インドのロレンス
まずはこちら、Wikimedia Commons の写真をご覧ください。キャプションにご注目。初期のスクーターに乗るヘルメット姿の白人紳士、英領インド駐在時のロレンスの写真ということになってます。はっきり申し上げて事実ではありません(そもそもロレンスには見えません)。2008年4月にネット掲載。写真そのものは貴重だと思いますので、早々にキャプションを訂正してほしいものです。
こういうことがあるので、わたしは Wiki系の記述を全面的に信用することは控えています。
ヒジャーズ鉄道を英国軍から守ろうとした!ロレンス
郡司みさお『恋するサウジ――アラビア最近生活事情』(角川書店・2006)を読んだ。第一作の『ハルム――アラビアの夢』(大和出版・1991)から実に15年ぶりのサウジアラビア紹介本である。駐在員としてサウジに赴任する人、その家族、そして観光目的の訪問(2006年、観光ビザの発行条件が大幅に緩和された)に関心のある人には必読、そしてお役立ち間違いなしの楽しい本。ロレンスへの言及は「ジェッダ(市営博物館)」と「マダインサレ」の項目にある。
しかし、それが本ページ「ロレンス“とんでも話”」にふさわしい言及なのであった。
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★★★★マダインサレ駅
時はさかのぼり、映画「アラビアのロレンス」の時代になるが、ヘジャズ鉄道のこの駅跡は、子供たちにも人気の観光スポットだ。かつて、イスタンブールからシリア、ヨルダン、メッカへと続いていたヘジャズ鉄道を英国軍の壊滅作戦から守ろうとした英雄「アラビアのロレンス」の舞台である。今も残る駅舎と機関車が、郷愁をそそる。(p.77 アンダーラインは引用者)
この駅の写真は当サイト内のこちらにあるが、第一に、ヒジャーズ鉄道は「イスタンブールから」始まっているのではない。起点はダマスカス(シリア)である。第二に、ロレンスは鉄道を「英国軍の壊滅作戦から守ろうとした」人ではない。その壊滅作戦を折に触れ実行していた犯人その人なのである。泥棒を警官と紹介するに等しい180度の事実誤認だ。
事態が深刻なのは、この本が決して自費出版本などではないこと。編集者はむろんのこと、(おそらくは)複数の人間が原稿を読んだと思われるのに、印刷に廻る前にこの間違いを指摘する人が誰もいなかったとは…… 別にロレンスについての本など読んでいなくても、映画の記憶が残っていれば避けられたはずのこの間違い。つまるところ、ロレンスを知る日本人が少なくなったという事実を示しているのだろう。ロレンス研究者にとっては笑えないミスだし、また、著者にとっても、この本の他の部分の信頼性が薄れるという意味で気の毒なミスである。(それでも、『恋するサウジ』は今のサウジアラビアを知る上での好著であることに間違いはない、その点は強調しておきます)
[ 駐日サウジアラビア大使館 公式サイト ]
政治家・中野正剛の講演におけるロレンス
アジア歴史資料センターの主任研究員・牟田昌平さんからのご連絡で、外務省外交史料館所蔵資料から、興味深いものを発見できた。1937〜38年にかけて欧米を歴訪した衆議院議員・中野正剛(なかの・せいごう/1886-1943)の語った『伊・独両元首等との時局論争』である。日本外交協会というところが、同協会第242例会に出席した同氏の講演要旨をまとめたもので(文責は中野氏ではなく、同協会)、ロレンスの死後およそ3年経った1938年3月公刊、「極秘」のスタンプが押してある。「ムッソリニ氏治下の印象」の章第4項「ローレンス大佐とアラビア」から、さっそく引用してみよう。(出典: 国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコード B02030919500)
- ローレンスはオックスフォード大学でアラビア語を研究した。その大学の教授の話を聞いたが、ある日十八歳くらいの青年がやって来て、オックスフォードのアラビア語科に入りたいと言う。極めて恥ずかしがり屋の、極めてシンシアな青年である。『アラビア語科に入りたいと言ってもお前一人だ。準備がなければ速成は出来ないが、言葉は出来るか。』と問えば『少しは出来ます』と答える。新聞や雑誌を読ませてみるとズンズン読む。どうして之に興味を持って研究したかと云うと、七八歳の頃からナースがアラビアンナイトを話しながら自分を寝かせてくれた。それ以来興味を以て勉強して来た。
というわけだが、当時のオックスフォド大学にアラビア語科はないし、ロレンスの専攻した科目は近代史。正剛代議士にこの話をした教授とは一体どなただったのであろうか? ロレンスはもちろん『アラビアン・ナイト』は読んでいたが、幼い頃にナースが話してくれた、というのは初耳である。なお、蛇足ながら「七八歳」というのは満78歳のことではなく(その場合は「七十八歳」と書く)、7歳か8歳のころから、という意味。
話はまだまだ続く。「アラビア軍隊の編成」をして「駱駝隊に依って偉勲を輝かした」ロレンスは、戦後皇帝から勲章を授与されることになったが、祖国の対アラビア政策に反抗してこれを拒絶。彼の志が行われず妙な結果になったのは、(正剛氏いわく、ドイツ人の観測によれば)イギリス外務省ではジュー(ユダヤ人)の勢力が強いのがその理由。ロレンスはそれに真正面から突っ掛かったので、戦時中の偉勲は実を結ばす、
- しかも皇帝に対する無礼者という悲惨な最後を遂げた。之は一篇の哀史である。私はイギリスは嫌いであるが、ローレンスの如き人傑が書いたものを読むと吸着けられるような気がする。彼は陸軍からは圧迫され、機密費は貰えず、従って極めて貧乏ではあるが、アラビア青年と共に寝起きし、昼は熱風に吹き捲られ、夜は屋上に臥して僅に星の瞬きを眺めながら、感慨無量の間に志を行ったと〔『セヴン・ピラース・ウイズドム』に〕書いて居る。
ビンボーで、イジメに遭っている不遇なロレンス。遠い日本の代議士に、「悲惨な最後」、さらには「憤死」とまでいわれてしまったロレンス。一体どんな最期を遂げたと正剛代議士は考えていたのか…… それはともかく、英国嫌いの人さえ吸い着けてしまうロレンスの魅力。たいしたものである。
講演の流れとしては、ムッソリーニの中東政策について語ったついでに、英国の政策とロレンスについて言及したかたちだ。中野正剛は『七柱』のことは知っていたらしく、「ちょっと見ても名著のようである」と語っている。だが、叙勲拒否のエピソードに触れていることからすると(この話は『七柱』には出てこない)、すべてのソースは Robert Graves の LAWRENCE AND THE ARABS (Jonathan Cape, London 1927) にあるのかもしれない。
注目したいのは、「極秘」扱いではあったにせよ、日本人がロレンスをここまで語った記録としては、おそらくこれが最も初期のものである点だ。中野好夫の本が出るのはまだ2年後だし、『セルパン』他の雑誌に取りあげられるのも1938年の半ばを過ぎてからである。また、「イギリスやアメリカの新聞には我が土肥原さんのことを日本のローレンスなどと書いてあるが」とあり、すでに関東軍の土肥原賢二の名がロレンスに関連づけて語られていたことがわかる。
それにしても、この中野正剛という方、わたしはまったく知らなかったのだが、調べてみると早稲田の政経出身、東京朝日新聞記者の経歴あり。なるほど、上で挙げたような話のふくらませ方には新聞記者特有の臭気が感じられる。国会では指折りの雄弁家として知られるとっても“熱い”人だったようで、最後には時の首相東条英機に楯突いて割腹自殺を遂げている。ロレンスも出席したパリ講和会議を取材して書いた『講和会議を目撃して』はベストセラーになったそうだ。上記の講話の元となった独伊訪問以降は、両国のファシズムの影響を受け、三国同盟を推進して米英決戦を唱導したという(開戦後に撤回)。
ついでながら、日本外交協会とは、北朝鮮に食糧援助をしていたことで一時話題になった外務省の外郭団体「社団法人 日本外交協会」(1947年発足、旧称・民主外交協会)とは違う。詳細は不明だが、戦前、さまざまな官庁を実質的に動かしていた中堅官僚などが語った話をパンフレットにして、政界上層に配布していたところらしい。
ロレンス、満州に潜入!?
晩年のロレンスは、日本海軍情報部と外務省にもマークされていた!
上記の中野正剛の講演録と同じく、外務省外交史料館所蔵の記録によると、1934年7月に、ベルリンの在独大使館附海軍武官から、次のような極秘電報が外務省宛に打たれた。カタカナは平仮名に、数字は全部アラビア数字に直して表記してみよう。(出典: 国立公文書館 アジア歴史資料センター/レファレンスコード B02031009800)
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【外務省】 〔昭和〕9〔年〕7〔月〕28〔日〕1420 伯林〔ベルリン〕発
29〔日〕0025 着 (2360)
在独館附武官
【極秘】 軍令部三部長
機密第10番電
確実なる情報に依れば
有名なる政治策動家英陸軍大佐 LOWRENCE は JOHNCOLANE なる偽名にてモーニングポスト記者として満洲国に滞在の爲最近出発せる由同氏従来の経歴に鑑みその言動には甚深なる注意を要するものと認む。
「軍令部三部」とは海軍の軍令部第三部、敵国の情報を扱う「情報部」である。LOWRENCE という中学生みたいな綴りの間違いが気になるところだが、もうひとつの JOHNCOLANE というのは、もともと John Lane という名前だった(後述)。これは初めて見るロレンスの別名である(といっても誤報なのだが)。なお、この時期、ロレンスは英国で空軍に勤務していた。
このドイツからの情報を受けて、3日後の7月31日、時の外務大臣・広田弘毅は、駐英大使・松平恒雄と、関東軍司令官にして満州国特命全権大使・菱刈隆に「右は事実なりや可然御取調の上電報あり度〔事実かどうか、しかるべく調べて電報せよ〕」と命ずる極秘電報を打っている。だが、その返信があったのかどうか、記録には残っていない。
残っているのは、この電報がそもそも打たれるきっかけとなった、在独大使館附海軍武官(名前は不詳)による報告である。海軍軍令部第三部長が、参謀本部第二部長と外務省東亜局長に宛てたものだ。
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独海秘第31号 昭和9年7月24日
独国在勤帝国大使館附武官
海軍次官殿
軍令部次長殿
英人記者に関する件報告
当地政治大学教授ドクトル・フォン・レアス(ナチス党機関紙フォルキッシュベオバッター〔Volkischer Beobachter〕記者を兼ね党首脳部と親交あり 又遠藤前武官以来親交ある士なり)より左記の如き通報を得たり
『ただ今貴下がおそらく興味を有せらるべき方法を信頼すべき筋より得たり、永年の間英国政府の命に依り「アラビア」「アフガニスタン」方面に於いて重要なる政策を実行せる有名なる「ローレンス」陸軍大佐(Colonel Lawrence) は今般モーニングポスト派遣記者として (John Lane) なる偽名にて満洲国に滞在せんとするものの如し
英仏露三国が密接なる提携をなし自国新聞の大部分に反日宣伝をなさしめつつある今日此の情報は決して無意義のものに非るべしと信ず
今日迄ローレンスの出現せる所は必ず怪火ありて燃焼せり、然も其は決して「粗粗火」に非ずして皆「放火」なりき』
第三部意見
「ローレンス」大佐が「アフガニスタン」方面において多年陰険大胆なる政治工作を行えることは事実なり充分警戒の要ありと認む(終)
「ドクトル・フォン・レアス」というのが何者かは不明だが、この「確実なる」というふれこみのロレンス情報、ドイツと日本が戦争に負けたのも無理はない、と思わされてしまういいかげんさである(ついに「放火」犯呼ばわりされたロレンス!)。たしかに、1929年に外務大臣が受け取ったアフガニスタンに関する報告にロレンスの名前が挙がっており、各国の大使館ではそれなりに現地情報を収集していたことがわかるが、ロレンスのアフガニスタン潜入報道は、三文新聞による完全なガセネタ(詳しくは「“とんでも話”アフガン編」)。しかも、今度は満州にまで飛ばされてしまうとは…… しっかりしてください、海軍情報部と日本の外務省! 「ロレンス要注意」電報を受け取った英国と満州の大使館では、さぞかし対応に苦慮したことだろう。
ブラザー・ロレンス?
吹き出してしまうネタにお目にかかった。本来、とても吹き出す隙もないような真面目な媒体にあったチョンボなので、さらにおもむきが深まる。
これが問題の写真です。1918年10月撮影 |
実は、この「ブラザー・ローレンス」とは、17世紀のカルメル会助修士 Brother Lawrence of the Resurrection (Nicolas Herman) のこと。当然、ロレンスとは無関係だ。空軍時代のロレンスを、修道士(ブラザー)になぞらえる人はいるが、まさか本当にブラザー扱いにされるとは…… しかも、あの超真面目な救世軍の機関誌で…… ちなみに、当方のつかんでいる限りでは、ロレンスと救世軍との間に特別な関係もない。
――いや、実はひとつありました。John Mack の本に典拠不確定話として載っていたのだが、Dublin 時代のロレンスの父が、救世軍に参加していたと証言する人がいるのだ。そして、ロレンスの兄 Bob の出生証明書に載っている Dublin の住所は 33 York Street。ここは、ロレンスの父が、母 Sarah を囲っていたと推定される場所だが、現在 31 York Street には、「York House」という救世軍のセンター(独身のホームレス用宿泊施設)が建っているのである。八木谷は1991年にこの場所を訪れたが、33番地は31番地の建物に統合されているように見えた(確証はないが)。やはり、Thomas は救世軍と何らかの関係があったのかもしれない。
なお、「救世軍ってな〜に?」という方は、東京神田の救世軍本営前のPRコーナーとか、年末の社会鍋のスタッフからパンフレットをもらうか、救世軍(The Salvation Army) の公式サイトを Google で探してお勉強いただきたい。
『週刊女性自身』の描くトンデモ・ロレンス
トンデモ記事の最高傑作は、なんといっても『週刊女性自身』1961年10月23日号に載った『葬られた歴史――砂漠の民に命を捧げた“アラビアのローレンス”』であろう。トルコ軍に破れたアラブ軍の前に、アラブ服姿で垢まみれのロレンス(「まずしい職人の子」!)がひょう然ぜんと現れ、ファイサルにこんな台詞を吐くのである。
- 「フェイザル、ぼくはアラビアの砂漠に、愛と正義の虹をかけるためにやってきたのだ……」
「フェイザル、ぼくは、君と同じ理想のために、アラビアの未来のために死ぬことができる。きょうだいと呼んでくれたまえ」(p.125)
――あまりに美しい。美しすぎる。ためしに、ファイサルの姿を想像しながら声に出していってみよう。……「きょうだいと呼んでくれたまえ」。ロレンスの心がわかるような気がする(本当かい)。
そして、壮絶なラスト。
- あまりの憤りに、かれはついに発狂した。女王から贈られた勲章を犬の首につけて歩いた。むちゃくちゃにオートバイをのりまわした。
そして苦悶の後半生を、一九三五年五月二十一日〔八木谷註:実際に死んだのは19日、事故を起こしたのは13日。21日は葬儀の日〕、狂気の果ての交通事故でとじたのだった。(p.126)
――と、物語はドラマチックに終わる。しかも、最初のページには白抜きで「血と炎こそわが命」なんて書いてあるのだ。めまいがしそうである。だいたい「女王」とは、どこの国の女王であろうか? ヴィクトリア女王ならロレンス12歳のときに崩御してるし、エリザベス二世だったら、アラブ叛乱当時はまだ生まれてないんですけど。
1961年といえば、Lean の映画以前の時期である。なぜ当時、女性週刊誌がロレンスを取り上げたのか。著者は誰なのか。謎が多い。
お心当たりの方は、ぜひご一報を。
中野好夫、ロレンスの名を騙る
1966年に講談社から出た児童向きロレンス伝『少年少女世界の名著・11 アラビアのロレンス』。「ロレンス著」となっているが、3人称で書かれ、ロレンスの死ぬシーンまであるのだから、どう考えてもロレンス作のわけがないことは子どもでもわかるだろう。実は作者は中野好夫(公称訳者)。
児童書ということで当然架空の会話なんかも入っているのだが、結構中野好夫の本音(&願望)が隠れていたりするのではなかろうか。Lowell Thomas のロレンス本から転載した写真、いかに善意に解釈してもロレンスとは関係の薄い(でも貴重な)現代アラブの写真、さらに全然似てないイラストがてんこ盛りで、ビジュアル的にも楽しめる。都道府県立図書館ならば書庫に眠っているかもしれないので、ぜひ探してみてほしい(埼玉では、ボロボロに傷んだものが県立浦和図書館に所蔵)。
- 「ねえ、わたし、しんぱいでしかたありませんのよ。」
あみものの手をやすめて、セアラは、さっきからなんかいめかのためいきをもらしました。
「なんのことだね。」
炉のまえにいすを近づけて、夕食後の新聞をたのしんでいたロバート=ロレンスは、きげんのよい顔を、妻にむけました。
「エドワードのことですの。去年、あんな大けがをしたばかりだというのに、もう、こんどの休みにはスコットランドまでいくっていうんですもの。あなたが、あんな自転車なんて、買っておやりになるからですわ。」
「また、城見物かね。よくもまあ、あきないもんだなあ。」(p.17)
父が「ロバート」、ロレンスが「エドワード」となっているのは、本来の「トマス」「ネッド」と書くと読者のよい子が混乱する、という教育的配慮だろうか。机に向かってこの原稿を書いている中野好夫の顔を想像すると、顔がほころんでくる。
「よくもまあ、あきないもんだなあ」といわれたお城巡りは、父トマスの趣味でもあった。ロレンスの教会や城塞建築への関心は、この父に負うところが大きい。
なお、「日本の児童書に見るロレンス」については、こちらのページを参照。
事典における困った記述
『20世紀西洋人名事典・2』(日外アソシエーツ・1995)のロレンスの記述 (p.2149) を見ると、生没年が「1888(1883年説もあり)-1935」となっている。だが、ロレンスの生年は間違いなく1888年。いったいどこから1883年説が沸いてきたのか?
八木谷の調査によると、これは平凡社の1985年版『大百科事典・15』にあった誤植が出典と思われる。この版では、ロレンスの生年が「1883」と記されているのだ。百科事典のミスが将来に禍根を残すというという悲しい例である。
(その後、1883年の誤植が平凡社の『マイペディア』にまで波及しているのを見つけた。しかも、媒体はシャープの電子辞書! 悲しい誤植の連鎖はどこまで続くのか…… ★2009年の追記★「コトバンク 百科事典マイペディア」にも悲しいことに踏襲されてました。とほほ)
誤植というか、誤記としては他に『世界人名辞典 西洋篇』(東京堂・1952)と『岩波西洋人名辞典』(岩波書店・1956 p.1753)で「1888 8/15-1935 5/13」を発見。正確には「1888 8/16-1935 5/19」なのだが、岩波の方は、1981年の増補版でも訂正されていない。「<ショー Shaw>と改名、更に偽名を使って兵籍を転々としたが……」という記述にもがっかり(改姓したあとに偽名は使ってない)。
1997年に出た『岩波=ケンブリッジ 世界人名辞典』でも、ロレンスの項 (p.1273) で ORIENTAL ASSEMBLY (1939) を『東洋の集まり』(1929) と年代まで間違って書いてあるではないか! おまけに、「1918年10月にダマスカスに侵入」とか、空軍を円満に除隊しているのに「1935年に解任され」などという、妥当性を欠いた表現がある。岩波は何かロレンスに特別な感情を抱いているのだろうか? それとも、すべては(能力が高いとはいえない)翻訳者の責任か?
ともあれ、一流出版社の辞典といえど、100%の信頼はできないといういい見本である。 当然ながら、わたしは以後岩波の辞典は信頼しておりません。
なお、1995年評論社の『新版 世界史事典』 p.600 では、ロレンスは回想録「砂漠の花」を書いたことになっている。(う〜ん、ロマンチック……)
ロレンスは養子になっていた?
山口淑子(やまぐち・よしこ/b.1920)の『誰も書かなかったアラブ――“ゲリラの民”の詩と真実』(サンケイ新聞社出版局・1974)には、エジプトのベドウィンの若い酋長〔原文のママ〕の家に案内されたときのエピソードが紹介されている。テントの奥の緞帳に、若い外人と一緒にいるベドウィンたちの肖像写真があった。
- 「ロレンスだよ。ブラザーの叔父は、ロレンスを自分の養子にむかえ、ずっと一緒に暮らしていたらしい。カイロから東、シナイ半島をよぎってヨルダンのネゲブ砂漠まで、彼らは何度も流浪したらしい」
と、ハジが説明してくれた。
写真の中のロレンスは、ベドウィンにかこまれ、まるで家族の一員のような気取りで、みつめる私に笑いかけている。イギリス諜報機関員だったとうわさされるロレンス。同時に、アラブ民族の解放運動に加わって死んだといわれるロレンス。(p.222)
というわけで、ロレンスを養子にしたエジプト人がいるらしい。
「ハジ」とは萩原真郷という日本人のこと。この話から判断できるのは、1970年代のエジプトにおいて、ロレンスは好意的に評価されていたということだ。憎き英国の手先と見られていたなら、ベドウィンのテントに「ロレンスの写真」が飾ってあるはずがない。
山口淑子は、元は女優の李香蘭。彼女とロレンスをつなぐのは、あの大杉栄虐殺事件の主犯として知られる甘粕正彦 (1891-1945) だ。1944年、当時満映理事長だった甘粕の部屋を訪ねた際、その机の上に中野好夫の『アラビアのロレンス』(岩波新書)があったと自伝(『李香蘭 私の半生』新潮社・1987)に書いている。女優引退後は参議院議員・山口淑子となり、自民党政治家として1970年代にパレスチナ問題の専門家をめざしたが、大成功というわけにはいかなかったようだ。国籍のないパレスチナ人を養子にするという話はどうなったんだろうか。でも、リューバちゃんが見つかって再会できたのはよかったです。
お墓はどこに?
『砂漠の豹 イブン・サウド――サウジアラビア建国史』(河野鶴代、牟田口義郎・共訳/筑摩書房・1962)の著者ジャック・ブノアメシャン (Jacques Benoist-Méchin 1901-83)はフランスのドイツ・アラブ問題専門家、歴史家。新聞記者出身で、ヴィシー政権下で閣僚を務め、反逆罪で死刑判決を受けたが、恩赦で1954年に釈放。獄中からアラブ・中東問題の研究に着手したという経歴の持ち主である。
フランス語の伝記はやたら「!」マークと、詩的表現が多いのが特徴。しかし、下記のような、事実と異なる記述はいただけない。
- そこで、当座の手段として、ドーセット州にある小さなボヴィントン陸軍墓地に、部隊の同僚たちに囲まれて葬られることになった。彼の望みに従って、彼の墓は次の言葉だけを碑銘に残した。
T・E・ショー
一八八八−一九三五 (pp.200-201)
ロレンスの墓地の場所すら正確に捉えていないとなると、他の部分への不信感もかきたてられる。墓石の碑文も、全然事実と違う。(実際の碑文はこちらのページ)もっとも、この手の本は伝記風<読み物>として楽しめばいいのであって、いちいち目くじら立てても意味がないのかもしれないが。
それにしても、洋の東西を問わず、ジャーナリスト出身者に「伝記」を書かせると、大抵この手の(資料性よりも物語性を追求した)<読み物>になってしまうのはどうしてだろうか。
Benoist-Méchin は LAWRENCE D'ARABIE OU LE REVE FRACASSÉ というロレンス伝も書いており、フランスで入手可能。
ロレンスのバイクはハーレー?
映画関係を2つ。
文藝春秋・編『洋・邦名画ベスト150/中・上級者編』(文春文庫ビジュアル版・1992)のワースト、ベスト作品を検証する辛口対談において、北川れい子の台詞。
- 「で、オートバイ、ハーレーダビッドソンが倒れているところから始まりますでしょう。“アラビアのロレンス”とハーレーダビッドソンなんて繋がらないというか、いまハーレーダビッドソンというとミッキー・ロークになっちゃうんですけど、そういう飛躍的なイメージも面白かった」 (p.362)
ロレンスとハーレー、そしてミッキー・ロークのイメージは、確かに繋がらない。だって、あれはハーレーじゃないんだもん。
かといって、あのバイクがどこ製か、市中の映画評論家が確認するのは難しいかもしれない、と納得したりする。入手しやすい中野好夫やグレイヴズの伝記には載っていないからだ。でも、新書館の『アラビアのロレンス』を開けばすぐわかるのだが。(念のため、あれは英国製のブラフ・シューペリア。George Brough という職人気質の製造者が、丹誠こめて作ったバイク界のロールズロイスである)
開高健も、ロレンスのバイクのことを「BMW」と書いていた。やはりブラフの知名度は日本では低いらしい。加えて、「大きな外国製のオートバイ」=「ハーレーかBMW」というイメージがあるのだろう。
一方、神坂智子のコミックが紹介されている、美青少年探究倶楽部・編『友愛コミックガイド』(芸文社・1994)。まえふりが、「かつてD・リンチ監督、P・オトゥール主演の映画『アラビアのロレンスで』知られた英国人……」 (p.22)。
「スピルバーグ」と「ルーカス」を混同する人はよくいるが、「リーン」と「リンチ」を間違える人はあまりいないと思う……
しかしリンチ監督の『ロレンス』、見てみたい気がする。
霊界のロレンス
ポール・ベアードという心霊研究家によると、ロレンスと霊媒との間に「霊界通信」が交わされたことがあるとか。
- 「生前は修道士であったが、死んで霊魂となったT・E・ロレンスは、自分が虚栄心が強くて他人を見下していたこと、そのために女性の価値を認めない頑固者であったことを告白している」(山河 宏・監修『ムー特別編集 世界心霊大百科』学習研究社・1989, p.161)
「T・E・ロレンス(アラビアのロレンス)は、ここでの女性関係が現世のそれと同様に誤解に満ちていることを知った(ただし、ここにはセックスも色欲もない。魂/身体の合体があり、肉体を備えていない愛人たちはこれを尊ぶ)」(リン・ピクネット『超常現象の事典』関口 篤・訳/青土社・1994, p.603)
というわけで、なぜか女性についてのロレンスのコメントが引用されているのがおもしろい。「生前は修道士」って、原文は何だったのだろうか?
霊界のロレンスについて詳しい方、ぜひメールでご一報を。(暗がりや夢枕に立ってのコンタクトはご遠慮ください。ただしロレンス本人はのぞく)
地平線にあがる一条の砂柱
外交評論家・加瀬俊一(かせ・としかず/1904-2004)による『現代史の巨人たち』(文藝春秋・1967)には、こんな一節がある。1921年のお話である。
- ここに沙漠の王者、アラビアのローレンスが登場する。彼はシリア独立のために、パリのモンパルナスを根城にして活躍していた。英仏政府は大分彼に手を焼いていたのであるが、チャーチルと会見するに及んで忽ち意気投合し、一見十年の知己をもって許し会う間柄となった。両人の性格を考えれば、格別不思議はない。かくて、さしも困難をきわめた中東問題も一気に解決し、チャーチルの政治的手腕は高く評価された。ローレンスもまた著書『セブン・ピラアズ・オブ・ウイズダム』において、チャーチルに最高級の讃辞を呈している。しかし、チャーチルが総督の地位を提供すると、彼は微笑して『私という人間は地平線にあがる一条の砂柱でよいのですよ』
と答えて、静かに立ち去ったという。いかにもローレンスらしいではないか。(p.61)
うーむ、かっちょいい。
かっちょいいのだが、なんだか怪しい。「チャーチルと会見するに及んで」とはいつの話だろう? 「さしも困難をきわめた中東問題も一気に解決」とは、カイロ会議のことを指しているのか? 「一気に解決」しなかったからこそ、現代の混沌とした中東情勢があることは誰でも周知の事実だが……
一番怪しげな『私という人間は地平線にあがる一条の砂柱でよいのですよ』という台詞は、BY HIS FRIENDS で Winston Churchill が伝えているとおり。ただし、ロレンスが『七柱』で Churchill に讃辞を呈したという事実はない(彼の名前は一行も出てこないのだから)。
「チャーチルが『七柱』へ讃辞を呈した」の間違いではなかろうか?
ツバメが殺したロレンス!
上に「週刊女性自身」の記事を最高傑作だと書いたが、あれに匹敵する傑作がある。
薩摩治郎八(さつま・じろはち 1901-76)による『せ・し・ぼん――わが半生の夢』(山文社・1955)である。
……何もいわない。今すぐ図書館にリクエストして、読んでいただきたい。「ロマンティストの花束」の「砂漠の無冠王」の部分だけでいい。そして、この打ち震える感動を皆で共有しようではありませんか!
(と、書いて終わってもあまりに愛想がないので、ちょっとだけ引用)
- 「一老兵がオートバイを浪漫的な英国の田園を貫通するルート上を快走していた。美しい平和な空から一羽の燕が舞い降りた。そして此の平和の象徴のような小鳥が快走中の老兵卒の前額にぶつかったのである。その瞬間彼はフルスピードのオートバイとともに地上に投げだされていた。小さな小鳥の嘴がこの老兵卒の額に致命的裂傷を与えていた。此の奇蹟的な死を遂げた老兵卒こそは嘗つて全世界の心臓を鼓動させた砂漠の無冠王アラビアのローレンスの地上での最後の姿だった」(pp.218-219)
「ロレンスに会った唯一の日本人」、薩摩治郎八は、かくのごとく証言する。ロレンスの死は、秘密情報部の陰謀などではなかった。
犯人はツバメだったのだ!
(♪だあれが殺したクック・ロビン〜〜霊界のロレンス、何とかいってやってくれ!)
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これが問題の写真です。1918年10月撮影