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決意宣言、そして早々と敗北宣言(?) |
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アナリーゼって一体何ぞや? |
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ついに大作曲家を斬る |
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シューベルトはフーガが書けなかった? |
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シューベルトの無謀な試み(2000年2月6日)
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バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラー、ドヴォルザーク、ムソルグスキー、チャイコフスキー、スクリャビン、ラフマニノフ、ストラヴィンスキー、ショスタコヴィチ、ベルリオーズ、ドビュッシー、ラヴェル・・・ 「敵を知り、己を知らば、、、、」ということわざの如く、我々には「アナリーゼ(楽曲分析)」という方法があります。アナリーゼとは、作曲家が作曲していく過程を楽譜からさかのぼっていくこと、言いかえれば作曲家がどのような方法で曲を書いたかということを楽譜をたよりに解き明かしていくことです。我々はこのアナリーゼという方法によって、大作曲家の企業秘密をある程度知る事ができます。またアナリーゼで扱われる音楽要素は、言葉でほぼ正確に説明できるものに限られています。そこでは「感動」とか「美」とか「好き嫌い」とかいう言葉を間違っても使いません。そのような曖昧な言葉を使うことは負けを意味します。ただでさえ旗色の悪い我々「クラシック系現代音楽作曲家」が、戦わずして負けるわけにはいかないのです。
アナリーゼしやすい作曲家の代表格はやはりベートーヴェンでしょう。ベートーヴェンの中期までの作品は、徹底的に可分析的にこしらえてありますから、それらに対してアナリーゼという武器はかなり有効です(しかし後期はそううまくいかないのですが、この事に関してはいずれまた)。逆にアナリーゼが難しい作曲家としてはモーツァルトがいます。ただしここで言う難しさとは、曲が複雑で高度な知識を要するという意味ではなく、アナリーゼの効果が薄いということを指します。例えばピアノソナタK.332の第一楽章など、ソナタ形式といいながら、主題らしきものが5つも6つも出てきます。通常のソナタ形式は、2つの性格の異なる主題を呈示し(呈示部)、それらを発展させた後(展開部)、もう一度主題が帰ってくる(再現部)、という過程をたどります。主題らしきものが次々と現れ、たいした展開もせず再現されるというのは、一般的には拙い作曲と言われています。少なくとも音楽大学の試験では良い点は望めません。
さて僕は高校時代(作曲家を志す前)、はじめてモーツァルトのピアノ協奏曲第27番を聴いた時に言いようのない大きな衝撃を受けました。そしてこの曲の魅力をアナリーゼで何とか解明しようと無駄な努力をした時期もありました。しかし、もっともらしいこじつけも見当たらず、矢尽き刀折れて最後にはこう言ってしまいます。 アナリーゼについて、もう少し詳しく説明します。
次にもう少し細かく分けていきます。
さらに細かく分けます。 ここまでの説明を読んで、素直に「凄い」と思ってくださる方もおられるでしょう。 でも、「ちょっと待てよ」と考える人も多いと思います。 「音楽を学問にしてどないするねん、聴いて良かったと思えればそれでええんや。おまえらのやってるのは音楽じゃなくて音が苦や!」と、20世紀の間、絶え間なく現代音楽作曲家に浴びせられ続けた非難の声が聞こえてくるようです。 念のために申します。あくまでもアナリーゼは、我々職業的音楽家の手段の一つに過ぎず、聞き手にとって大切なのは磨きぬかれた「こころ」で音楽をとらえることであり、それさえあればアナリーゼなどまるで必要ないでしょう。 え? 「音楽なんて楽しければいいんです。昼間くたくたになって働いたサラリーマンがこころを磨くなんて修行僧のような事できまへん」 ですって? う〜〜〜〜ん、一理あるが…。 (2000年1月5日) さて、そろそろ大作曲家を個別に斬る事といたしましょう。
モーツァルト?
ベートーヴェン? シューマン? これはかなりいけそう。しかしネット上にはシューマン研究のツワモノが多いので止めておきましょう。 メンデルスゾーン、ラヴェル、、、、 こういう腕っこきのテクニシャン達を敵に回すのは、当分遠慮しておきます。 ということで今回私が選んだのはシューベルトです。 この人には、抜きんでた部分と欠落した部分が同居しています。その欠落した部分を集中的に攻めればあるいは……(2000年1月30日)
シューベルトはフーガを書かなかったわけではありません。書くには書いたものの、相当ヘタクソだったということです。尊敬するベート−ヴェンが、フーガによって未踏の表現を獲得したのを見ていたシューベルトは、よせばいいのにフーガを書こうとしたようです。
シューベルト最後の交響曲ハ長調(通称ザ・グレイト)は、ベートーヴェンの影響が最も顕著にあらわれた曲と言われています。確かにリズム形あるいは音形の執拗な繰り返しや規模の大きさからは、ベート−ヴェン的な交響曲を目指したシューベルトの心意気が感じられます。しかも、どさくさにまぎれて何度か「フーガもどき」までやろうとしているフシさえありますが、遠慮がちであるため大勢には影響しませんでした。実は結果的にこれがよかった。そもそも自分と全く資質の違うベートーヴェンを目指したところでシューベルトはシューベルト、うまくいく筈ないのです。リズム形あるいは音形の執拗な繰り返しは、ベートーヴェン的な意思と力の表現ではなく、素朴な田園風景を思い起こさせます。それがこの交響曲の(特に第三、四楽章)大きな魅力となっています。もちろん溢れ出る美しい旋律と転調の妙は全曲を潤し、冗長とも思える長さ(50分強)も、フルトヴェングラーやチェリビダッケ等の名演を得た時、シューマンが評した「天国的な長さ」となるのです。シューベルト、やはり侮り難し!
次回はフーガを心置きなく書いてしまったがために失敗した(少なくとも私はそう思っている)「幻想曲へ短調D.940」、そしてベートーヴェンへの憧れを絶ち切ったところから生れた奇跡の傑作「ピアノソナタ変ロ長調D.960」を斬ります。(2000年1月30日)
私はシューベルトのピアノソナタ変ロ長調D.960を「奇跡の傑作」と書きました。なぜ奇跡なのかを説明する前に、「ソナタ」について簡単にふれておきます。 ソナタや交響曲の全体像を、私たちの生活になぞらえて簡単に説明してみましょう。もちろんこれは、ほんの一例ですが。 公式発言としてガッチリとバランス良く作り上げる第一楽章は、我々の社会生活に似ています。第二楽章のゆったりとした内面の表現は、自室でのひとりの落ち着いた時間。第三楽章が親しい友人との機智に富んだ楽しいおしゃべりで、最後の第四楽章はハレの日の昂揚感、いわばお祭です。 作曲家は、自分の中の様々な要素を総動員して、全人格的な表現をめざします。 全曲聴き終えたあとの印象が支離滅裂では話になりませんが、ここでは何よりも楽章間のコントラストを明確にすることが求められます。同じようなテンポや楽想で書かれた楽章が並んでいてはマズいのです。気まぐれで飽きっぽい聴衆にソッポをむかれたら今までの苦労が水の泡となります。そういう悲惨な状況だけは断固阻止せねばなりません。作曲家の腕のみせどころです。 D.960の話に戻ります。 この曲の演奏時間は30分を超え、ピアノソナタとしてはかなりの大曲となっています。しかも前半二つの楽章だけで20分以上かかります。全体の約3分の2の長さです。ということは、シューベルトは前半型の作曲を目指したことになります。この曲の成功のカギは前半をどう乗り切るかにかかってくるのです。 さあここからが問題です。
シューベルトは第一楽章をかなりゆっくりしたテンポで書いています。どちらかというと第二楽章的な世界です。もっともゆっくりした第一楽章をもつ曲は、ベートーヴェンの有名な月光ソナタやフランクのヴァイオリンソナタなど他にも沢山ありますから、これだけではさして珍しいことでもないし、驚きもしません。問題はそれに続く第二楽章です。「月光」では一、ニ、三と楽章を追うごとに次第に速さを増し、白熱のコーダで鮮やかに全曲を閉じます。フランクも第二楽章に激しく動く楽想を用いて効果をあげています。楽章間のコントラストをつけるというセオリーを守って成功しているのです。
血迷ったか、シューベルト!!いかにあなたが歌曲の王と謳われる稀代のメロディストとて、このやり方で成功を収める確率は1パーセントもありませんぞ。聴衆は寝てしまいますぞ。今年の阪神が日本一になるよりも、はるかに難しいことですぞ。 シューベルト、今度こそ危うし!!! 次回はいよいよ奇跡の秘密に迫ります。(2000年2月6日) 〜 つづく 〜 |
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