如意宝珠とは
「如意宝珠」とは、意のごとくあらゆる宝を降らせることができる珠のことで、如意宝、如意珠、また宝石の総称を意味する梵語のManiを音写した「摩尼(末尼)」とも称されています。
その形状は『摩訶止観』に、
「如意珠の如きは、天上の勝宝なり。状は芥粟の如し。大なる功能有り。浄妙の五欲、七宝の琳琅、内に蓄えたるに非ず、外より入るに非ず、前後を謀らず、多少を択ばず、麁妙を作さず。意に称い豊倹なり。降雨すること穣穣たり。添えず尽きず」(摩訶止観弘決会本 中 323頁)
と、形状は「芥粟の如し」とありますから、一〜二ミリメートルほどの非常に微細な球形と言えます。
その如意珠は、小さな一粒の中に無量の万宝が蓄えられているわけでもなく、異次元の穴のようなものでもない。また如意珠より出された万宝の量には増減はなく、あるいは万宝は幻影のごときものでもない。所持者の願いに応じて、宝や衣服、飲食を好きな分量だけ出すことができ、病気や苦悩を癒し、悪を除去し、濁った水を清らかにし、災禍を防ぐ効能があるという、この上ない宝の珠です。
日蓮大聖人は、
と、釈尊の舎利(お骨)とも一往、示されています。
釈尊の遺骨を弟子檀那が取り分けて安置し、これに信行礼拝すれば、功徳は大きいとされるところから、釈尊の舎利をもって意のごとく所願を成就する珠、と仰せられているのです。
この釈尊の舎利は「生身の舎利」といいますが、しかし釈尊の命は、釈尊が悟られた法である法華経にこそあるのです。これを「法身の舎利」といいます。
故に、即身成仏という無上の大果報を「不求自得」と現ずる法華経こそ「如意宝珠」なのです。
この如意宝珠は、仏の随自意の一教より八万四千と言われる無量の法門が出生する意に譬えられ、また凡夫の一念に三千の諸法が具足することを譬えています。前出の『摩訶止観』には続いて、
と、如意宝珠ですらこのような不思議な姿がある。どうして凡夫の心に一切の存在が具足しているということを否定できようかと示されています。
宝珠の真義
しかし、その釈尊の最高の悟りである法華経も、末法の本未有善の荒凡夫にとっては最高の良薬、すなわち如意宝珠とはならないのです。
大聖人は、
と、末法の御本仏として一切衆生救済のためにその御内証を一幅の大漫荼羅と御図顕あそばされました。
そして、
と、滅後末法の私たちの即身成仏の大法として、人法一箇の御当体たる本門戒壇の大御本尊を遺されたのです。
この本門戒壇の大御本尊こそが、仏法の一切の能生の根源、如意宝珠の真義に適う無上の宝なのです。
故に、末法の私たちが、この如意宝珠たる大御本尊に対し奉って題目を唱えるとき、
とのように、無量の功徳を頂戴できるのです。
宝珠を持つ用心
総本山第二十六世目寛上人は『法華題目抄文段』に、
「信者、当に知るべし、既に妙法の宝珠を持つ故に内外に就いて用心あり。一には謂わく、焼亡。二には謂わく、盗賊なり。所謂焼亡とは、即ち是れ不信謗法の火、妙法の無量の功徳を焼失する故なり。道乗が瞋恚の火すら尚読誦の功徳を焼く。況んや謗法の炎をや。所謂盗賊とは、即ち是れ悪鬼・魔王の障礙なり。例せば隠士・烈士の如し云云」(同 679頁)
と、この如意宝珠に対する信心を持つ上で、焼亡と盗賊の二つに用心すべきことを注意されています。
すなわち、焼亡とは謗法の火、盗賊とは悪鬼・魔王の障礙であると明かされます。不信謗法は、主に自らの三毒より起こりますが、盗賊とは『兄弟抄』に
とあるように、三障四魔(煩悩障・業障・報障、煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔)の中でも第六天の魔王による天子魔の障礙こそ盗賊の意に適うと思われます。
一度、大聖人の仏法に巡り値いながら、第六天の魔王たる池田大作に誑かされ、不信の火種を点されて、自らの三毒を盛んにし、終いには戒壇の大御本尊を否定して、この無上の宝珠を失ってしまった、創価学会員をはじめとする数多の人々がいます。
私たちは、これらの人々に対し、さらなる折伏に邁進してまいろうではありませんか。