一言摂尽(しょうじん)の題目について

 
▼日蓮大聖人は『本因妙抄』において、台家の相伝書『天台玄旨伝』を釈して、次のように仰せられている。

▼ここに言う一言摂尽≠ニは、『玄旨伝』に ともあり、一切の教法と功徳を摂し尽くしたところの一言≠キなわち五字七字の南無妙法蓮華経という意味である。したがって『観心本尊抄』の
の御文と同趣旨であり、一切を包摂した妙法なるが故に、これを受持する功徳もまた、広大なのである。

▼ところが自称在勤教師会の(やから)は、この一言拝尽を釈して
ているのは だと言い、
と言う。

▼ここで彼等は客観的に二つの大きな誤ちを犯している。第一は前に説明した通り、一言摂尽の一言を一遍の口唱≠ニ曲解していることである。そのために一言摂尽と聞くや直ちに題目口唱の回数がどうの、「一遍でも少からず百万遍でも多からず」などの結論に走ってしまうのである。

▼とりわけ一遍≠フほうに執着する彼等は『法華経題目抄』の
の文を引用して
強弁(ごうべん)する。

▼しかし『法華経題目抄』の文について、日寛上人は
と明快に教示されている。もし過去に全く謗法罪がなければ一遍の題目で不退に至る道理であるが、末代の我等衆生は無量の謗法を犯しているが故により多く唱題を重ねなければならないとの御意である。

▼第二の誤りは、彼等が唯一無二の妙法を成仏のために大いに唱題すべきだと主張するかと思いきや、「口唱題目の数だけにとらわれ」「口唱の題目だけをもって云々」と回りくどい、わけの判らぬ理屈を並べて、長時間の唱題、多くの口唱に励む者を侮蔑(ぶべつ)していることである。その心底を思うに、彼等は無行懶惰(らんだ)の自分をなんとか正当化しようと自己弁護しているにすぎない。

▼いま素直に御書を拝するならば、大聖人御自身の振る舞いについては、
と仰せられ、門下に対しては
と説かれている。

▼日寛上人も『寿量品談義』に
と説いて、数多く唱題することの大切さを教えられている。

▼当宗の信心とは、
との御聖訓の如く、時の御法主上人の御指南に随従して、久遠元初自受用報身如来・日蓮大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊を無二に信じ奉るを因とし、題目口唱するところを果となして完成するのである。ここを寛尊は
と示されている。

▼大曼荼羅本尊と唯授一人の血脈相承を否定し、()げ句の()てに唱題行まで()みきらう彼等はまさに地獄の業というほかはない。
 寛尊云く
と。
 まさしく昨今の自称正信会・在勤教師会の姿そのものである。
(水島)
大日蓮 昭和59年5月(第459号・100〜102頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正し、(・)印の付された文字は色付けした)
目次へ戻る