「日蓮がたましいをすみにそめながして・かきて候ぞ」の文について

 
▼自称在勤教師会の中で、本尊と観心、法体と修行を極端に混同しているのが山上弘道である。彼は表題に掲げた『経王殿御返事』の一文(御書685頁)を挙げて、次のように主張する。
と。(傍線筆者)

▼一読するに、思い上がりとひとりよがりの悪文であるが、中でも傍線の部分―「信じさせ給へ」の文が己心建立の本尊≠説明したものであり、大聖人の本尊観が「信じさせ給へ」までを含まねば完成しないという箇処―はまさしく悪臭芬々(ふんぷん)たる異説である。これは単に山上弘道が『経王殿御返事』の一文を誤解しているという瑣末(さまつ)な問題ではなく、これによってあわよくば衆生己心の本尊≠ネる邪義を正当化しようと企んでいる故に、()えて破折を加える必要があるのである。

▼いうまでもなく「信じさせ給へ」とは、大聖人が弟子檀那に対して、教導・勧奨の意を込めて仰せられた言葉である。これに対して信ずべき¢ホ境が日蓮が魂を墨に染め流して書かれた☆ヨ荼羅であることは誰人の目にも明らかである。換言すれば「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」とは大聖人御建立の御本尊を述べ、次の「信じさせ給へ」とは衆生に対して信心修行を勧誡(かんかい)されているところである。山上はこの本尊と観心の立て分けに迷い、衆生の信心も本尊になると強弁(ごうべん)しているのである。

▼日寛上人は、本尊と観心の区分について、随所に教示されているので、その中から二例を挙げてみよう。まず『観心本尊抄』の
の御文に付して、『神力品』の
の経文を引用して次のように説明されている。
と。すなわち「我等受持」とは「信力・行力」(御書文段228頁)のことであり、観心(能持)を指すのに対し、「妙法五字」「斯経」とは所持の法体・本尊であって、両者は能所相対し区分されねばならないことを教示されている。

▼また『寿量品』の
の文について
と説き、「良薬」が本尊、「取服」すなわち信心勧奨は信心修行たる本門の題目に当たると仰せられている。これら寛尊の二文の御教示から拝しても、『経王殿御返事』の御文を本尊と観心の二面に立て分けねばならないことは炳乎(へいこ)としている。

▼しかも同じ『経王殿御返事』の中には
との御文もある。「曼荼羅」とは末法正意の御本尊そのものではないか。また
とも仰せられている。ここにも信心と本尊が相対して示されている。これらの御文を拝しても、山上の言う衆生の信心によって己心の本尊が建立され、はじめて大聖人の本尊観といえる≠ニの説が、いかに邪悪に満ちたものであるかわかるであろう。

▼念のために、引用の『経王抄』の御文に関する御先師上人の御指南を拝してみたい。日寛上人は『妙法曼荼羅供養見聞筆記』に
と説き、同抄の文が宗祖大聖人即妙法蓮華経、すなわち人法体一の本尊を示すものと仰せられている。また『本尊抄文段』には
とあり、本尊が大聖人おひとりの御当身に具するものと説かれている。

▼日応上人は同文について
と解説され、日淳上人は
と説明されている。御先師の御指南は、いずれも同抄の御文が、大聖人の御魂たる妙法を大聖人御(みずか)ら御本尊として図顕建立あそばされたことを指していると仰せである。人法体一の大曼荼羅に当宗の本尊義も、大聖人の御意も極まるのである。これを山上の如く形に顕われた本尊は真実絶対ではない≠ニ言い、他に真実の本尊があるとするならば、それはもはや当宗の教義でもなく、大聖人の仏法とは背反するところの異説である。

▼大聖人は『日女御前御返事』に
と、不思議の因縁によって自ら大曼荼羅を図顕されたことを述べられており、日興上人も
と教示されている。これらの聖意をねじ曲げて、衆生己心の本尊に執する川澄や山上らは、日淳上人のいわれる
というべきであろう。

▼かつて日達上人は、所化学衆に対して
訓戒(くんかい)された。当宗の「師伝」とは、唯授一人血脈付法の御当代上人猊下を師と仰ぎ奉り、弟子の道に精進することから始まる。御書もよく拝読できず∞師伝たる唯授一人血脈相承に反逆し∞異義異説に走る℃R上よ、もって(めい)すべしである。
 (水島)
     大日蓮昭和59年8月(462号・90〜93頁)
(御書・文段・開結は大石寺版に訂正した)
目次へ戻る