前略
中川隆は10年ほど前、磯子区洋光台に住んでいました。
ある日、鴻池タツロウと鴻池のネイティブブラジルな奥様と共に、我が家に遊びに来てくれました。
失業中の私と、ブラジルで海老の養殖を持って一発当てようとするタツロウ、日々10時間以上ボンベの空気を吸って生活している中川。ポルトガル語しか理解できないブラジリアン。この奇妙な席は、改築前の私が生まれた当時のままのトタンぶきの屋根を持つ、畳の8畳間で進行されました。
タツロウとは学生時代サークルがいっしょでした。卒業年度は私と同じなのですが彼は留年組みだった為、私たちは“さん付け”で呼び、一線を引いて付き合っていました。でも、ノー天気で風来坊の性格が持ち前のタツロウは、我々から引いた一線を掻い潜り、いつも笑いかけて来ました。
面長な顔に高くはないが長い鼻、切れ長の目尻は両方ともだらしなく垂れ落ちています。まつ毛が長く、深い二十目蓋が遠目ではアイシャドウを引いた様にも見えます。口元も目尻と同じように両端が下がり、しかもいつも開いているのです。開いた口の中には前歯がありません。長髪は額の中ほどから適当に左右に分かれ、アズキ色のバンダナで纏めていました。歯がない為か会話に歯切れがなく、口の中に唾液がいっぱい溜まっているらしくともすると途中よだれが垂れるのです。それを右手の甲でぬぐいながらしゃべり続けるものだから、周囲の者はいっそうその会話の内容を把握するのが困難となっていました。身長は170センチ弱で痩せていました。服装は他の学生とさほど異なるものはないのですが、その風貌から駅や公園のベンチで夜を明かす人達とよく間違えられている様でしたが、実際何処へでも潜り込むその通りの人なのです。
学生時代のタツロウがどの様な生活を送っていたのか正直なところよく知りません。卒業してしばらくは国内にいたようですが数年後に、ブラジルでスッポンの養殖をしているとの情報を得ました。もちろん、在学時代にあの程度の付き合いだったので手紙のやり取りなどはなく、人伝えで耳にしたものです。
そのタツロウが私の身近に現れたのは私が35歳の時、久米島でした。スッポンをあきらめ海老に転じる為の研修というのが、彼の来島の目的です。久米島には現在でも4軒(久米島漁協・南西興産梶E久米養殖梶E潟Gポック)の車えび養殖場が操業を続けていますが、その当時養殖場場長として久米養殖に私が、久米島漁協に渡辺勉さんがそれぞれ勤めていました。渡辺さんもタツロウや私と同じサークルの大先輩で、私が大三島や久米島で生活することになったのも、そもそもこの人のお陰です。今回タツロウは私たちのサークルの同一恩師のご紹介で、大先輩のもとへ研修に来たのが経緯です。
大学時代のタツロウから得た記憶とはまるで別人のように彼は真剣でした。10日間ほど漁協の事務所の空き部屋に寝泊りしながら仕事を手伝い、暇を見つけては私のところへも日参してきては海老づくしの話を聞いていました。タツロウが島を離れる前の夜、渡辺さんと一緒にヒージャーと久米仙でへべれけになるまで飲み、彼の新しい門出を祝った思い出があります。
タツロウが久米島を出発してから半年ほどして、「お陰さまで、ブラジルの倅がようやく海老の養殖で成功しているようです・・・。」なる手紙が舞い込みました。手紙には現地の新聞記事のコピー(写真入り)が同封されていて、恐らくブラジルからタツロウが彼のお父さん宛に送ったものを、東京に住むお父さんが私に転送してくれたものだと思います。写真は非常に不鮮明なものでしたが、巨大なポンプで水を揚げている絵のようだったと思います。記事はポルトガル語なので当然読めませんでした。
それからしばらくして私は諸般の理由で天草に移動することになります。ブラジルと日本がどれほどの時差があるのかよく解りませんが、突然タツロウから国際電話がありました。ノイズが酷く、また会話と会話の間が“イッコク 堂”の芸の様に間延びする為、聞き取るのに苦労しました。内容を要約すると「収穫した海老を現状では冷凍処理している。今後活き海老としての販売を展開していきたい。いろいろ試行錯誤したが日本の車えびの様にオガクズの中で長時間維持できない。何かアイディアないか?」でした。タツロウが対象としている海老は車えびではないので、車えびしか経験のない私には回答のしようがありません。タツロウが久米島に来た時期は出荷シーズンではなかった事から、とりあえず車えびの場合の採集から出荷梱包までの技術的留意点をレクチャーし、電話を切りました。
以来沙汰がないまま、2年後に私は天草を引き上げ、海老からも足を洗い、まっとうな人生を歩む為、故郷横浜へ戻りました。引き止める人もいましたが、老いた親父の面倒を見る、という言葉を言い訳に使いました。
8畳間の座卓を挟み、タツロウと私・中川とタツロウの奥様がそれぞれ向き合って座り、酒が始まりました。中川はスキューバのボンベや撮影機材のいっさいがっさいが積み込める程の大きなバンで来ていた為、お茶です。奥様も下戸との事でお茶。結局私とタツロウだけが盛り上がってしまいました。会話の内容はまさに実際に海老のハンドリングに携わらないと理解不能な繊細な部分に終始した為、日本語がわからない奥様はもとより、中川さえも付いて来られないものでした。
相変わらず顔は笑っていましたが、話を聞けば聞くほどに、タツロウ自身が置かれている現実は予想以上に厳しいものでした。
ブラジルの国策の一つとして広大な海老養殖用の用地と設備が開拓され、それを多数の企業が買い取り操業しているらしく、タツロウの立場はそれらの企業の一契約技術屋でした。成功報酬が収入のほとんどで何の生活保障もないそうです。海老の種苗は天然採捕に依存し、広すぎる養殖池を満たすのには短期間では全く不十分で、いつも中途半端な密度のまま養成が始まるとの事です。餌も安価な魚介類が手に入った時にしか与えられず、換水は注排水併用の共用水路を利用するしか無いようです。このような環境の下、数ヶ月後に取り上げて見ると、投入した種苗とは別の種類の海老しか採捕されない事は当たり前で、魚一匹いない場合も多々あるらしい。これ即ち、技術といえるものからは相当な隔たりがある、博打の世界だと私は思ってしまいました。
「親父さんのお手紙を読んだ限り、あなたの事を自慢げに書いていたようだが?」
「あー、心配かけてもいけないので、な。嘘をついている。」
見物がてらベイブリッジを渡って東京まで送って行くと云い置き、中川が運転席の煤けたドアを閉めたのは22時を回っていました。6月の中ごろのことでした。
7月の半ばから私の家は改築工事の予定で、竣工までの間、家族は近くの借家に仮住まいを余儀なくされました。荷物もほとんど運び終え、そろそろ生活の場をも移動しようかという頃、タツロウから連絡が入りました。「数日うちにブラジルに発つ。先日聞き忘れたことがある。今からでもそちらに伺いたいが宜しいか?」
今回はタツロウただ一人で杉田駅の階段を下りて来ました。例の8畳間は既に座卓もないため、私は酒とつまみを持ち出し、まだ誰もいない仮住まいの方に彼を誘いました。
「親父が入院した。先は長くないとの見立てだ。俺はあさってブラジルに戻るつもりだ。だが、親戚一同から親を見捨てて行くのかと非難されている。お袋はとうに亡くなっているし、一人っ子の俺はいったいどうしたらいいのか?」
歯切れの悪さはいつもの様でしたが、あいた唇から流れ落ちる液体はこの時ばかりは唾液ではなく、両の眼から長い頬をつたった涙の塊でした。
「ご親戚が狼狽するのは当たり前です。親の最後を見届けるのも子の責務だと思っています。親は安心してそして甘えながら旅たっていけるでしょう。でも、そんな幸せな孝行が出来得る男が果たしてどれほどの割合でいるのでしょうか? タツロウさん、お父さんのお手紙を拝読させて頂いた限り、お父さんはあなたを誇りに思っています。そして、あなたの成功を恐らくご自分の命よりも大事に念じていらっしゃる筈です。いまお父さんのもとを離れなければいけないことが、お父さんの想いに少しでも近づけるのであれば、、、」
タツロウの“聞き忘れたこと”などではない相談話に生意気にも私は結論を述べてしまいました。すでに上りの終電が走り去った時間です。「泊まっていくだろ?」「いや、帰りたい。親父が待ってる。」 池袋でタツロウを降ろし、Uターンして戻ってきた頃には東の空が輝き始めていました。
以来、タツロウからの連絡はありません。
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