「夫れ一心に十法界を具す云云」の文について

 
▼表題の文をもう少し詳しく記すと
となる。これは天台大師が『摩訶止観』第五において一念三千を説かれた文であり、これを末法の御本仏・日蓮大聖人が、一念三千の御当体たる御本尊を顕示するに当たり、『観心本尊抄』の冒頭に掲げられたのである。

▼第二十六世日寛上人は、この文を釈するに、附文(ふもん)元意(がんい)の二辺があるとし、附文の辺からいえばこの文はただ一念三千の出処を示すものであり、もし元意によるならば観心本尊≠フ依文であると仰せられ、本尊≠ニ観心≠ノ区分して次のように説明されている。
と、まず「本尊」について、その相貌が久遠元初の自受用身の一念であり、蓮祖大聖人の心具の三千たる曼荼羅であると教示されている。

▼「観心」については
と仰せられ、「此の三千、一念の心に在り」とは、あたかも水ある池に月が映るように、信心によって我等衆生の心中に一念三千の本尊が顕現することであると説示されている。

▼ここでいわれる観心とは
とあり、我等衆生の信心修行に関する言葉である。これに対して本尊とは
とあるように、我等衆生が根本として尊敬すベき受持の法体であり、衆生が信じ、唱える対象たる大曼荼羅である。すなわち観心には必ず本尊が境となり、本尊はまた衆生の観心に威徳を光被されるのである。

▼なぜ、このような当たり前のことを列記したのかというと、自称在勤教師会の(やから)が、大聖人や日寛上人の御文を振り回して邪見を吐いているのであるが、その論法がいかに欺瞞(ぎまん)にみちたものであるかを知ってもらうためである。今まで述べてきた寛尊の御指南と、次に引用する彼らの言い分とを比較してほしい。

▼在勤教師会云く
と。

▼引用が長くなってしまったが、この言い分が彼らの浅慮と混乱を如実に物語っている。だいいち止観第五の文を半分に切って、途中から引用するとはなにごとか。「説己心中云云」の文の用い方もおかしい。これは天台大師己心の法門であって衆生己心の意味ではない。さらに前述した如く、寛尊の御指南である本尊と観心の二面を無視して、恣意(しい)に観心の文のみをもって、それを己心本尊の依拠と称し、「今流の本尊観とは全く違っている」と臆面(おくめん)もなく言う神経は、いったいどういうものであろう。それこそ「全く違っている」のは本人達の眼と頭、そして信心なのではないか。

▼かつて房州の日我が著者『観心本尊抄抜書』に
と解釈したが、これに対して日寛上人は
と仰せられ、観心の二字を能化の地涌や蓮祖の一念に論ずるものではないと破折されている。彼らの如く衆生の観心を明かす文を、強引に曲解して、末法の本尊、それも前代未聞の邪説たる衆生己心本尊説≠フ証拠とするなどは狂気の沙汰としか言いようがない。

▼たしかに寛尊は、観心について
として、信心によって衆生の一念に本尊を具足することを説かれているが、これをもって(ただ)ちに彼らのいう衆生己心の本尊≠ェ正当化できると考えるのは早計(そうけい)である。

▼寛尊、『法華取要抄文段』に云く
まさしくこれ、末代衆生の慢心を制誡される鉄槌であり、夢寐(むび)にも忘れてならぬ重大な御指南である。

▼彼らは、この能化と所化、因分と果分のけじめに迷い、
の御聖文を誤解して、
と強弁するのであるが、かつて第六十五世日淳上人は
と御指南あそばされている。
 彼らは、根本の本尊に迷い、血脈相承の正義に背逆する点から限りない悪見を生み、自ら苦海に沈みゆくことは明白である。
(水島)
大日蓮 昭和59年7月(第461号・100〜103頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正した)
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