すべきであって、間違っても衆生の己心に戒壇が建立されるなどの文証にはなりえないのである。

▼要するに彼等は意味のとり違えを犯し、全く的はずれの引用文をふり回して我見を吐いているにすぎない。彼等の読解能力がいかに乏しいかを物語る一例ではある。
(水島)
大日蓮 昭和58年12月(第454号・78〜79頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正)
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