「真実の十界互具」について

 
▼在勤教師会の徒輩が師弟一箇の本尊≠フ文拠として挙げるのが、次に掲げる『当流行事抄』の御文である。

▼この御文について、彼等は
という。

▼いま『当流行事抄』の御文を直訳すれば、
 @我等が唱え奉る本門の題目の当体とは、本門の大御本尊であり、
 A本門の大本尊の体とは蓮祖大聖人のことである。
 B『御本尊七箇相承』には、曼荼羅の中尊の首題と左右の十界聖聚
  は悉く日蓮大聖人の当体であり、それ故に「日蓮判」と(したた)められる。

▼Cの「日蓮が影今の大曼荼羅なり」とは、宗祖大聖人の御当体即大曼荼羅との御教示であることは誰人も異義はないであろうと思っていたところ、あにはからんや、四国の伊芸益道なる者、正信会首脳におだてられたのか、気狂いじみた悪口雑言をさかんに吐いているが、その中でこの御文について面白いことを口走っている。彼云く
と。

▼こう言っては可哀相だが、彼は日本語の理解がかなり(とぼ)しいようだ。たとえば『万葉集』に「燈火を月よにたぐへその影も見む」という歌があるが、伊芸には恐らく何のことやらちんぷんかんぷんなのではあるまいか。この歌は月明かりに燈火を添えてその姿を見るであろう≠ニいう意味であって、ここにいう「影」とは陰影ではなく実像そのものである。ふつうにも「月影(つきかげ)」といえば、月のかげり≠ナはなく、月の光≠るいは月≠サのものを指すことぐらい常識ではないか。「影」とは光が物に当たって反対側に生じる暗い像≠フ意味と、実際の物の姿≠フ意味があり、明星直見の「日蓮が影」とは大聖人の当体を指している言葉で、後者の意味として用いているのである。

▼『御義口伝』には
とあり、『取要抄文段』には
と、凡夫身の御当体即妙法であり、本尊なる旨を明示されている。「影」を体の対語(ついご)としか理解できない伊芸などに、この相伝の聖意を喋々(ちょうちょう)する資格はないというべきである。

▼話を元に戻そう。Dの引用文は省略されたもので、その原文は
というものである。この御文はたしかに十界互具の成仏について述べられているが、彼等のいう如き師弟一箇の本尊≠ネどとは無縁のものである。

▼文中の「唱えられ給う処の七字は仏界なり」とは、寛尊の『法華取要抄私記』にも
と示されるように、日蓮大聖人の御当体たる大曼荼羅のことである。迷蒙九界の衆生がこの大曼荼羅を信受して唱題する時、文底下種の真実の十界互具となるとの御教示である。

▼十界互具といっても、九界と仏界が混合互紛(ごふん)して見境(みさかい)がつかなくなることでもなく、衆生と本仏が同等になることでもない。互具融即して、しかも九仏のけじめは厳然としているのである。妙法を信受して真実の仏界に浴した衆生は、仏の功力(くりき)によって無作三身の境界を感得できると説述されているのである。

▼無作三身について、寛尊は『取要抄文段』に
(くぎ)()されている。

▼彼等は『山内有志の御用教学に答う』と題する小冊子の中にも、『当流行事抄』の御文を引用して、次のように解釈している。

▼第一条と第二条はよいとしても、第三条は思わずわが眼を疑うばかりの珍説である。だいいち「十界互具の蓮祖大聖人とは」という冒頭の主語はどこから持ち出してきたのであるか。寛尊が前文で仰せられる「蓮祖大聖人」の語は、内証や己心ではなく、「十界悉く日蓮なり、故に日蓮判と主付(ぬしづけ)給えり」と明言されているように、鎌倉出現凡身の大聖人であるが、彼等の説明によると、この大聖人の当体は衆生(九界)と仏界が境智冥合したところに生ずるのだそうだ。なんとも奇怪千万(きっかいせんばん)な話だ。本尊が衆生の信心(題目)から生ずるというのは話があべこべである。

▼日淳上人の御指南に
とのお言葉がある。大御本尊を信受せずして正宗の伝統法門を思いつきであげつらう川澄も川澄だが、これを教化するどころか反対に眩惑(げんわく)されて集団還俗(げんぞく)し、あげくの果てに川澄の寝言を大聖人の御書や御先師の御指南をもって立証せんと(くわだ)てる在勤教師会の行為は、愚行というばかりでなく不敬(ふけい)師敵対(してきたい)の大罪を犯していることを銘肝(めいかん)すべきである。
(水島)
大日蓮 昭和60年1月(第467号・106〜109頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正)
目次へ戻る