「不 軽 の 行」について

 
▼自称在勤教師会では、折伏について
と主張する。(傍線筆者・以下同)

▼これに対して昭和五十六年八月の全国教師講習会の折、御法主日顕上人は
と明快に破折なされた。

▼「信とは随順を以て義と為す」(御書文段654頁)
とは日寛上人の御教示であるが、唯授一人血脈付法の御法主上人の御指南に対し奉り、信服随順して奉公申し上げることが、日蓮正宗僧俗の七百年の伝統であり、信心である。しかるに愚癡蒙昧(もうまい)の彼らは、完膚(かんぷ)なきまでに破折されているにも(かかわ)らず、いまだにわけのわからない理屈を並べている。もはやとり合う必要もないが、ことのついでに彼らの錯乱(さくらん)ぶりを紹介し、その迷妄を断破(だんぱ)しておこう。

▼まず川澄の言い分。彼は日顕上人の御指南に対して
と言い、不軽の行≠ヘ二十四字や但行礼拝に限られるものではないと言う。しかし冒頭の在勤教師会の説は川澄の意を受けて書かれたものであろう。そこには「不軽菩薩の行をもってその手本とする」と明言し、ご丁寧に不軽の行相として二十四字と礼拝行の説明までしているではないか。

▼「誠にお粗末(そまつ)」なのは、今時(いまどき)二十四字と礼拝行を手本とする在勤教師会であり、破折されるや自説を(ひるが)えして不軽行は二十四字と礼拝行に限らない≠ネどと言い(のが)れを吐く川澄自身である。不軽の行が二十四字と礼拝行のみに限定されないというならば、川澄の言う不軽の行は一体なにを指しているのであろう。まさか「雲自在王(うんじざいおう)所の不軽の読誦」(聖典八九六頁)や川澄の己心の不軽などを持ち出すわけでもあるまい。あやふやな思いつきなどではなく、適確(てきかく)な文証をもって説明してみてはどうか。

▼次に在勤教師会の論集、といっても我見妄説の寄せ集めにすぎないものだが、それには日顕上人の御指南を引用して次のように妄見を吐いている。
と。

▼彼らの主張内容もさることながら、引用のしかたがまず問題である。この文章は、日顕上人のお言葉を「そのようなことが良いのか悪いのか」で切って、その後の「よく考えなければなりません」の部分を切り捨てているため、一見するといかにも日顕上人が是非(ぜひ)を決しかねているように思わせられる。誰が書いたものか知らないが、在勤教師会と称する若者らしくない狡獪(こうかい)で卑劣な引用手段である。このような手段を切り文≠ニいう。

▼同文中の「日蓮は即ち不軽菩薩()る可し」の御文も切り文である。この文だけを見ると、大聖人が御自(おんみずか)ら不軽菩薩なりと仰せられているように思われるが、御書を拝すると
とあり、「其の時は」すなわち未来において≠ニいう仮定(かてい)の上で仰せられた御文であることがわかる。したがってこの御文は、彼らが意図する宗祖即不軽≠フ文証というより、むしろ末法の宗祖は不軽菩薩ではない≠アとの文証となるであろう。

▼次の「末法には一乗の強敵充満すべし云云」の御文もとり立てて不軽の行を行ずべきことの文証とはならない。「不軽」とあるから引いてみたというところであろう。いずれにしても彼らのような都合勝手な切り文は、議論以前に自らの非を何とかごまかそうとする卑怯(ひきょう)者のすることであることを知らねばならない。

▼彼らの言う不軽の行≠ェ(なに)を指しているのかというに、引用の次文に
(しる)しているところから見て、「不軽の礼拝行」の意味と思われる。したがって彼らの言わんとするところは宗祖の御一代は不軽の行すなわち礼拝行を行体の上に顕わされた≠ニいうことになる。しかし大聖人は『新池御書』に
と謗法者の供養を受けることを(いまし)め、与同罪を(かた)く禁じられているのである。その大聖人が御自ら道行く邪宗謗法の徒を深く敬って礼拝などをされるわけがないではないか。

▼同論集には、さらに続けて
と言い、その文証として日有上人『化儀(けぎ)(しょう)』の第三十五条
の文を挙げている。

▼しかし彼らの文証解釈は明らかに間違っている。その理由は後にゆずるが、当宗において不軽菩薩を例証(れいしょう)として用いる所以(ゆえん)はひとつに限らないのである。不軽の例を挙げて、あるときは五種行の中の四種を(えら)んで受持一行を強調し、あるときは摂受を簡んで折伏逆化を(すす)め、あるときは安楽行を簡んで受難忍辱(じゅなんにんにく)を示し、また本已有善の機を簡んで本末有善の機を明かすという具合いに、所対(しょたい)に随ってその意味は異なるのである。しかも最も大切なことは、法華経所説の不軽菩薩が末法の御本仏日蓮大聖人の御化導のための助証として援用(えんよう)されることはあっても、大聖人の教義や行体を規定したり制約すべきものではないということである。ましてや末輩が不軽の行相を勝手に解釈して、御法主上人の御指南に敵対し宗祖の仏法はこうあるべきだなどと喋喋(ちょうちょう)することは愚かな思い(あが)りの行為としか言いようがない。

▼彼らが引用している『化儀抄』第三十五条の文意は、同抄の第百十九条の
の文と照らし合わせて拝すれば、(おの)ずと明白であろう。すなわち末法当機の修行は五種の中の受持一行であり、この証人≠ニして不軽を挙げると説かれているのである。

▼ところが彼らは受持一行の修行と折伏行とを混合して「当家の折伏行は妙法の受持正行」と曲解し、折伏は化他ではなく、員数増加・勢力拡大を旨とするものでもない≠ニ妄言を吐いている。これは宗祖大聖人の
との御聖文に背反(はいはん)する邪義であることは論ずるまでもない。

▼また、もし彼らが末法の布教は不軽菩薩の行軌(ぎょうき)に従わなければならない≠ニ考えているならば、日達上人の
との宗祖と不軽の相違を示された甚深の御指南を熟拝(じゅくはい)すべきである。

▼いずれにせよ、血脈付法の御法主上人に背逆(はいぎゃく)し、無道心の川澄に追従(ついじゅう)して()じない彼らの狂った精神構造が、そのまま末法の御本仏日蓮大聖人の御教示を軽視して中古天台ばりの不軽本因(ほんにん)説を立て、七百年間の血のにじむ如き折伏逆化の苦闘を無視して不軽の礼拝行に秋波(しゅうは)を送るという前代未聞の邪見に(つな)がっている事実を、我々はしっかりと見すえておく必要があろう。彼らの言うこと、なすことすべてが当宗の本義と信仰に逆行している。これを顛倒(てんどう)の衆生というのである。
(水島)
大日蓮 昭和60年7月(第473号・82〜86頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正した)
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