「種子を覚知するを作仏と名づくなり」の文について

 
▼前回は、自称在勤教師会の
という邪説の前半を四点にまとめて破折した。

▼今回はその続きとして
の文について述べてみたい。この文は日寛上人が『三重秘伝抄』の「本迹相対して一念三千を明かす」なかに
と説示された箇処に述べられたものであり、『開目抄文段』(御書文段86頁)や『取要抄文段』(御書文段519頁)にも同様の文が記されている。

▼まずここにいう「種子」とは何かということであるが、妙楽大師は『法華文句記』に
と、仏種には本有法性(ほんぬほっしょう)の縁による仏種と、仏の説教の縁から起こる仏種とがあると説く。一般には、前者を仏性種(ぶっしょうしゅ)≠ワたは性種(しょうしゅ)≠ニ言い、一切衆生の心性(しんしょう)に備わる仏種を意味し、後者を仏乗種(ぶつじょうしゅ)≠ワたは乗種(じょうしゅ)≠ニ言い、仏が衆生のためにする教経を意味する(日蓮本仏論辞典五八頁)。この性種・乗種の区分からすれば、自称在勤教師会の徒輩が、本来衆生己心に具わる妙法と称する種子とは、性種の意味に用いていることは間違いない。

▼しかし日蓮大聖人が仰せられる仏種とは、『妙法比丘尼御返事』に
とあり、『撰時抄』には
と示されるように、人為的(じんいてき)後天的(こうてんてき)に心田に植えられるべき仏種≠キなわち乗種のことである。

▼『曽谷殿御返事』にも
と仰せられ、成仏の種は初めから衆生の心田に存在するものではないことを教示されている。この「植え手」たる教主と「仏種」の当体について、日寛上人は
と決判されている。

▼また『止観弘決(ぐけつ)』を見ると、華厳経では種子を仏種・法種・僧種の三義に立て分けたうえで
と言い、乗種を強調していることがわかる。

▼いま他門日蓮宗の所説をみるに、『本化聖典大辞林』(田中智学編)には
とあり、『上古日本天台本門思想史』(浅井円道著)には
と不相伝ながら御書の文言に随って、乗種為本(いほん)の立場をとっている。

▼これら他宗の説と、妙法は一切衆生に具わっている≠ネどの変てこりんな性種説を吐く川澄や在勤教師会とを比較すると、川澄らの言い分は国柱会や日蓮宗の所説はもとより華厳の経説よりもはるかに下等であり、劣悪であることは誰人の目にも明らかであろう。性種と乗種の混乱=Aこれが前回から通算して第五番日の誤りである。

▼第六の誤りは、日寛上人のお言葉を拝借(はいしゃく) すれば時節(じせつ)混乱の(とが)≠ニいうことである。「種子を覚知するを作仏と名づく」の文は、迹門の二乗作仏が何故(なぜ)本無今有なのかとの問いに対する答えとして述べられたものであり、この文の対象は今日(こんにち)正像(しょうぞう)時の二乗なのである。したがってこの文をもって末法の観心を喋々(ちょうちょう)する彼らは時≠フ混乱を犯している。

▼次に機根について言えば、『法華文句』に種熱脱の三(やく)を四節に立て分けて、次のように説述されている。

▼この四節を『四節三益筆記(しょう)()随聴(ずいちょう)()』に
と簡潔に説明されている。また「種子を覚知する云云」の文に続けて引用される『観心本尊抄』の
の聖文を、日寛上人は一往大通覆講(だいつうふっこう)の機に約して
と立て分けられ、「一往在世の正宗を示す」(御書文段260頁)御文と釈されている。

▼いま与えて言って、「種子を覚知する云云」の一段を、広く成仏得脱全般(ぜんぱん)(わた)る原則論を述べたものと解しても、「大通前四味」などの説相からみて本已有善・熱脱仏法の領域(りょういき)を出るものではない。在世二乗の得脱に関する文を、そのまま本未有善の末代凡夫にあてはめて、衆生己心に覚知建立する妙法こそ真実の本尊なりと妄言を吐く彼らの言動は、あまりにも無知であり、浅識(せんしき)のきわみである。まさにこれ節≠フ混乱である。

▼もし彼らが、引用文の種子とは乗種のことだと言うならば、末法の一切衆生に具わっている妙法≠ヘ何時(いつ)・誰によって下種されたものか。またもし「種子を覚知する」ことが釈尊仏法のみならず末法の衆生の観心まで指していると言うならば、本未有善すなわち乗種を有しない衆生が、己心に覚知すべき仏種とはいったい何なのか。

▼めめしい嫌味(いやみ)空虚(くうきょ)なあげ足とりは見苦しいだけである。これらの指摘に対して、正当な文証・道理をもって釈明してみてはどうか。いずれにせよ、川澄や在勤教師会の徒輩が、性種と乗種、本已有善と本末有善という初歩的な法門さえ、全くわかっていないことだけは確かである。
(水島)
大日蓮 昭和60年3月(第469号・76〜79頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正した) 
目次へ戻る