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クララ・ハスキル(ピアニスト)その一 〜僕がハスキルにはまった理由〜(1999年12月) |
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クララ・ハスキル(ピアニスト)そのニ 〜この一枚を選ぶとすれば〜(2000年1月13日) |
★モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 ニ短調
現在僕が所有するハスキルによるこの曲の演奏は5種類、
唯一のステレオ録音で最も有名なのがマルケビッチとの最晩年の録音ですが、僕は1954年の二つの録音を愛聴しています。どちらの演奏も自然で伸びやかな自発性に溢れたハスキルの魅力を伝えてくれます。違いといえば共演者と録音の質でしょう。端正で洗練されたフリッチャイ盤、肉太の温かさを持つパウムガルトナー盤、その時の気分や体調によって聴き分けています。スウォボダ盤もなつかしくて時々は聴きます。 ★ベートーヴェン ピアノソナタ第17番「テンペスト」 僕とハスキルとの再会は今から十年くらい前、当時親しくしていた(もちろん今も親しいですが)ツカおじさんに勧められて、ハスキルの弾くベートーヴェンの「テンペスト」を聴いた時のことです。この時のショックは相当なものでした。長らく聴いていなかったとはいえ、当代随一のモーツァルト弾きとうたわれ、あたかもモーツァルトが弾いているかのように、生き生きとしかも均整のとれた音楽を奏でるハスキルの姿はそこにはありません。何と表現すればよいのでしょうか、彼女は「テンペスト」を通してベートーヴェンの魂を激しく求めるのです。ハスキルの演奏に実際に接した人の話では、彼女の音は非常に小さかったということです。女性であることに加え、ハスキルには背中に持病があったと伝えられています。限られた肉体的条件のなかで理想の音色や和音バランスを求めつづけた結果、おそらく彼女は音量という要素を切り捨てたのでしょう。しかも最晩年の演奏です。肉体的、技術的な衰えもありましょう。しかしここでのハスキルは明らかに自分の限界を超える音量で弾きます。時としてバランスを失って割れる音、前のめりのテンポ、それらを聴いたこの国の評論家某氏は鬼の首でも取ったかのごとくこう書きます。「技術的に不安定」と。しかし超一流の感性と技術を持っていた彼女にとってそんな事は百も承知。それでもなお彼女は遠くに見えるベートーヴェンの姿をなりふり構わず求めたのです。そのひたむきな魂の輝きは僕を圧倒し、打ちのめしました。そして次の日から僕の「ハスキルおたく」が始まります。ハスキルのCDを買いあさる日々は、それから数年間続きました。 最近になって、もう少し彼女が若い頃の「テンペスト」の演奏も出まわっていると聞きます。ぜひ聴いてみたいものです。
京都の西山大原野に、西行桜の「花の寺(勝持寺)」があります。 音楽に限らず、文学でも絵画でも映画でも名作と呼ばれるものは「懐の深さ」を持っています。我々「受け手」は、作者の懐の中で、作品に内在するなにものかに導かれて感性の翼をひととき広げることが出来るのです。しかし受け手の精神状態によっては、作品はその世界を閉じてしまうこともあります。受け手が作品を選ぶように、いや、もしかしたらそれ以上に、作品が受け手を選び、そして受け手を試しているのかもしれない。ふとそう思うことがあります。芸術もまた、仏像と同じくある意味でこころを映す鏡なのです。 同じCDを同じオーディオ装置で聴いて、まるで違った印象を受けることがあります。物理的には同一であるはずの演奏が、不思議なことにまるで違ったものとして響くのです。 今から紹介する一枚のCD、クララ・ハスキルの弾くモーツァルトのピアノ協奏曲第27番がそれです。1957年録音、フリッチャイ指揮のバイエルン国立管との共演によるこの演奏が、わたしにとってのかけがえのない「この一枚」なのです。 こちらがどのような精神状態、体調であっても、常に微笑みかけてくれる愛すべきハスキルの演奏は沢山あります。例えばモーツァルトの多くのピアノ曲、特に最晩年録音のピアノ協奏曲第13番(バウムガウトナー指揮ルツェルン祝祭)や、ショパンのピアノ協奏曲第2番などは、気楽な気持ちで聴き始めても、まず裏切られることのない演奏です。
ただし27番だけはそうはいきません。この録音は聴き手を選ぶのです。こちらが無意識にでもこころを閉ざしている時などは、音が体を素通りするだけです。 〜 つづく 〜 |
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