「一閻浮提」と「信心血脈」について

 
▼自称在勤教師会云く
と。

▼この短い文章の中に、彼らの教学的無知と無道心から生じた迷倒(めいとう)妄見(もうけん)錯綜(さくそう)している。その誤りの第一は「一閻浮提総与」の語義についてである。彼らは一閻浮提総与即ち一切衆生に具わっている妙法≠ニ言って、一閻浮提総与の言葉を一切衆生の妙法具有を指すものと解釈しているが、これはとんでもない間違いであり、曲解(きょくかい)である。

▼日顕上人は、昭和五十九年の御虫払大法会の御説法のおり、一閻浮提総与の語について
と、本門戒壇の大御本尊をもって一切衆生を成仏せしめるところを指して一閻浮提総与と称する意義があることを御指南あそばされた。

▼第六十五世日淳上人は一切衆生総与≠フ語を用いて次のように教示されている。

▼第六十六世日達上人は、これについて末法総与≠ニいう言葉を使用され、
と御指南あそばされている。すなわち一閻浮提総与≠ニは一切衆生総与・末法総与と同意義であり、末法の一切衆生を済度(さいど)する弘安二年の大御本尊に(かか)わる言葉であって、濁世(じょくせ)の衆生に本来具有(ぐゆう)していることを指す言葉ではない。

▼第二の誤りは衆生に具有する法が久遠名字の妙法である≠ニいう点である。理の上から論ずれば、なるほど森羅(しんら)三千すべての現象(げんしょう)世界は法性(ほっしょう)具現(ぐげん)したものであり、法身如来(ほっしんにょらい)である。人間界にあっても善悪・順逆を問わず一切の衆生に仏性(ぶっしょう)本然(ほんねん)(そな)わっていることは爾前(にぜん)の教理に説かれており、今さら取り立てて論ずる必要もないが、法華円教の所談は理上(りじょう)の観念論ではなく事実の上の得脱(とくだつ)である。『天台学概論』に台家の行体として
と説かれている如くである。

▼久遠名字の妙法について、日寛上人は
と説かれ、その教主については
と説かれ、久遠名字の妙法とは単なる理法身(りほっしん)や仏性と異なり、御本仏大聖人によってはじめて顕現される事上(じじょう)の法体であり、末法下種の正体であると教えられている。

▼この下種の妙法と衆生の関係について、日淳上人は
と仰せられている。彼らの言う如き衆生に本来妙法が具有されているなどの説は、当宗の教義と全く異なった邪義邪見なること明白ではないか。

▼第三の誤りは「この妙法を信の上で覚知建立する」という考えである。これについては、日寛上人が
と説かれ、日淳上人が
と仰せられるように、久遠名字の妙法たる大御本尊はひとり大聖人によって顕現(けんげん)され、建立なされるのである。

▼第四の誤りは「信の上で覚知建立する時、血脈が流れる」というところである。この文だけでは意味がはっきりしないが、同類の文と重ねてみると彼らの意図が明白になる。
という。

▼彼らの説によると、信の上に覚知建立される血脈≠ニは法体別付の相承のことであり、一切衆生の内証に流れる法体のことなのだそうだ。法体別付については、日応上人の
との御教示を拝すれば、彼らの説がいかにでたらめなものかがわかるであろう。

▼また衆生の信心に血脈があるとの説は、古くから他門流で主張している信心血脈論といわれるものである。これについて、日淳上人はかつて国柱会の高田某が主張した信心血脈論に対して、次のように破折されている。
と。

▼ここに仰せられる「血液たる仏法」の当体こそ宗祖大聖人によって建立される久遠名字の妙法であり、末法下種の法体たる大曼荼羅である。この日蓮正宗の大義に背逆する徒輩は必ず唯授一人嫡々(ちゃくちゃく)相承を否定し、浅薄(せんぱく)な信心血脈論に堕落(だらく)するのであるが、現在の正信会・在勤教師会も同じ(てつ)()みつつ、更に限りない悪道を彷徨(ほうこう)しゆくのであろう。

▼それにしても、一閻浮提総与とは衆生具有のこと∞妙法は衆生の信心によって建立される∞法体別付の相承は一切衆生に流れる%凵Xの邪説は、言語の重みと論理を無視した偏執(へんしゅう)そのものであり、荒唐無稽(こうとうむけい)に過ぎる。誤りの第五・第六は次回に述べたい。
 (水島)
 
大日蓮昭和60年2月(第468号・76〜79頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正した)
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