「日蓮は不軽の跡を紹継す」について

 
▼このノートも二十四回を数え、二周年を迎えた。ノートという気安さもあって思いつくままに拙劣な文章を臆面(おくめん)もなく綴ってきた。自称在勤教師会の徒が主張する邪義異説の中から、主要と思われるものの根拠について、御書と御歴代上人の指南書に(したが)い、本宗の正義に照らしてひとつひとつ論じてきたつもりである。その間、彼らからは(ごまめ)の歯ぎしりみたいな挙げ足とりや、(うめ)き声に似た枝葉末節の言い(がか)りはあったものの、正当な文証による法義の反論は全くなかった。むしろ彼らが一時さかんに喧伝(けんでん)していた歴代貫首を法主と称するのは誤り≠ニか師弟一箇の本尊∞日興体具≠ネどの説がすっかり影をひそめたように思われる。川澄教祖がいくら御託宣(たくせん)を並べて笛を吹いても、弟子たちが踊るのを躊躇(ためら)っているというのが現状のようだ。

▼次第に()りつつある彼らの邪説カラオケ≠フレパートリーの中から、今回よりは不軽菩薩に関するものに焦点を当てて、じっくりと破折を加えてみたいと思う。まず彼らの論集に掲載されている池田令道の要語解釈をとり上げる。彼は不軽菩薩を説明するに当たり、日寛上人の『末法相応抄』において要法寺日辰の『読誦論義』が破折されたことにふれている。『読誦論義』の中で日辰は、不軽にも経典読誦があったこと、不軽と蓮祖とを比較するに七異三同があることを主張するのであるが、日寛上人はこの中の不軽読誦に対しては、日辰に五失(時節混乱・次位混乱・能所混乱・信謗混乱・所例混乱)ありと論破された。しかし七異三同については全く論及されていない。

▼七異三同とは
とある。

▼むろん要法寺日辰の説であるから、二十四字と但行礼拝との正助をとり違えたり、「広略一部助行」などの教義的な誤りもあって、すべてをそのまま容認(ようにん)できるものではないが、七異の中には御書の御文どおりに立て分けたものもあり、七異すべてを誤りと切り捨てることはできないのである。

▼ところが池田令道は、この七異が何とも気にくわないらしく、『顕仏未来記』の
の御文を寛尊が引用したことを(たて)に取って
と強弁する。

▼要するに彼は宗祖と不軽の差異を説く七異を全面否定して、宗祖と不軽は機根や行体が共通するばかりでなく、本地の内証や法体まで同等であると言いたいのである。それは彼の
などの言葉から容易に推測できる。

▼なぜそれほど宗祖と不軽を一緒にしたがるのかと言うと、在勤教師会の主張によれば、末法の布教は謗法者を破折屈伏することではなく、相手の仏性に対して但行礼拝することが大切であり、現在のような員数の増加と勢力拡大を目的とする弘教は誤りであるというのである。これらの陰には、自らは礼拝唱題すらせずに、ただただ正法興隆を(ねた)み、宗門を(うら)んで、(すき)あらば攪乱(かくらん)せんとする川澄某の魔説が糸を引いていることは見えすいている。

▼それにしても池田令道が「宗祖の金言及び寛師の解釈によれば」と大仰(おおぎょう)(りき)んでみたものの、『末法相応抄』にはもちろんのこと御書にも寛尊の指南にも七異の意義を全面否定する御文はない。『末法相応抄』で寛尊が日辰を破折された結論は
という点にあることは明白である。池田令道の解釈は、良く言えば(いさ)み足、はっきり言えば牽強付会の曲解である。

▼御書を拝するに、たしかに『顕仏未来記』(前出)の御文や、『聖人知三世事』の
の御文の如く、宗祖と不軽の共通を説くところもあるが、一方では
と行者の受難に相違のあることを説かれ、四衆の機根についても
と、その異なりを説かれている。

▼不軽菩薩の本地について『日妙聖人御書』に
とあり、日寛上人は『開目抄愚記』に
と明示されている。まさに不軽とは、上行再誕の日蓮大聖人が建立される下種仏法ではなく、釈尊の応用として脱益仏法の領域にある菩薩なのである。この故に得益の相も
と、厳格な隔差があることを寛尊は教示されているのである。

▼では「不軽の跡を紹継す」の御文をいかなる意味に拝すべきか。日寛上人『寿量品談義』に云く
すなわち不軽の跡とは折伏弘通の方軌を指していることがわかる。これと同じく『観心本尊抄文段』にも
と指南されている。この文意を拝しても、正宗分たる寿量品所顕の本尊・本法を所持あそばされる上行日蓮大聖人の内証と、流通分として末法弘通の一往の方軌を示すために、経文に説き示された不軽菩薩−それも釈尊果後の応用の身−とは水火天地の違いが認められるではないか。

▼池田令道の言い分が振るっている。云く
と。
最近の傾向≠ゥどうかは別として、彼の認識の傾向としては、法門上の関係を理論的に(もてあそ)ぶほうが大切であって、宗祖の忍難弘教のお振る舞いの中に下種仏法の一切がましますという中心点がすっぼりと欠落しているようだ。
(水島)
大日蓮 昭和60年5月(第471号・102〜105頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正した)
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