2.
 平成16年6月東京池袋。東京都練馬区立開進第三中学校卒業21期生同窓会が、90%の高出席率の下、にぎやかに開かれた。50歳記念を銘打ったお陰かもしれないが、40歳記念の時も同様で、とにかく異様な盛り上がりを呼ぶ。幹事役グループの緻密な連携に毎回のように頭が下がる。
 恩師のご挨拶、立食による懇談、写真撮影を滞りなく終え最後はお決まりの校歌斉唱の流れ。
会場の隅っこでアコーディオンの伴奏が始まり、遠い昔確かに聴いた覚えのある歌を驚いたことに私を除いた全員が声をそろえて歌った。
 伴奏者は私のクラスメイトの一人だったが、彼女がキーボードを操れたことは知らなかった。彼女の細い指先から次々と作り出される音の流れは、私の五感を圧倒する。大きな眼は黒い瞳がその面積を占有し、小さな口元は微笑みを絶やさない。小柄な体に大きく重たそうなアコーディオンをいともなく抱きかかえ、踊るように歌うように・・・。
 校歌斉唱後もBGMを奏で続ける彼女に近づき“アルプスの少女ハイジ”の主題歌を思わずリクエストしてしまった。500ルクスほどの店内で拝顔した50歳になる同級生のパホーマンスは、それほど私には“ハイジ”に見えたのだ。
 
3.
 平成15年11月静岡清水。東海大学海洋学部海外水産開発研究会OB会(海鳴会)が、主席率が10%に満たないまま、おりしも学園祭で賑わう母校校舎内で堂々と進行した。海鳴会にとって始めての試みであり、現役学生も多数参加する。50を越えるOBと、倅と同世代の若者との懇親の場であり、幹事役の私ははなはだ緊張した。式次第の詳細に至り綿密なシナリオを書き上た。お開きは歌で締めよう。グランドフィナーレの歌は既決されていた。昔コンパの度に大合唱した歌だが、その歌に纏わるヒーローの到着が20:00になる。16:00開幕の酒宴を延々4時間もの間“まとも”な状態で引っ張れるはずが無い。途中、帰途に付く人もいるだろうし、泥酔者も現れる頃だ。打開策は「中締め」を18:30に入れることで解決した。そのプレフィナーレに使う歌に心当たりがあった。 
 
「大八木、あの歌覚えているか?」 「どの歌だ?」 私は受話器に向かって歌い始める。
「あぁー、俺が作った歌やろ? 覚えとるがな。」 「タイトルは何という?」 「しーらん。たぶん始めからなかったかも。」 「OB会で使いたいがいいか?」 「なら、ギター抱えていかなならん。」 「タイトルと歌詞を少し付け加えたいがいいか?」 「好きにしたらええがな。」
 
 会の中でもメジャーではないこの歌を知るものは恐らく数名だろう。この歌の最大の特徴は単純なこと。すなわち、誰でもすぐに歌える。だが、オリジナルフルコーラスを歌いきっても時間的に短すぎる。初耳の人は、歌詞@を聞き流し、歌詞Aはクチパクで、歌詞Bでようやく口ずさむ、のが普通の行動パターンであろう。この推測下では歌が始まるや否や歌が終わってしまう事になる。私は“いつか その日まで”とタイトルをでっち上げ、あくまでもオリジナルを尊重し歌詞A・B・C部分を加筆し、歌いだし(歌詞@)及び大合唱になっているはずの末尾(歌詞D・E)部分にオリジナルを移動した。
 
 2003/11/04 18:30 「宴たけなわとなっていますが、ここで中締めを行いたいと思います。本日は12期の大八木さんにはギターご持参で駆けつけてもらっております。大八木さん御自作の歌にてまずは締めさせていただきます。なお、お料理等まだまだ沢山残っております。8時にご到着予定の方もおられます。本会場は明朝まで借り切っておりますので、皆様お時間の許される限り引き続きご歓談いただきますよう、お願いいたします。」台本どおりの司会挨拶の後、懐かしい歌声が流れやがて大合唱へと誘った。
 
♪あなたに出会って僕は強く生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
                                      さようならまたいつか会えるその日まで
 あなたに出会って僕は優しく歌うこと覚えました ありがとうでももうお別れ
                                      さようならまたいつか会えるその日まで
 あなたに出会って僕は熱く語るここと覚えました ありがとうでももうお別れ
                                      さようならまたいつか会えるその日まで
 あなたに出会って僕は遥か想うこと覚えました ありがとうでももうお別れ
                                      さようならまたいつか会えるその日まで
 あなたに出会って僕は逞しく生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
                                      さようならまたいつか会えるその日まで
 あなたに出会って僕は一生懸命生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
                                      さようならまたいつか会えるその日まで
                                      さようならまたいつか会えるその日まで♪
 
4.
 幼少の記憶で私はバイエルを卒業している。さらに、その証拠として、とあるステージ上のグランドピアノにむしゃぶりついている蝶ネクタイに半ズボン・ハイソックス姿の私のセピア色の写真、さらには、そのとき録音したレコード盤まで現存している。 この事実はゆるぎないもので、私 生涯の自慢の種として間違いなく墓の中にまで持ち込む覚悟である。ところが、今の私は音譜がまるで読めない。読めないのだから必然的に書けない。ハイジさんと学び舎を共にした頃、通信簿の音楽欄は常に1であった事から中学時代既に音文盲に陥っていたことは容易に推察できる。 
 
 琉球王朝には文字がなかった。従って、この国の歴史を遡る為にはクチ伝えあるいは同じ時代に文字を持っていた他国の古文書を資料とする以外方法がない。話が出来るのにそれを記録することの出来ないもどかしさを琉球王朝の人達は気付いていたのか知らないが、私はこの歳に至り音譜を読むことも書くことも出来ない事に悲しみを感じている。紙と鉛筆だけで自分の感情を人に伝えられないからである。
 
 聞けばハイジさんは音大ピアノ科出身との事だ。
「歌聞いただけで音譜を書ける?」 「はぁーい!」 「じゃぁ頼むよ。一つだけ気になっている歌があるんだ。」 「OK!カセットでも送ってくれればやるよ。」
 早速私は大八木氏に連絡し、その歌を録音して郵送するよう依頼した。ところが、電話口では快諾したはずの氏からの郵便物が1週間経っても2週間経過しても届かない。催促のメールを打ってもその返信すら来ない。このままではハイジさんに対しても失礼に当たる。業を煮やした私は我が肉声を持って対応する手段に出た。だが、我が家でこれを実行すれば“お父さん やばくないー?”と家族総出で白い眼で見られるのは必至だ。当時の私は命あと幾ばくか?状況の父親を抱えており、唐突に遺言を話し出したときに対応する為、常時車に小型録音機を搭載していた。父親の入院先の病院とハイジさんのご自宅とは、東京環状8号線を挟み相対峙するほどの近さだ。私は病院に向かう途中、ギターではなくハンドルを握りながら、第三京浜爆走中の車内を録音スタジオとして使用した。
「なんだか君の声に似てるよー。雑音もすごいし。」流石に耳が鋭い。「昔からよく言われるんだ、俺と大八木の声がよく似てると。あいつのことだからきっと車の中で録音したに違いない。」
 
 数日後、楽譜も作れしかも好きな楽器で演奏も聴ける優れもののソフトを購入したとのメールと共に、楽譜のファイルが送られてきた。ファイルを開けいじくるとなんとメロディーが聞こえてきたのだ。それは概ね私のイメージにそぐったものだったが、細かな部分において所々に違和感がある。だが、それを修正する手段を私は持っていない。ハイジさんとメールのやり取りの仲で“2行目の歌詞の く をもっと長く”、“3行目の り をほんの少し高く”など、音楽用語を全く知らないものが文字だけで表現していてもらちが明かない。とうとう「あたしんちのピアノの前で君が歌ってみるしか方法はないね。」と怒られる。意を決した私は、ご自宅でもピアノ教室を開いているハイジさん宅におずおずとお邪魔しハイジさんの伴奏の下、直立不動の姿勢で歌った。そう、東海林太郎の様に。何回目かの独唱の後、「あのねー!君のは歌うたび毎に音が違う。」両の手指を鍵盤に叩きつけイ短調な不協和音を響かせながら振り返るハイジさんの顔は、中学時代私の通信簿に1を付けたあの忌まわしい音楽の先生に酷似していた。
 
 あの時は音楽実技試験だった。メロディーを奏でられる如何なる楽器を使用してもよく歌唱も可なり、と云う当時の中学生の試験としては幅のある素敵な内容だった。カスタネットが得意の私には選択肢は“歌唱”しか残されていない。先生のピアノの伴奏の下、“春の小川”を私は声高らかに歌った。突然、先生が両の手指を鍵盤に叩きつけト短調な不協和音を響かせながら振り返り「あのねー!君の“春の小川”は演歌に聞こえます。文部省唱歌をなんと失礼な!」
 
「さー!もう一度歌ってごらん。」ハイジ先生は優しい。修正の鉛筆で埋め尽くされた譜面を前に再び鍵盤を叩き始めた。
 
「出来たよー!これでどおー?」数日後に届いたメールファイルは完璧なものだった。ところが、その翌日大八木氏から「ピアノの先生のご自宅宛、例のカセットを送った。明日には届く。少し遅くなってすまない。」1ヶ月ぶりの返信である。この男には時間の感覚がないらしい。約束を守ってくれた事には感謝するが、奴の肉声が記録されたテープがハイジさん宅に届いた瞬間、私は大うそつきになってしまう。これは不味い。
「お許し下さい。今まで私は嘘を吐いておりました・・・」
「着いたよー。ギター入りだったよ。でも、君の歌とまずキーからして違うよ!これじゃ今の楽譜全部書き換えだよ。君のと君のお友達の歌とどちらが本物なの?」
「ご指摘まことに恐れ入ります。お手数ですがテープのほうで改めていただければ幸いです。」
 
 楽曲カレンは幾たびかの苦悩の山を乗り越え2004/08に楽譜として完成した。もちろん素敵な改名はハイジさんの手による。
5.
 その後、何回かこの歌にまつわる仲間の集まりがあった。“カレン保存委員会”と銘打った集まりの度「上京されたし。」のメールを作曲者に打つのだが、返信が全くない。集まりは主役のいないまま開催されるはめになる。平成16年11月には三鷹“文鳥舎”を使わせて頂き、ハイジさんのピアノそしてリエさんの篠笛による素敵なコラボレーションは名曲“カレン”の東京初演に花を添えた。
 平成17年9月に開かれた“カレン保存委員会”では多方面からのご出席を頂き、結果その翌日には楽譜と共にデジタルなメロディーがインターネットを利用して世界中に発信された。
 世の中の急速なITの発達の恩恵を身近に受け感激覚めやらぬある日の未明、私は小用の為ベッドから抜け出した。金魚が泳ぐトイレに一刻も急がなければいけない。そのとき充電器にセット済みの携帯が唐突に振動し着信を告げた。
「11月14日金曜日に東京に出張します。夕方には自由になりますのでどこかで会いませんか。近隣の仲間たちと相談して連絡下さい。大八木」
金魚を背中に私はしゃがみながらメールを開けた。とうとう奴が来る。ようし、1ヶ月あれば盛大なコンサートが用意出来よう!深夜にも関わらず我が灰色の脳細胞がむっくりと動き出した途端、再び着信のシグナルが鳴った。
「10月14日金曜日に東京に出張します。夕方には自由になりますのでどこかで会いませんか。近隣の仲間たちと相談して連絡下さい。大八木」
この男、1ヶ月も前の私からのメールタイトルをそのまま返信表題に使い、しかも1ヶ月も間違った連絡を送りつけて来たのだ。しかも3日後に来るという。
 東京駅八重洲口。ビックエコー八重洲中央店(カラオケ屋)の狭い一室は大八木の生ギターの音色で溢れていた。いつの間に練習を積んだのか学生時代よりもはるかに上手になっている。NGを連発したがMDに歌声を収録した。
 大八木のわかれうた『カレン』は、インターネットで今、誰でも聞くことが出来る。
 
          私には別れうた唄いの影がある 
                           好きで別れうた唄う筈もない 
                                          他に知らないから口ずさむ。
2005/10/28 升
 
あとがき
大八木氏の学生時代のアパートを再現するのに苦労した。当時の仲間にも取材した。ところが、或る者はアナゴだと言い、また或る者はウツボに違いないと言い張り、互いに譲らない。しかたなく如何なる魚類図鑑にも掲載されていない“ウツボアナゴ”を登場させた。取材にご協力頂いた今宮氏ならびに三宅氏に感謝いたします。なお、大八木氏ご本人にも尋ねたところ「俺のアパートがどうした?」の返信が珍しく入ったきり、未だに沙汰がありません。
 まことに勝手ながら、本文中『カレン』と同じ年に生まれた“わかれうた”(中島みゆき)の歌詞の一部を引用させて頂きました。
 最後に、私の長年に亘る想いを実現して頂き、且つ、本文の校正に至るまでお力添え頂きましたハイジ先生には、<直立不動>にてこうべを下げます。
譜面(大八木のわかれうた)
譜面(大八木のわかれうた)
タツロウ
前略
 中川隆は10年ほど前、磯子区洋光台に住んでいました。
 ある日、鴻池タツロウと鴻池のネイティブブラジルな奥様と共に、我が家に遊びに来てくれました。
 失業中の私と、ブラジルで海老の養殖を持って一発当てようとするタツロウ、日々10時間以上ボンベの空気を吸って生活している中川。ポルトガル語しか理解できないブラジリアン。この奇妙な席は、改築前の私が生まれた当時のままのトタンぶきの屋根を持つ、畳の8畳間で進行されました。
 
 タツロウとは学生時代サークルがいっしょでした。卒業年度は私と同じなのですが彼は留年組みだった為、私たちは“さん付け”で呼び、一線を引いて付き合っていました。でも、ノー天気で風来坊の性格が持ち前のタツロウは、我々から引いた一線を掻い潜り、いつも笑いかけて来ました。
 面長な顔に高くはないが長い鼻、切れ長の目尻は両方ともだらしなく垂れ落ちています。まつ毛が長く、深い二十目蓋が遠目ではアイシャドウを引いた様にも見えます。口元も目尻と同じように両端が下がり、しかもいつも開いているのです。開いた口の中には前歯がありません。長髪は額の中ほどから適当に左右に分かれ、アズキ色のバンダナで纏めていました。歯がない為か会話に歯切れがなく、口の中に唾液がいっぱい溜まっているらしくともすると途中よだれが垂れるのです。それを右手の甲でぬぐいながらしゃべり続けるものだから、周囲の者はいっそうその会話の内容を把握するのが困難となっていました。身長は170センチ弱で痩せていました。服装は他の学生とさほど異なるものはないのですが、その風貌から駅や公園のベンチで夜を明かす人達とよく間違えられている様でしたが、実際何処へでも潜り込むその通りの人なのです。
 学生時代のタツロウがどの様な生活を送っていたのか正直なところよく知りません。卒業してしばらくは国内にいたようですが数年後に、ブラジルでスッポンの養殖をしているとの情報を得ました。もちろん、在学時代にあの程度の付き合いだったので手紙のやり取りなどはなく、人伝えで耳にしたものです。 
 そのタツロウが私の身近に現れたのは私が35歳の時、久米島でした。スッポンをあきらめ海老に転じる為の研修というのが、彼の来島の目的です。久米島には現在でも4軒(久米島漁協・南西興産梶E久米養殖梶E潟Gポック)の車えび養殖場が操業を続けていますが、その当時養殖場場長として久米養殖に私が、久米島漁協に渡辺勉さんがそれぞれ勤めていました。渡辺さんもタツロウや私と同じサークルの大先輩で、私が大三島や久米島で生活することになったのも、そもそもこの人のお陰です。今回タツロウは私たちのサークルの同一恩師のご紹介で、大先輩のもとへ研修に来たのが経緯です。
 大学時代のタツロウから得た記憶とはまるで別人のように彼は真剣でした。10日間ほど漁協の事務所の空き部屋に寝泊りしながら仕事を手伝い、暇を見つけては私のところへも日参してきては海老づくしの話を聞いていました。タツロウが島を離れる前の夜、渡辺さんと一緒にヒージャーと久米仙でへべれけになるまで飲み、彼の新しい門出を祝った思い出があります。
 タツロウが久米島を出発してから半年ほどして、「お陰さまで、ブラジルの倅がようやく海老の養殖で成功しているようです・・・。」なる手紙が舞い込みました。手紙には現地の新聞記事のコピー(写真入り)が同封されていて、恐らくブラジルからタツロウが彼のお父さん宛に送ったものを、東京に住むお父さんが私に転送してくれたものだと思います。写真は非常に不鮮明なものでしたが、巨大なポンプで水を揚げている絵のようだったと思います。記事はポルトガル語なので当然読めませんでした。
 それからしばらくして私は諸般の理由で天草に移動することになります。ブラジルと日本がどれほどの時差があるのかよく解りませんが、突然タツロウから国際電話がありました。ノイズが酷く、また会話と会話の間が“イッコク 堂”の芸の様に間延びする為、聞き取るのに苦労しました。内容を要約すると「収穫した海老を現状では冷凍処理している。今後活き海老としての販売を展開していきたい。いろいろ試行錯誤したが日本の車えびの様にオガクズの中で長時間維持できない。何かアイディアないか?」でした。タツロウが対象としている海老は車えびではないので、車えびしか経験のない私には回答のしようがありません。タツロウが久米島に来た時期は出荷シーズンではなかった事から、とりあえず車えびの場合の採集から出荷梱包までの技術的留意点をレクチャーし、電話を切りました。
 以来沙汰がないまま、2年後に私は天草を引き上げ、海老からも足を洗い、まっとうな人生を歩む為、故郷横浜へ戻りました。引き止める人もいましたが、老いた親父の面倒を見る、という言葉を言い訳に使いました。
 
 8畳間の座卓を挟み、タツロウと私・中川とタツロウの奥様がそれぞれ向き合って座り、酒が始まりました。中川はスキューバのボンベや撮影機材のいっさいがっさいが積み込める程の大きなバンで来ていた為、お茶です。奥様も下戸との事でお茶。結局私とタツロウだけが盛り上がってしまいました。会話の内容はまさに実際に海老のハンドリングに携わらないと理解不能な繊細な部分に終始した為、日本語がわからない奥様はもとより、中川さえも付いて来られないものでした。
 相変わらず顔は笑っていましたが、話を聞けば聞くほどに、タツロウ自身が置かれている現実は予想以上に厳しいものでした。
 ブラジルの国策の一つとして広大な海老養殖用の用地と設備が開拓され、それを多数の企業が買い取り操業しているらしく、タツロウの立場はそれらの企業の一契約技術屋でした。成功報酬が収入のほとんどで何の生活保障もないそうです。海老の種苗は天然採捕に依存し、広すぎる養殖池を満たすのには短期間では全く不十分で、いつも中途半端な密度のまま養成が始まるとの事です。餌も安価な魚介類が手に入った時にしか与えられず、換水は注排水併用の共用水路を利用するしか無いようです。このような環境の下、数ヶ月後に取り上げて見ると、投入した種苗とは別の種類の海老しか採捕されない事は当たり前で、魚一匹いない場合も多々あるらしい。これ即ち、技術といえるものからは相当な隔たりがある、博打の世界だと私は思ってしまいました。
「親父さんのお手紙を読んだ限り、あなたの事を自慢げに書いていたようだが?」
「あー、心配かけてもいけないので、な。嘘をついている。」
 見物がてらベイブリッジを渡って東京まで送って行くと云い置き、中川が運転席の煤けたドアを閉めたのは22時を回っていました。6月の中ごろのことでした。
 7月の半ばから私の家は改築工事の予定で、竣工までの間、家族は近くの借家に仮住まいを余儀なくされました。荷物もほとんど運び終え、そろそろ生活の場をも移動しようかという頃、タツロウから連絡が入りました。「数日うちにブラジルに発つ。先日聞き忘れたことがある。今からでもそちらに伺いたいが宜しいか?」
 今回はタツロウただ一人で杉田駅の階段を下りて来ました。例の8畳間は既に座卓もないため、私は酒とつまみを持ち出し、まだ誰もいない仮住まいの方に彼を誘いました。
「親父が入院した。先は長くないとの見立てだ。俺はあさってブラジルに戻るつもりだ。だが、親戚一同から親を見捨てて行くのかと非難されている。お袋はとうに亡くなっているし、一人っ子の俺はいったいどうしたらいいのか?」
 歯切れの悪さはいつもの様でしたが、あいた唇から流れ落ちる液体はこの時ばかりは唾液ではなく、両の眼から長い頬をつたった涙の塊でした。
「ご親戚が狼狽するのは当たり前です。親の最後を見届けるのも子の責務だと思っています。親は安心してそして甘えながら旅たっていけるでしょう。でも、そんな幸せな孝行が出来得る男が果たしてどれほどの割合でいるのでしょうか? タツロウさん、お父さんのお手紙を拝読させて頂いた限り、お父さんはあなたを誇りに思っています。そして、あなたの成功を恐らくご自分の命よりも大事に念じていらっしゃる筈です。いまお父さんのもとを離れなければいけないことが、お父さんの想いに少しでも近づけるのであれば、、、」
 タツロウの“聞き忘れたこと”などではない相談話に生意気にも私は結論を述べてしまいました。すでに上りの終電が走り去った時間です。「泊まっていくだろ?」「いや、帰りたい。親父が待ってる。」 池袋でタツロウを降ろし、Uターンして戻ってきた頃には東の空が輝き始めていました。
 以来、タツロウからの連絡はありません。
 
タツロウ
 中川隆の話の筈がタツロウの話に終始してしまいました。長くなりました。中川の話はまた別の機会にお話しましょう。あっ、彼のことは本名にて検索エンジンで捜したほうが早いかも知れません。
                                                                怱々
2005/11/02 升
 
画像はカッパHPから無断でお借りしました。
 
 
八男坊
1.青春編
 
 静岡鉄道の電車は銀色の車体で新静岡駅と新清水駅との間を走っている。双方の駅がJR駅に乗り込んでいないのには何か深い訳があると思うが、私は何も知らない。新静岡を出発した銀色の電車は、JR清水駅近くまで暫くの間東海道本線と併走した後、東海道本線が北に首を向けるのとほぼ同時に東を正面として終点新清水駅に到着する。500メートル北にはJR清水駅が南北にプラットホームを伸ばしているのに対照して、この駅は東西に腕を広げている。駅の南側の巴町、駅東口正面を南北に走る国道149号線の向こうには相生町・旭町があり、何れも清水を代表する歓楽街である。三保に繋がる国道とはいえこの界隈は片側1車線でさほど広くはないのだが、その昔数々の酔客が国道を走る車に戦いを挑んだ証の様に、横断地下道が地下牢の如く掘られている。地下牢の東南に向いた出口の角地には、木造2階建ての店舗が35年以上も前から、変わらぬ営業を続けている。長い歴史の中で多くの貧乏学生や外国籍船員を虜にした「八男坊」である。焼き鳥15円/串・スズメ丸焼き120円/2羽・熱燗100円/8勺、と言えばご納得頂けよう。
 その伝説の焼き鳥屋「八男坊」で、一人の友人と、私は北と西側を海鼠壁に囲まれた格子戸を開けた。時計は21時を回っていた。
 店内が薄暗いのは照明のせいだけではない。元は白かったであろう壁や木柱、カウンターに木製のテーブルに至るまで、柿渋を幾重にも重ね塗りしたように黒く押し黙っている為だ。丁度6角形の一辺に当たる格子戸をくぐると左手に8脚の椅子が置かれたカウンターが海に向かい延びている。カウンターの奥の棚には透明な一升瓶や皿、お燗用のアルミタンポ、徳利・グラス・お猪口などが整然と置かれている。カウンターの後方には4人が座れるテーブルが三つ並んでいる。
 祭日前でもあり店内はほぼ満席。丁度、焼き鳥が一串10円から15円に途方も無い値上げを遂げたばかりで、テーブル席の外国籍船員たちは半年前に入港した時の勢いは無い。
 砂肝とスズメそれに酒。私の注文に親父から反応があり、「焼き物は塩、酒は徳利で熱いの!」と答える。「もとい!スズメはタレにして。」と修正を加えた。
  一つ跳びに空いていたカウンター席を詰めてもらって座る隣の青年は、小柄で細身だが肩幅は広い。シワシワの黒い革ジャンにジーンズ。革ジャンの下はTシャツ1枚。頭髪はスズメの巣のようにクシャクシャに纏まっているが、その中央部の頭皮がむき出しになっているのを隠す目的であることを、私は周知している。札幌時代からのラグビー部の先輩で航海専攻科の学生だ。名を池永順二と言い将来は外国航路の船長を目指している。
 私達が座るのと同時に徳利がカウンターの向こう側から置かれる。この店は特注すれば徳利で酒が飲めるが、通常はアルミタンポのまま出てくる。それをガラスのコップに手酌で注ぎキューッとやるのも美味いのだが、一人の時はお銚子にお猪口、私はこだわる。池永さんも同じ嗜好で、実に生意気な学生の二人連れだ。
 砂肝は串焼きではなく皿の中でコロコロ転がりながら出される。炭火焼が看板のこの店には珍しく、砂肝は炒って出てくる。まず、フライパンに塩を振り熱する。塩がチリチリ唄い始めた頃、飾り包丁を入れ一口大に切った砂肝を入れ炒める。鮮度のいい砂肝は刺身でもいけるので焼き過ぎない事が肝要だ。
 
「升よ!この酒水っぽくないか?」
「実は私も感じていましたが、池永さんが黙って飲んでいるから、私の体調がおかしいのだと思い込んでいたところです。」早速カウンターの小母さんに文句を言う。
「あーっ!お客さんごめんなさい。徳利を暖める為に入れたお湯を、入れ替えずにそのまま出しちゃった。だけどもう空っぽだよ! でもあんた達、これだけ飲んで今気が付いたの?」
 
 この事件以来、二人は酒の味に関するこだわりを、一切捨てた。たとえ水でも親しい人とであれば酔えるのだ。
 
八男坊
2.さらば青春編
 
 JR清水駅の正面を右折する。国道149号線だ。200m程南下した東海道本線を横断する陸橋(清水橋)は今補修工事中である。その橋を渡りきった右手が静鉄の新清水駅東口。駅の向こうの巴町、国道の左手には相生町・旭町があり、何れも清水を代表する歓楽街である。新清水駅前の海鼠塀で囲まれた古い2階建店舗前の信号を左折する。宵の口だと言うのにこの店には灯りが燈っていない。次の交差点を左に回る、更に次の信号を左に曲がり、そして東海道線の踏み切りの手前を左に折れると清水橋の側道に出る。ホテルサンポートの駐車場に車を乗り入れる為は、一方通行のこの道路を使うしか道は無い。三浦を出たときからかけっ放しの“小椋佳best&best”に別れを告げて、ホテルサンポートに宿を取る。そそくさと外出した。ホテルの右隣には、粋な寿司屋と見まがうほど小奇麗な店舗がのれんを出している。
 
 その焼き鳥屋「八男坊」で昨夜、私は古い仲間たちと待ち合わせをした。待ち合わせと言っても、私の一方的なメールによるお誘いをしたに過ぎなかったのだが、ご丁寧にも何人かからは「残念ながら・・・」の返信を頂いていた。誰かひょっこり現れるかもしれない期待を持って私は「八男坊」の格子戸を開けた。時計は21時を回っていた。
 店内は白を基調とし、カウンターも幅広くチーク色に輝いている。カウンターの正面にはガラス製の寿司屋でよく見かけるネタケースが置かれ、内部には魚ではなく串に刺された鳥類の肉片が収められている。カウンターの後方の広いスペースには同じくチーク色に輝く集合材製のしゃれた椅子席が並び、30余名の酔客を同時に収容可能と見た。
 私はカウンター内部の厨房が丸見えのサイドカウンターに席を取った。その厨房は間取り・設備・テーブル・シンクに至るまで、どう見ても寿司屋のそれだ。焼き鳥屋が廃業した寿司屋を居抜で買収したに違いないが、文化の日の前夜にも拘らず客は私だけ、この焼き鳥屋も危ない。悲しいかな、寂れ行きつつある清水港を象徴する現象と受け取った。
 広いカウンターの内側に、肥えた小母ちゃんと痩せた小母ちゃん、それに股が膝の位置にある薄汚いジーンズを履いた若い男がいるのだが、どうにも皆愛想が無い。30年前の話をしても笑顔すら戻ってこない。ひたすら酒を飲むことに関してさほど気の短い仲間を誘った覚えは無いのだが、待ちあぐねて場所を変えてしまった後か? カウンターの中の痩せた小母さんに、店を訪れたかもしれない友人の人相を告げ、確認した。だが、それらしき人は来ていないとの返事だ。
砂肝とスズメ焼き、それに酒を注文した。痩せた小母ちゃんに聞かれ「焼き物は塩、酒は徳利で熱いの!」と答える。「もとい!スズメはタレにして。」と修正を加えると、頷きながらも徳利は置いていないとの返事が戻った。カウンター越しの真っ赤な備長炭の上に、痩せた小母ちゃんが串に刺された砂肝を2本、無造作に乗せる。「あれー!昔はね、フライパンで炒ってたよ。」再び、30年前の話をしても笑顔すら戻ってこない。膝股ジーンズの男がアルミタンポとグラスを持ってきた。
 
 私はグラスをもう一つ頼み、2つのグラス均等に酒を注ぎ、懐かしい池永さんに先ずは乾杯。
 砂肝(100円)とスズメ(350円)が焼きあがった。痩せた小母ちゃんが練りカラシを皿の淵に添えて、私の前に置くのだが、何れの皿も串元が皿の右側にありどうも食べにくい。
 
「でっかいスピーカーで今でもジャズ聞いてます?」美味しそうな写真入ポスターが壁に貼ってあったので思わず枝豆(250円)を注文した。だが、売り切れとの返事。 
「ラグビーは?相変わらすスタンドオフですか?」枝豆の替わりに冷奴(200円)を頼む。
「新婚旅行の折はお世話になりましたねー。伊万里で。」カシラ(100円)。
「大三島で井戸堀り手伝って頂いた事覚えてます?」焼酎お湯割り(350円)に切り替え。
「久米島沖から船舶電話で電話くれたでしょう?」獅子唐(100円)。
「タンカーの船長とバスの運転手と何処が違うの?なんて失礼な発言いまさらながらお詫びします。」モツ(80円)。
「杉田に越して来たときは、池永さんが軽トラックで駆けつけてくれたので大助かりでしたよ。」レバー(80円)。
「庭の瓢箪、栗木のお家に持ち帰ってどうしました?」ハツ(80円)。
「あの時は驚きましたよ、だって、十字架の下で寝てるんだもの!冷たくなって。」焼酎お代わり。
「賛美歌を歌いながら大泣きしてしまい奥さんをおどろかせてしまいました。」豚タン(80円)。
「柴田さんには会えました? 五明さんは?」鳥皮の煮込(250円)は初めての味だが美味くない。鳥皮は焼くに限る。
「杉田小学校のグランドでたまにボール蹴りをしてるんですが相手がいなくて寂しい思いしてます。なんで一人で逝ってしまったんですか?」
 
 肥えた小母さんがカウンターの向こうから私のもう一つのグラスを覗き込み、一向に酒が減っていないことをいぶかしみ出した。頃合いだ。グラスの冷えた熱燗を飲み干し、愛想の無い店におあいそを支払い私は“八男坊新店”を後にした。
2005/11/14 升
あとがき
@海鼠塀を共有している東側の蕎麦屋が年内に移転するそうです。伴いその2階建ての建物は解体されると聞きました。
 
A本屈文に使用した画像は実際に私が携帯で撮影しました。当日店内から今回来られなかった仲間達にその画像をメールで送ろうとしました。ところが、何度試しても全て送信エラーの表示が出てしまうのです。アンテナは3本とも直立しているにも係わらず。
私の肌は鳥皮の塩焼き状態に陥ってしまいました。ネット上に無事載るか非常に不安ながら筆を置きます。
B旧八男坊店舗概要に貴重なご報告を頂きました、海鳴会10期黒田・12期三宅・今宮20期清水、各氏に感謝いたします。
B八男坊を出た私はいつもの様に道産子に向かいました。
C道産子編
 八男坊を後にした私はもう一つの伝説の店“道産子”を探しに徘徊した。その店は私たちが清水を離れてから5年程あとに「もう歳なので店をたたみ引退します。」と、懐かしいママさんからお葉書を頂戴していたので、今あるはずも無い。だが、店・建築物は界隈に遺跡の如く存在していても何の不思議も無いだろう。
 巴町を3周した。黒い瞳と黒い髪を持ちながら片言の日本語しか話せない若いお嬢さん達から町の角々で「マッサージ、3ゼンエン。カラダゼンブスルヨ!ドウデスカ?」とあり難い歓迎を頂いた。「マッサージ、タダデイイカラオレガヤッテアゲルヨ。カラダゼンブシテアゲルヨー!ドウデスカ?」誘惑を掻い潜り、巴町をあきらめた私は相生町裏通りに足を向けた。
 末広鮨は開店休業状態だ。
 “新世界通り”路地とも窺がえる狭い飲み屋だらけの狭いアーケード。入り口から3軒目の店造りに私は反応した。アーケード内の殆どの店に灯りが付いていない中、“幸”と言うその店の看板がひっそりと白く光る。思わずドアを開けた私にカウンターの内・外から男女4人の好奇な視線が集中した。が、その視線を跳ね返し瞬時に店内を私は観察する。カウンターの幅、曲がり具合、席数、とまり木の後方にあるスペースはあの大きなジュークボックスを置くに十分だ。カウンターの向こうの棚はダルマを並べるにふさわしい。
 間違いない。ママも藤沢も市役所3人組もそして私の仲間もいないが、道産子だった。
「あのー、つかぬ事をお聞きしますが、この辺りに昔道産子と言うお店がありませんでしたか? 30年ほど前の事なんですが?」
「すみませんねー、30年前なら私生まれていませんので。」40過ぎの小母さんがカウンターの中から笑顔で即答した。
 “幸”の戸を閉めた私は“ラーメンの宴”を探しに更なる徘徊を続けた。
合掌
あさりの芽 8
問題山積みのプロジェクトの中で当たり前の様に些細なトラブルが発生した。契約日を過ぎても契約書添付の土地・建物賃貸借契約に関わる覚書第2条が履行されないのだ。即ち、“甲は,本契約開始日までに、賃貸借物件G の居宅部分から、乙の経費負担による代替住宅に転居するものとする。”の内容の居宅部分=久米島養殖天草事業場管理棟兼従業員宿舎予定部分、から“甲”の家族が転居しないのだ。代替住宅が見つからないのがその理由であったが、何れにせよ契約不履行に違いはない。既に、彼らとは養殖池の掃除作業において一緒に汗を流す仲であったので、いざこざは避けたいのだが、私たちにも計画がある。困り果てていたところ竹山が連日押しかけ、まるでそれが彼の本業であるが様に“甲”一家に対し脅しをかける。地上げ屋そのものの言動を持って。
            
 徒歩5分程の空き家に彼らが越した後、早速、久米島養殖滑e事業所から人選し、天草事業所緊急援助隊を呼び込んだ。即ち、種子島事業場から元陸上自衛隊戦車操縦士の2名、那覇営業所から元海上自衛隊巡視船甲板員の1名、久米島事業場から日大農獣医学部水産学科出身の1名、リゾートホテル久米アイランドから休職中の元総料理長1名、さらに、竹山の浅海開発鰍ゥら竹山の同期生と言う社員1名が続々結集した。同時に先遣員の臨時会計係は種子島に帰島。                             
 天草事業場は5名の応援を得てもなお多忙な状況だ。池掃除を継続しながら、作業完了の池に、台湾からの大型種の投入が既に始まっているからだ。種苗の殆どの到着が夜間に集中し、間髪いれずに放流作業が始まる。 梱包資材であるオガクズを海老ごとふるいにかけ分離する。金網を斜めに立てかけ、海老だけが末端の籠の中に転がり落ちる仕掛けを手造りで開発済みだ。籠に集めた海老を海水で洗い、冷却水槽に収容する。この水槽は、水温を開封時のオガクズ温度と放流池水温との中間温度に設定され、更に、1ppmのOTC(塩酸オキシテトラサイクリン)が溶解されていて、温度馴致と共に細菌感染症予防対策としての薬浴の場を担っている。水槽に30分程寝かし順次池に放つ。この作業は云わばオガクズとの戦いで、1トンの海老を処理した後には1トンのオガクズの山が築き上げられていて、作業員は、鼻腔はもちろん全身真っ白な怪人に変身している。
 私はこの多重作業時の混乱を避ける為、基本的人員配置を施した。池掃除部分は陸・海自衛隊に依託し、私と“甲”一家は種苗受け入れ担当、水産学科は放養後の池管理、総料理長は“潮間仕事軍団”の送迎及び私を含む6名分の三食の賄い。幸い、“潮間仕事軍団”には貴重なるご信頼を賜り、作業完了後の一括払いOKのご了承を頂いていた。だがトラブルは相次ぐ。 
                          
「桝本さん!桝本さん。困ったことになりましたよー。一昨日から例のカネ宮水産の社長が来てましてねー、沢山買い捲って行きました。いやー、桝本さんの海老はもちろん確保してありますがねー、問題は飛行機のキャパなんです。福岡便だけでは積み切れないんですよ。カネ宮さんの荷物が多すぎましてねー。それで、大阪便も使いたいのですがねー、これを使うとねー、熊本便最終に間に合いません。陸送すると到着が未明になってしまいますが如何しましょう?」「OK! 受け取り側が寝なければいい話のようだからどんどん送って!」
 
「桝本さん! 困ったことになりましたよー。トラクターが池の中で立ち往生してしまいました。エンジンがかからないんです。セルが回らないのでバッテリーを外して今充電中なのですが、潮が上がってきて間に合うかどうか!」戦車隊の報告に飛び出すと、竹山の一の子分である栄松氏から拝借しているポンコツが前輪の殆どを水中に没している。大潮に伴い恐らく後1時間でマフラーからエンジンに海水が浸入するだろう。拙い!国道沿いの土木工事現場にユンボが置かれていたことを思い出した私は走った。黄色いヘルメットの小父さんに事情を説明し操縦席に飛び乗り、キャタピラを唸らせてトラクター救出に向かう。サンダーバードU号の様に。現場到着と同時に、沈没寸前のトラクターの煙突マフラーから黒煙が上がり、傍観者一同の歓声が聞こえた。充電が間に合ったのだ。
 
「桝本さん! 困ったことになりましたよー。一晩寝かせた方が美味いので昨日からカレーを作っていたんですが失敗しました。砂糖と塩を間違いました。どうしましょう?」 
 
     
 沖縄洋食調理師会の重鎮でもある総料理長が狼狽している。試食したがその本格カレーはただのシオッカレー。その日の昼食は外食に決定。
 
「桝本さん!ニュース見ましたか?新聞にも載っています。カネ宮の海老が全滅しました。国道沿いの一池だけらしいのですが、誰かが農薬を投げ込んだようです。あっ、私では決してありません。」受話器の向こうで竹山のにやついた顔が目に浮かんだ。
2005/11/29 升
 
あさりの芽 8
あさりの芽 9
 日本中の水産卸売市場は条例で定められた日を休市としている。日曜祝日は勿論のこと隔週の水曜日がそれに充当するが、逆に、連休の最中や年末など臨時開市と称して特定営業日を設けている。全国の市場は情報・物流のネットワークで結ばれており、一市場の単独営業はリスクが多く困難と言える。ところが、日本の臍であるA市の市場はへそ曲がりで、日曜日を営業し木曜日を休む。
 休市日は当日の市場内(荷受側)労働者は基より、前日は出荷者(荷主側)、物流関係者は両者を繋ぐ時間帯が休息日になりえる。荷主はただの1軒とはいえへそ曲がりを相手にしてしまうと休みが無くなる。 
 A市中央卸売市場はタコだけを扱っているわけではなく海老も扱う。通常営業日の活き車海老(マキ海老)の扱い量は100k程度なのだが、日曜日には2〜3倍の扱い量に膨れ上がる。前日の土曜日に仕入れそこねた客がA市内だけでなく遠方からも遥々買いに来るのがその理由だ。
 へそ曲がりはにおいで互いを識別し肩を寄せ合うのか、私はこの市場とお付き合いをしてしまっていた。市場と総じているが正確には当該市場内卸売り会社との取引である。当初は安藤と言う牛乳瓶の底眼鏡をかけたドスの利いた声を持つ小父さんが担当だったが、彼は関西人特有の“おどし”で荷物を呼ぶ(集荷する)。「えーでっか、桝本さん。明日30甲積んでや、1甲でも削ったら付き合い止めさせて貰いまっせ!」別に脅迫される様な弱みは掴まれていなくても、言いなりに出荷しないと“どやされる”雰囲気だ。半ば、してやられた気分でいると翌日の“聞かせ(せり販売報告電話)”は「まわしのピン丸(平均販売単価1万円/kg)。どがいでっしゃろ。」で仕切ってくる。通常営業日の相場が7千円の時である。やがて、安藤氏が部長に昇格し、担当が氏の一の子分である黒石と言う坊主頭に替わってもこのあやしい関係は継承された。
 休日出勤のリスクを吹き飛ばすこの蜜の様な美味しい市場は、有志の同業他社から当然狙われる。何故、桝本が休日にせこせこ働いているのだろう?きっといい話に違いない。私の出荷先を荷札から看破した彼らは当該荷受に相場を問い合わせる。問い合わせの電話を取った瞬間から黒石氏は“卸売市場法”を犯す罪人に変わる。すなわち、あらゆる出荷者に対し公平にあるべき事が義務とされる荷受の彼らが、相場を低く改ざんして問い合わせに対する回答とするのである。
 それでも諦めずに一方的に送られて来た荷物はごみ同然の価格で売り飛ばしてしまう。普通の荷主はその市場には二度と積まなくなる(出荷しない)。独占禁止法に触れそうなこの荷受のマキ海老に対する荷主は、2社に限られていた。 その一つが久米島養殖であり、いま一つはカネ宮水産なのだ。安藤・黒石両氏は沖縄最大大手と天草最大大手の養殖業者から各出荷時期を上手くコントロールして周年に渡り市場を牛耳っていたのだ。平等に開かれた公設市場にあって消費者にとってはある意味で好ましくない現象とは言えるが(良品の安定供給はメリットとなる)、荷主及び荷受の利益追求にとっては理想的な蜜月関係と言える。黒石氏は氏にはもったいないほどの美しいご婦人を伴い、ハネムーン旅行で久米島を訪れたほどである。
 
 当時のカネ宮水産は疾病害により廃業に追い込まれた天草周辺の同業者の施設を買収あるいは賃借し、急激に生産量を上げていて市場への影響も強力なものであった。対する我々は久米島を筆頭に竹富島・種子島と着々と事業所を展開しそして天草に至っている。両陣営の大きく異なる点は一つだけ。カネ宮水産は天草周辺に点在する養殖池から取り上げた海老を一箇所の出荷場に集約し、同一ブランド名で全国の市場にばら撒く。このやり方は市場占有力を最大限に活かす理想的手段である。一方、我々は1000キロもの海を隔てた海老が到底おなじブランドになるはずもなく、各事業所がてんでに売る形態だ。然るに、我々の存在はそれほど目立つものではないのだが、到る所でカネ宮水産とぶつかる。私は最大のライバルと位置づけていた。
「おい、黒石。ついに天草まで来た。もうカネ宮の海老に頼らなくてもうちのグループから一年中積んでやるがどうだ。」
「すんません、桝本さん。そればっかりはご勘弁下さい。うちにも付き合いっちゅうもんがあります。すんません、天草事業所の海老だけは積まんで下さい。すんまへん、後生でッせ!」黒石の返事が詰まり、親分安東が久しぶりに応対した。
 
次ページへ続く
あさりの芽 9
 そのカネ宮水産の池に農薬が投げ込まれたと言う。海老は農薬に極めて弱くppbの単位で死に至る。ペットボトルの一本でもあれば事は済む。その現場は我々の池から10k程南下した国道の右手に隣接していた。国道を北上する車の左車窓から手の届く距離だ。
そういえば、竹山の白いベンツは左ハンドルだった。
2005/12/03 升
Mawar
社長中澤茂の逡巡 第五話
 
プロローグ
 協定世界時(きょうていせかいじ UTC: Coordinated Universal Time)は、天文学的に決められる世界時(UT1、グリニッジ標準時)をもとにして、国際協定により人工的に維持されている世界共通の標準時。具体的には、セシウム原子時計が刻む原子時を、世界時との差が0.9秒以内になるように閏秒を挿入して維持している。世界各国の標準時はこれを基準として決めている。日本標準時 (JST) は、協定世界時より9時間進んでおり、「+0900(JST)」のように表示する。
 略称を決めるとき、英語のCUT(Coordinated Universal Time)とフランス語のTUC(Temps Universel Coordonne)が争って決まらなかったため、どちらでもないUTCになった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
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Last updated: 2007/11/25