「事 迷」の語義について

 
▼内田(ひゃっけん)氏の随筆のなかに、こんな話があった。
という内容の話である。

▼この話のタネ明かしは後に述べることとするが、在勤教師会の「事の法門」に関する主張が、この話のトリックと共通する面があるので紹介した次第である。この話のどこが理に合わないのかということは、在勤教師会の偽瞞性(ぎまんせい)矛盾(むじゅん)を指摘することによって漸々(ぜんぜん)に明らかになるてあろう。

▼日蓮大聖人の仏法を事の法門と称する場合の「事」とは事相≠フことではなく、事迷≠フ意味にとらねばならない、というのが在勤教師会の主張である。彼らはその根拠として、日有上人の御教示を筆記したと伝えられる『下野阿闍梨聞書』のなかの
の文を挙げ、当宗は「事迷の法門」であると言う。

▼この「事迷」に異常なほど執着する彼らは同聞書の
の文や、
と相対して説かれる用語を、すべて事迷≠ニ理悟≠ニいう立て分けのなかに押し込んで、次のように図表化している。
 
   〔事 迷〕               〔理 悟〕
(一)○愚者・悪心            ○智者・善心
(二)○未断惑・師弟共に三毒強盛 ○断惑
(三)○本                  ○迹
(四)○滅後                 ○在世
(五)○内証本地              ○外用垂迹
 

▼彼らはこの図表をもとにして
と言う。

▼それにしても、ずいぶん思い込みの激しい言い分だ。彼らが図表に挙げた五ヵ条の項目に、いま敢えてそれぞれの意義を付釈すれば、(一)は衆生の機根、(二)は衆生の観心、(三)は法義、(四)は時、(五)は仏身を指していると言えよう。ところが彼らは、所化衆生に関わる機根・観心と能化の仏身・法体という全く意義の異なったものを、なんの区別もせずにごちゃ混ぜにした上、などと、いとも簡単に言ってのけるのである。全く(あき)れるほど幼稚で短絡的な発想だ。日寛上人は房州日我が「観心本尊」を釈して
と言い、観心の二字を地涌の菩薩に約したことに対し
と、衆生の観心と法体の本尊とを混同することを厳しく(いまし)められている。

▼「事迷」という言葉は、たしかに『下野阿闍梨聞書』のなかに六ヵ所、『日拾聞書』のなかに一ヵ所見られるが、その語義を前後の文章によって検討するに、
などの文からも判るように、「事迷」とは末代愚者たる衆生の機根を指標(しひょう)する言葉であり、文字通り邪宗の徒を含めた「現実の上の愚迷者」のことである。

▼前に掲げた
の文意も、これだけでは事迷凡愚の己心に宗旨が建立される≠フ意なのか、あるいは事迷凡愚の機のために建立される宗旨≠フ意なのか、明瞭でないが、同聞書の
の文に照らし合わせて読めば、後者の意味であることは判然とするであろう。「事迷の所に宗旨を立つ」とは名字即の衆生の位にそのまま宗旨が建立されるとの意味ではなく、「名字の初心に契当すること」すなわち名字凡夫の機にかなう宗旨であるとの教示である。

▼彼らが盛んに使用する「事迷の法門」という言葉は、御書にはもちろん、日有上人の聞書などにも全く見かけないものである。だいいち「事迷」たる愚者・迷者の機根に法門≠ネどが存在するのであろうか。少なくとも法体・法義を尋究(じんきゅう)する法門≠フ語に「事迷」を冠することは、はなはだ奇怪と言うべきである。言うまでもないことであるが、彼らの主張する如く、愚者・迷者の機を論ずることによって文底下種の法体が顕現されるわけではない。

▼日蓮大聖人は『撰時抄』に
と仰せられ、『諸経と法華経と難易の事』に
と説かれて、衆生の機によって法体が規定されるのではなく、法界真理の時を覚知された仏意が法体を説き示し、これに衆生の機が付随(ふずい)・信順すべきことを教示されている。

▼さて一円足りない話≠フトリックは、賢明なる読者各位には既にお気づきのことであろう。客の払ったはずの二十七円≠ニは既に他人に渡って、現在手もとに存在しないものであり、観念的な金額である。これと女中の持っている二円の現金とを同等に扱うのが誤りなのである。この話の数字を替えて考えてみれば、この点がはっきりすると思う。要するに、観念的な金額と現金とは異なった性質のものであり、これを同一線上で足したり、引いたりすることが混乱のもとなのである。もし客が払ったはずの二十七円の実体(現金)はどこかと言えば、帳場と女中の所にあるし、これに客の三円の現金を足せば三十円の現金が整うわけである。

▼在勤教師会の言い分も、能化と所化、法体と衆生、仏身と機根という全く異質の概念を混同している点で共通の誤謬(ごびゅう)を犯していることは誰人の目にも明らかであろう。しかのみならず、彼らは法体・仏意を(さしお)いて事迷・理悟という機情を規準にして仏法を()(まわ)そうというのである。また何をか言わんやである。
 (水島)
大日蓮昭和60年4月(第470号・92〜95頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正した)
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