不軽菩薩に関する池田令道の誤りについて

 
▼「事実は小説よりも奇なり」というが、まさかと思うような珍事件が時々起きる。新築されたばかりのマンションに引っ越してきたAさん、台所の水道の蛇口(じゃぐち)をひねると(にお)いのついた赤茶色(あかちゃいろ)の水が出たが、しばらくそのまま出しておいたところ、色も薄くなったので使用しはじめた。ところが異臭(いしゅう)は消えるどころかますますひどくなり、しまいにはトイレの汚物(おぶつ)まで流れ出してきた、という。このため住民のなかには下痢・腹痛を訴える者も出て、マンション中が大騒ぎになった。原因を調べたところ、配管工事の時に、下水本管に継ぐべきトイレの排水管を、誤って水道蛇口の管に接続してしまったのだそうだ。うそのような本当の話である。

▼前回でも()れた池田令道の不軽観(ふきょうかん)も、この接続ミスによく似ている。彼は不軽を説明するに、「宗祖と不軽の法門的な深い関連について述べる」と前置きして、中古天台の
などの文を列挙し、次のように言う。
と。

▼ここまでならば取り立てるほどの問題はないが、池田令道はこの中古天台の「本因行」をいきなり当宗の『化儀抄』の
の御文に関連づけて
妄見(もうけん)()くのである。

▼それにしても、「本因」という言葉が同じだからといって、本門文底下種たる当宗の本仏義を論ずるのに、大聖人が
と破折された中古天台の文証を引き合いに出すなど狂気(きょうき)沙汰(さた)としか言いようがない。もしそのような論法が許されるならば、「本尊」の語が同じだからといって台密(たいみつ)文書(もんじょ)に当宗の本尊を接続すれば、薬師如来や大日如来が当宗の本尊になりかねない。

▼文底下種の法休も末法の本仏をも知らない中古天台の僧侶の文を引用して、しかも脱益の領域にある不軽を文底下種の教主たる上行菩薩と同格に(あつか)おうとする池田令道は、恐らく中古天台の漢文でも引用して新説を唱えれば学者とみなされると錯覚したのであろうが、その精神といい、論証態度といい、幼椎の一語に尽きる。引用文の接続ミス、これが第一の誤りである。

▼また、なんの論証もしないで、突然
などと訳のわからない我見を吐くのもいただけない。念のために注意しておくが、この文章は「宗祖が」「自覚が」と二つの同格の主語が入り組んでいて、わかりにくい、というより文体(ぶんたい)をなしていない。また宗祖が自覚した≠フか不軽が自覚した≠フかも曖昧(あいまい)だ。文章作法の初歩からやり直す必要があろう。

▼それはさておき、当宗において竜の口法難の意義は、日寛上人が
と御指南されるように、名字凡夫の宗祖の御身が元初自受用身と発迹顕本されたと拝するのである。これに反して不相伝の他門日蓮宗では竜の口法難によって凡夫日蓮が上行菩薩と開顕した≠ニ見るのであるが、池田令道はなんと竜の口を境に不軽の自覚が顕著になった≠ニ言うのだから噴飯(ふんぱん)ものだ。元初自受用身・無作三身と開顕あそばされる御本仏が、今さら脱仏の応用(おうゆう)たる不軽のなにを自覚されるというのであろう。元初仏として顕本されるところを、身延派以下の不軽自覚などの説に()したところが第二の接続ミスである。

▼のみならず、彼はこのあとでは
とも言う。宗旨建立と竜の口法難ではずいぶん間があるが、いったいどこがどう違うのか、また何が言いたいのか、はっきりした根拠もない現在のところは、単なる思いつきの戯言(たわごと)と断定しておく。

▼さらに池田令道は不軽菩薩と大聖人について、次のように言う。
と。

▼ここで彼は、自らの浅識(せんしき)と無知を露呈(ろてい)する誤りを(おか)しているので、(おも)なものを挙げてみよう。まず上行菩薩に動きが伴わない≠ニは変な言い(がか)りだ。法華経涌出品に現れた上行菩薩は、末法を予証するために応現した日蓮大聖人の()りの姿であることを忘れてはならない。上行菩薩が奮迅(ふんじん)の活躍をされる時は末法であり、所は娑婆(しゃば)日本国である。脱仏の化導の時に虚空会(こくうえ)あたりに姿を見せたからといって、自ら弘教したり、難に()う体験などされる必要がないのは当たり前である。この筋目(すじめ)をはき違えて「動きが伴うことは考えづらい」と言う池田令道は、明らかに末法に拝すべき上行菩薩の化導を、法華経の文相(もんそう)だけで判断しているのである。これが第三の接続ミスである。

▼次に上行が折伏を行ずることはない≠ニいうのも奇怪千万(きっかいせんばん)だ。『曽谷殿御返事』の
聖文(せいもん)を拝すれば、上行菩薩が末代悪世の衆生に妙法を弘通されることは明白ではないか。「末代悪世の枯槁の衆生」が摂受(しょうじゅ)の機か、折伏の機か、今さら論ずるまでもあるまい。また「上行の再誕日蓮」(聖典八三九頁)の指南どおり、上行菩薩と大聖人とは一体不二(ふに)である。それを大聖人は折伏を行じたが、上行は折伏を行じていない≠ニ考えるは、法門が全くわかっていない証拠である。間違ってはいけない、大聖人の忍難(にんなん)弘教(ぐきょう)破邪(はじゃ)顕正(けんしょう)(たたか)いはそのまま上行菩薩のお振る舞いでもあったのだ。上行は折伏を行じていないと言うのが第四のミス、大聖人と上行を別々に切り離して論ずるところが第五のミスである。

▼「直接折伏を行じているのは不軽日蓮」というのも誤りである。考えてもみたまえ、現実に末法に出現し、大難のなかで折伏を行じられたのは不軽菩薩ではなく、上行日蓮大聖人ではないか。たしかに御書のなかには
と仰せられているが、だからといって不軽菩薩が末法に出現したなどと早合点(はやがてん)してはいけない。これは大聖人が、末法弘通の方規(ほうき)不専(ふせん)読誦(どくじゅ)行法(ぎょうぼう)を強調するために、謙譲(けんじょう)の意から不軽の名を挙げて仰せられた御文と拝すべきである。日興上人『五人所破抄』に(のたまわ)
と。拳拳服膺(けんけんふくよう)すべき御指南である。末法出現の弘通者を取り違えたところが、池田令道の第六のミスである。

▼マンションの配管ミスならば下痢・腹痛でことは()むが、仏法上の接続ミスや曲解(きょっかい)は、そのまま堕在(だざい)泥梨(ないり)業因(ごういん)となる。涅槃経に曰く
と。
(水島)
大日蓮昭和60年6月(第472号・86〜89頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正した)
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