「事を事に行ず」の文について

 
▼日寛上人の講義を第二十九世日東上人が筆録きれた『観心本尊抄聴聞荒増(あらまし)』には事行≠ノついて次のように記されている。

▼自称在勤教師全の徒輩は何を血迷ったか、この御文をもって と言い、 のだという。彼等の底意に曼荼羅本尊を否定し、己心建立本尊説を主張しょうとする意図は見えすいているが、果たして彼等の解釈が正当で、この御文が彼等の論拠になりうるか否かを検討してみょう。

▼引用文は、要法寺日辰が台家の理観を捨てて唱題する故に事行となると立てたのに対し、日寛上人が破折し説示したものである。御文を率直に解するならば、事行と称する理由は事の法体を事実に行ずるからである。では事の法体とは何かといえば、元初の自受用身宗祖の色心全体が事の一念三千であり、これを事相の上に一幅の曼荼羅として図顕されたので事の法体≠ニいうのである。これについて『文底秘沈抄』にも
と説き、事の妙法と事相の曼荼羅とが契合してはじめて事の法体となることが明かされている。

▼この事の法体たる事の一念三千の御本尊を事実に修行するところを事行ということを教示され、寛尊は日辰を次のように破折された。
と。ところが彼等はこの破折の一部を直ちに当家の化儀にあてはめて、あたかも当宗の唱題や本尊図顕が事行にならないかのように喧伝(けんでん)している。

(あやま)るなかれ。寛尊は当宗の御本尊の事理を詮索(せんさく)しているわけではないし、曼荼羅本尊を軽視することを説いているわけでもない。教説の文言(もんごん)すべてこれ只管(ひたすら)本門戒壇の大曼荼羅こそ元初仏であり、事の一念三千の当体なることを叫ばれているのである。仰せに云く
 当宗の御本尊はすでに事の一念三千の法体として、本門戒壇の大曼荼羅として確定し、厳然と相伝されているのである。

▼彼等の「物体のみをもって本尊とするのは間違い」という邪見は、『本尊抄文段』の
の一文によって粉砕されるであろう。また「口唱の題目をもって真実絶対とする訳にはいかない」との妄見は、『本尊抄聴聞荒増』の
の正義に背逆する魔説となろう。

▼当宗の教学は、信心修行の増進のため相伝の指南に随って深遠な宗祖の御聖意を拝服習学することであり、まず御書や指南書を虚心に拝承することから始まる。彼等の如く、一人の門外漢が発する思いつきの託宣(たくせん)を粉飾するために御書・文書を誤読曲解し切り貼りすることは仏法破壊以外の何物でもない。その意味では彼等こそ現代の()仏法(ぶっぽう)(じょう)の外道というべきであろう。
(水島)
大日蓮 昭和59年2月(第456号・82〜83頁)
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