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I loved you, so I drew these tides of men into my hands and wrote my will across the sky in stars To earn you Freedom, the seven-pillared worthy house, that your eyes might be shining for me When we came.
Death seemed my servant on the road, till we were near おまえを愛していた だからわたしは あの潮なす人びとをわが手にたぐり寄せ 大空の星くずでわが意志をしるした おまえに自由を 七つの柱もつ荘厳の館を与えるために われらが着いたとき おまえの眼がわたしを見て輝くように
死は 旅するわたしに忠実に従うかに思えた われらが近づき |
| ロレンス本人の証言――「ある一人のアラブ人」 |
1919年、The Singing Caravan, A Sufi Tale という詩集(現 Houghton Library 蔵 / HOLLIS Number: 006809629)の見返しに記された鉛筆書きのメモから見てみよう。
これは、最後の行にあるようにパリ〜リヨン間の飛行機の中で書かれたもので、最初の発見者はジャーナリストの Phillip Knightley (b.1929) と Colin Simpson (b.1931) である[*1] 重要。この注は必読。このふたり、そして公認伝記作家の Jeremy Wilson も、これを「To S.A.」の詩の初稿と考えている(Wilson の解釈については後述)。ちなみに、The Singing Caravan を著した Robert Vansittart (1881-1957) は外交官で、ロレンスとは遠縁に当たる(ロレンス家系図参照)。この本は、Vansittart 本人が1919年にパリでロレンスに贈呈したものだ。
さらに、同年11月、アラブ反乱に関わった動機を説明した手紙のなかで、ロレンスはこう書いている。
「その1、個人的なもの。自分はある一人のアラブ人が好きだった。その民族を解放することは、格好の贈り物になると考えた」「1の人物は〔ダマスカス陥落の〕数週間前に亡くなっていたことを知った。だからわたしの贈り物は無駄になり、将来の行動も、この点に関してはまるで無関係になった」 [G. J. Kidston 宛/MB, p.169]この説明は、以下に見る『七柱』のエピローグの既述と完璧に符合する。二つの版で挙げてみよう。
「私にとって終始もっとも強かった動機は、本書では触れなかったが、この長い間、寝ても覚めても私の心を離れたことは一刻もないといっていい個人的なものだった。私の過ごした日々には、激しい苦しみと喜びが塔のようにいくつもそそり立っている。だがこのいつまでも消えない、ひそかな衝動は逆流する空気のように絶えず立ち返ってきて、生の構成要素そのものとなっていたのだ。それも最後近くまでだった。ダマスカスに着く前に、それは消滅していた」 [1922年 Oxford text / 2004 ed., p.812]
「終始一貫して最大の動機は、個人的なものだった。本書では言及しなかったが、思うに、過去二年間いっときも自分から離れたことはなかった。鋭い痛みや喜びは、やぐらのように鮮やかに自分のもとを訪れるように思う。しかし、この隠れた強い衝動は、空気のように漂いながら、一生をかけて持続する要素となるべく、終盤近くまで繰り返し現れた。だがそれも、ダマスカス入城前になくなった」 [1935年普及版 / Penguin ed., p.684]
ロレンスが書簡に書いた「ある一人のアラブ人」とは、ダフーム Dahoum(写真左) と考えられている。彼はロレンス研究者にはもうおなじみの存在だが、カルケミシュ時代ロレンスの下で働いた「ろば引き」あるいは「水くみ」の少年で、1896年の生まれ。Dahoum(黒助)とは、「際立って色白だったため」 [DG, p.103]、あるいは「生まれたときとても色黒だったため」 [Woolley, Dead Towns and Living Men, Humphrey Milford, London 1920, p.142] についた綽名である [*2]。ロレンスは彼にことのほか目をかけ、写真術やアラビア語の読み書きを教えたりした。ロレンスは、Dahoum の裸の像を造り、カルケミシュの人夫たちから不審の目で見られたという[*3]。1913年には、人夫頭の Hamoudi と一緒にオックスフォドの自宅に招待し、そのとき描かれた肖像(Francis Dodd 作。2001年 Christie's, London で売却や、ロレンスが撮影した Dahoum の写真が何枚も残っている。そして、「1の人物は〔ダマスカス陥落の〕数週間前に亡くなっていた」との言葉通り、Dahoum は1918年に亡くなった。[*4] 1938年の書簡集において、編者の David Garnett は彼の名を 'Sheikh Ahmed' と記したが [p.103]、ロレンス自身は何も書き残していない。さらにロレンスは、1923年9月、R. V. Buxton にこう語っている。「S.A. は人物を指すが、今は死んだ。その人物が、アラブの人びとに対するわたしの働きの根底にあったと考えてほしい」 [DG, p.431]。また、同年12月には、空軍の同僚だった R. A. M. Guy(彼とロレンスとの友情は同性愛的なものだったと解釈する人もいる)に向けて、まさに「S.A.」が一個の人間だったかのような文章を書いている。
「人が友人同士になるのは、すべてを打ち明けあい、そして働いているときも休んでいるときも、一緒にいながら何時間でも黙ったままでいられるようになったときだ。ぼくたちはまだそこまでいっていなかったけれど、日毎にそんな関係に近づいていた……S.A. が死んだあと、そんなことが起こるような危険は犯したことがなかったのに」 [MB, p.253]ここで、友人を通してのロレンスの証言を見てみよう。
「ダマスカス陥落前、ある人がチフスで亡くなったとの報が入った。これが、勝利直後にロレンスが舞台から退場したこと、そして以後、彼の身に起こったことの、一つの説明になると信じている」だが、ロレンスはその部分を読んで「あまりに額面通りに受け取りすぎだ。S.A. はまだ存在する、ただし、わたしの手の届かぬところにね。なぜって、わたしの方が変わってしまったから」とコメントしたという。1927年のことである。また、ロレンスは一度「S.A. は一人の人物というより、ある観念を指す」とも説明している。[B:RG, p.55]
一方、1933年5月、Liddell Hart の質問に答えて、ロレンスはこう書いた。「個人的な」理由とは、献辞の「S.A.」を指す。だが1918年に S.A. は死んだ。[B:LH, p.68] また、同年8月には、「S.A.」は誰か具体的人物を指すのか、それとも象徴的なものかとつっこまれ、「片方は場所。S と A は別のものを指す。S はシリアのある村、もしくはシリアの土地、そして A は人物」と答えた。[ibid., p.143]
また、ロレンスの末弟 A. W. (1900-91) の証言もある。彼は1939年に編纂した Oriental Assembly の p.26 に、こんな注釈をつけた。
「『知恵の七柱』の献辞 S.A. 像に最大の影響を与えたのは、彼(Dahum [sic])だとされている。著者本人の覚え書きによると、これは「中性の空想的な人物」だという」この覚え書きは1927年1月1日にロレンスの手で書かれたもので、Knightley & Simpson によっても確認された。現在はテキサス大学のロレンスコレクションにあり、そのコピーは Texas Quarterly, Austin, Vol. V, No. 3, Autumn 1962, pp.47-9 [LIVES, Panther ed., p.186; NPG, p.174] に掲載されたという。その文章が Sara H. T. Johnson による論文 'Discoveries' (Part I: Seven Pillars of Wisdom; TELSJ, Spring 2003, pp.35-6) [*5] に引用されていたので、以下に挙げてみる。(アンダーラインは八木谷による)
| 友人・伝記作家たちの推理――「Son Altesse」? 「S.」は「Salim」? |
まずはロレンスの末弟 A. W. は1937年に編纂した T. E. Lawrence By His Friends のあとがきのなかでこう書いた。
「ここで『七柱』を献げた詩について意見を付け加えておきたい。この詩は文学的な習作とでもいうべきもので、自分の青春時代を記念するとともに、アラブ民族の可能性を理解させるよう彼を喚起した人物へ献げた贈り物だった。詩のスタイルはセム語の形式と、彼がカルケミシュ時代に読んだ1890年代の英詩人の感情表現の折衷のように思える。兄本人の言では、この詩には誰か特定の人物に当てはまる部分はほとんどない。たとえ長らく所在不明だった友人の Sheikh Ahmed、すなわち本書では Dahoum のニックネームで呼ばれている人物が本詩の主題だとしても」[p.592]大学時代の友人 Vyvyan Richards (1886-1968) は、T. E. LAWRENCE(由良君美・注釈/研究社小英文叢書 1965)でこう語っている。
「S.A. を Dahoum だとする者もいる。彼の本名は Sheikh Achmed だからだ。だが、詩全体の響きでは、もっとロレンスの年に近い友人の死を惜しんでいるふうにも思える。のちにロレンスは何度も S.A. のことを話題にしていたが、いつも秘密のヴェールで覆っていた」[p.22; Duckworth ed. 1939, p.32]いっぽう、Robert Graves の考えでは、「S.A.」は一人の女性であり、中世に書かれた騎士の恋愛詩になぞらえたものだという。(ここで彼はそれが具体的に 'Son Altesse' の略称であることを記していないが、後述するように、Graves はそう考えていた)。ダマスカス攻略前に彼女は実際に亡くなったのではなく、彼女の象徴する観念が消えたのだ。また、Graves は Vyvyan Richards の唱えた、「S.A. は文学的に創作された実在しない人間」という説には同意しかねるともいう。(B:RG, pp.16-7)
では、あの Richard Aldington (1892-1962) は何といっているだろうか? 彼は明快に、「S.A.」は Dahoum こと Sheik Ahmed (Sheikh Achmed) だと断定している。「15歳くらいで、そう賢いというわけではないが、際立ってハンサム、完璧に釣り合いのとれた体をしていた」という Woolley の証言 [FRIENDS, p.89] を引用し、Aldington はふたりの関係が単なる友情の域を越えていたことを何度も匂わせている。[ALDINGTON]
『アラブが見たアラビアのロレンス』を書いたアラブ人歴史家 Suleiman Mousa (1920-2008) のコメントはこうだ。「Sheik」という称号はアラブではひとかどの人物に与えられるもので、とても20歳そこそこの Dahoum が「Sheik Achmed」と呼ばれたとは考えにくい [LIVES, Panther ed., p.189]。これはもっともな指摘で、アラブ事情を知るものなら、誰もがうなずくだろう。
この指摘に対して、Knightley & Simpson は別の論拠を用意した。実は、「S.」は「Sheik」ではなく、「Salim」のことだ、と。彼らが拠り所にしたのは、大戦中ロレンスと同じ部隊で戦った Tom Beaumont (1898-1991) の証言である。いわく、Dahoum は「Salim Ahmed」という名前で通っており、大戦中、ロレンスのためにトルコ軍の背後でスパイとして働いていた。そして、Dahoum は1918年、発疹チフスで命を落とす。ロレンスはその死に対して責任を感じ、深く心を乱されたという [ibid., p.190]。この Beaumont の説を受け入れた伝記作家たちには、Stephen E. Tabachnick (Salim Achmed)、Malcolm Brown & Julia Cave (Selim Ahmed)、Lawrence James ('To S[elim]. A[hmed].')、そして Michael Asher (Salim Ahmad) がいる [*6]。
1991年、Beaumont が93歳で亡くなったときは、かの The Times に、「パレスチナ1917-18年の対トルコ戦における、アラビアのロレンス配下のナンバーワン機関銃手」と写真付きで追悼記事が載った [1991年9月9日付] 。彼は戦後もロレンスと連絡を取り合い、ロレンスの葬儀、そして1936年に St. Paul's cathedral で行われた追悼式にも参加。1983年には死亡事故現場に記念植樹をしている。しかし、Beaumont の証言に疑問を投げかける伝記作家もいる。たとえば、John E. Mack (1929-2004) は 'Salim' 説を裏づける傍証はないとし [MACK, p.96]、Jeremy Wilson は、Tom Beaumont は証人としてはなはだ信頼性に欠ける人物であり、金のためならどんなでっちあげでもやりかねない人間とまでほのめかしている [TELstudies, 10 Jul 1998]。
さて、いっぽうで、Harith or Harthi の族長「Sharif Ali シャリーフ・アリー」(1895/98-1955)――すなわち、映画『アラビアのロレンス』で Omar Sharif が演じたアラブの族長こそが「S.A.」だと主張する人もいる。Desmond Stewart がそうだ。彼は、「To S.A.」の誕生に Dahoum が関わっていることを認めながらも、戦争中の Sharif Ali との体験にその萌芽を見いだしている。
「S.A. はふたりの人間に関わっていると考えられる―― Sharif Ali と Dahoum だ。そして、ふたつの箇所、すなわちロレンスが暴力を振るわれ、カメラなどの貴重品をなくしたシリアの村デリュジュ、そしてSharif Ali と十日間を過ごしたアズラクの地もおそらく関係がある」 [STEWART, p.253]Dahoum と Sharif Ali を比べて、Stewart はこう述べる。
「Sharif Ali、すなわち純血のアラブの美丈夫が、新たに現実の存在となって表れ、Dahoum を過去の愛の亡霊の座に追いやってしまった。ロレンスは Sharif Ali の持つ美徳や悪徳を賞賛しており(やや極端な役回りの Ali に何かというと言及している)、それゆえ、ロレンスの心にあったシリアがどこかに行ってしまったことがわかる」 [ibid.] 。Stewart は、ダルアー(デラア)事件も、ロレンスがトルコのベイではなく、 アズラクで Ali から受けた鞭打ちをゆがめて描いたフィクションだと唱えており、冒頭に挙げた The Singing Caravan に残されたメモについても、それが「To S.A.」の原型だとする説を否定する。代わりに、ロレンスがそのために働き、そして目的の達成前に亡くなってしまったのは、彼の父親だというのだ。[*7]
さて、ここで、Graves の 'Son Altesse' 説に戻ろう。Graves はこれが、Jebail でロレンスにアラビア語を教えた Fareedeh / Fareedah or Farida el Akl(e) (1882-1976) (写真左)という女性を指すと考えていた。Graves がいつからそう解釈するようになったのか、残念ながらわたしはまだ(なにかの文献上で)確認できていない。唯一わかったのは、1963年6月15日付 Saturday Review の記事「T. E. Lawrence and the Riddle of S.A.」において 'Son Altesse' 説を唱えていることだけだ [*8]。ただしこの記事に Fareedeh の名前は出てこない。
従ってすべては Knightley & Simpson の孫引き情報ということになるが、この説は、Graves の友人で、当の Fareedeh 本人と文通し、実際に合ったこともある Richard Benson-Gyles(不詳)という人物も支持していたという。
Fareedeh はキリスト教徒で、1926年にはパリの国際会議にシリアのプロテスタント女性の代表として出席したほど進歩的かつ知的な女性だった。ロレンスが1913年、人夫頭の Hamoudi と Dahoum を一緒にオックスフォドの自宅に招待したことは先に触れたが、実は、ロレンスは最初、1912年のクリスマスに Fareedeh を招待したいと考えていたのである(これは実現しなかった)[WILSON, p.104]。FRIENDS [pp.76-80] における彼女のコメントは、それが Dahoum の証言を伝えているという面からも、貴重といえる。1962年制作のBBCドキュメンタリーにも出演して、ロレンスの想い出を語っている。もっとも、当の Fareedeh 本人は自分が「S.A.」であることを否定し、こう述べている。
「T・Eは女性と恋に落ちたことはありません。彼にはそれができなかったのです…… S.A. を解決不可能な謎のままにしておきたいと望んでました。わたしは S.A. を Syria-Arabia ととらえています」 [LIVES, Panther ed., p.187]
| 新証拠:Dahoum の手紙――「Shaikh Ahmad」 |
「七柱における献詩は文学上の統合を顕著なかたちで達成したといえる。1919年に書かれた草稿はこうだ。'A(?) I wrought for him freedom to lighten his sad eyes: but he had died waiting for me. So I threw my gift away and now not anywhere will I find rest and peace.' この詩の最終版は、現存するロレンス唯一の詩作となった。4つの節で構成されるこの詩の第一節はこうだ。なぜか Dahoum を「人夫頭 headman」に出世させてしまったことはさておき、このときから一貫して Wilson の唱える説は変わっていない。ロレンスが Liddell Hart に語った「片方は場所。S と A は別のものを指す。S はシリアのある村、もしくはシリアの土地、そして A は人物」 [既出 B:LH, p.143] という証言を尊重し、A を Dahoum と解釈、そして S は人名ではない(「Sheik Ahmed」や「Salim Ahmed」の S ではない)とする。1988年にナショナル・ポートレイト・ギャラリーのアラビアのロレンス展カタログを編纂したときにも [NPG, p.174] 、公認伝記 [pp.672-73] でも同じだ。その後も、片方は人物で片方は地名、具体的には Ahmed [Dahoum] と Syria を指すと主張し続けている。1998年にも「アメリカの Houghton Library にある『七柱』献詩の草稿には、「A?」という一文字しか入っていない」と繰り返した [TELStudies, 11 July 1998]。彼は、Dahoum が「Sheik/Sheikh」または「Shaikh」と呼ばれていたとはまったく信じていない。
この献詩のなかの“個人的要素”である「A.」が Dahoum ひとりを指す十分な証拠がある。彼は Carchemish の人夫頭で、本名を Ahmed といった」 [Minorities, p.29]
- おまえを愛していた だからわたしは あの潮なす人びとをわが手にたぐり寄せ
大空の星くずでわが意志をしるした
おまえに自由を 七つの柱もつ荘厳の館を与えるために
われらが着いたとき
おまえの眼がわたしを見て輝くように
だが、興味深いことに、Dahoum と Sheik を結びつける証拠の手紙が存在した(!)。
1998年7月、ロンドンの Sotheby's (http://www.sothebys.com/) で売りに出されたロレンス関係の書簡(主として、ロレンスが Fareedeh el Akle に宛てたもの)のなかに、Dahoum が1914年 Fareedeh に宛てアラビア語で書いた手紙が含まれていたのである。Sotheby's はこの手紙(Lot 241)に、4,000〜5,000ポンドという最高の予想落札価格をつけた。ウェブサイトにあった紹介文は、次の通りである。
Dahoum が「Shaikh」(意味は Sheik と同じ)と自称したことについて、Armitage は「自分が書き方を学んだことを Fareedeh に自慢したかったためか、あるいは、無学な友人たちから Dahoum が実際に Shaikh とからかい半分に呼ばれていたことの表れではないか」と推理する。[TELstudies, 10 Jul 1998]
Wilson は「この冗談半分の手紙が Dahoum と Sheikh を結ぶ唯一の証拠文献」としながらも、「S.A.」を単独の人間のイニシャルととらえる説には相変わらず異議を唱えている。
「ロレンスの“ダーク・レディ”現わる」の見出しの下、1998年7月5日付で Sotheby's におけるロレンス書簡競売を報道したサンデー・タイムズによれば、Sotheby's の文芸担当 Dr Peter Beal、及びダマスカス大学歴史学教授 Denis Jerome も、「S.A.」を Fareedeh だとする Graves 説を支持しているという。もっとも、この説が(Fareedeh 本人が自分が「S.A.」であることを否定したことに言及せずに)今蒸し返されたことに不思議はない。なにしろ、彼女が「S.A.」と広く認識されれば、書簡の落札価格が上がるという現実的な問題があるのだから。ただし、やはりこの記事にコメントを寄せた Wilson は、もちろん自分の説を曲げていない。ちなみに、ロレンスが Fareedeh に宛てた11通の手紙は合わせて3万ポンド前後の価格で落札されたが [*10]、残念ながら、この Dahoum の手紙は取引が成立しなかった。
| 最後に |
(八木谷涼子・記 FEB. 2000/加筆 MAY 2008/ver3.0への改訂 DEC 2008)
![[Dahoum]](imagejpg/dahoum02.jpg)
[*4] Dahoum の名前が最後に記録に残っているのは1916年10月、Carchemish の人夫に対する給料支払い名簿である。また、1916年にはシリア北部にチフスが大流行し、この年だけで人口の3分の1が亡くなったという。従って、Jeremy Wilson は Dahoum が実際に亡くなったのは1916年ではないかと示唆している [WILSON, p.544]。
[*7] Desmond Stewart, T. E. Lawrence: A New Biography, Hamish Hamilton, London 1977; Paladin ed. 1979, p.228; 及び TLS の1978年2月17日号に掲載された Stewart の投書を参照。
[*8] この Saturday Review の記事は、T. E. Notes, January 1995, pp.1-3 に再録されている。
[*9] The Sunday Times, 3 December 1989 by M. Schaffer and 16 August 1992 by Herbert Richer.
[*10] 大ざっぱな計算になっているのは、11通のうち2通は予想価格に達さず、売却価格が公表されていないため。正確には、9通が合計£25,695、あとの2通がそれぞれ£3,450以下の値段で売却された。当時のレートで換算すると、3万ポンドは約705万円。11通の合計は、最大で約767万円となる。
[*1]
この The Singing Caravan に手書きされたメモを最初に公表されたのは、1968年6月16日付 Sunday Times 上だった [p.50, col.1 / 写真・右]。この日付とページ数だけでは記事の見当がつかないが、実はこのページ、Knightley & Simpson による連載 The Secret Life of T. E. Lawrence の第2回目 (The Sheik who made Lawrence love Arabia) である。4回にわたるこの連載記事をふくらませたものが、翌年9月に The Secret Lives of Lawrence of Arabia の表題で出版された。だが、なんとも不可解なことに、出版された本のほうには、同じメモの引用においてこの「A(?)」が抜けているのだ(Chapter Eleven 参照。Nelson ed. p.162; McGraw-Hill ed. p.184; Panther ed. p.188)。ただし、The Singing Caravan の巻末の白紙に鉛筆書きで記されたもの、とする出典情報が増強された。
筆者(八木谷)がこの事実に気付いたのは2008年12月になってからで、これには驚いた。なぜ Knightley & Simpson は単行本の記述を変更したのだろうか? 次にこの句(「A(?)」つき)が引用されたのは1971年に Cape から出た Jeremy M. Wilson 編纂の Minorities [p.29] で、こちらの出典表記は上記 Sunday Times 記事となっており、The Singing Caravan の名前は出て来ない。NPG カタログのほうでも出典は「Manuscript note dating from 1919」と記され、Wilson が具体的に The Singing Caravan の表題を出したのは、1989年の公認伝記が最初だった [Chapter 31. note 30, p.1123, 'Bodleian R (transcript)']。この「transcript」とは複写という意味で、原本ではない。既述のように、原本はアメリカの Houghton Library にある。わたしの想像だが、Wilson は公認伝記を書いた時点では Houghton の原本を目にしていなかったのではあるまいか。
【重要!★追記】 2009年1月28日付 Jeremy Wilson の TELStudies list への投稿で、当方の想像が当たっていたことがわかった。Wilson はこの日はじめて Houghton にある原本の複写(スキャン画像)を見たとのことで、公認伝記にある記述を修正した。すなわち、原本に「 (?) 」の文字はなく「'A I wrought for him freedom...'」となっていたこと。「'...I find rest and peace.」の「rest」の文字が判読しがたいことを挙げた。Bodleian のほうにある「 (?) 」は、複写を作った人物が書き入れたものらしい。
また、興味深いこととして、この詩の記された同じページに、献辞とは直接関係のない七柱の4つのトピックが書かれていたことにも触れている。そのトップにあったのは ibn Wardani の宮殿、すなわちロレンスが戦前(1912年2月)Dahoum と一緒に訪れた廃墟における砂漠の風についてで〔邦訳『完全版 知恵の七柱』第1巻/p.78 参照〕、ibn Wardani は「人物と土地と」を指す S.A.の「土地」候補のひとつとなるだろうと Wilson は言う。
[*2]
John Mack によると Dahoum は tehoum の異形で「天地創造前の水面の暗闇(淵の面にある黒暗〔やみ〕)」を意味するという [ MACK, p.96]。またヘブライ語の tehoum は聖書の創世記7:11にある「大淵〔おおふち〕」=深淵、底知れぬ割れ目 (abyss) に相当する。つまり、ダフームという名は日本語で「黒助」などと書く以上の雅語的響きをもつようだ。
[*3] この像の写真は The Journal of the T. E. Lawrence Society, Autumn 1997, pp.38-39 に掲載されているが、一見して、Dahoum には似ていない。
またダマスカスでの失望と S.A. の詩との関連について、ロレンスは Liddell Hart の質問に対し「ダマスカス入城のずっと前 (long before we got to Damascus) に不幸な“出来事”があった」というコメントをしている [1933年9月: B:LH, p.169] 。これが Dahoum の死を示すことはまず間違いないが、「long before」という表現は1918年よりも1916年をさすと解釈したほうがぴったりくるかもしれない。
[*5] S.A. の詩を英文学的に解析しようという人には必読の論文。この詩に多大な影響を与えたものとして、ロレンスが一時持ち歩いて愛読したという詩集 The Singing Caravan by Robert Vansittart, 1919 に言及。ほかに Skias Onar by Frank L. Lucas; Julius Caesar by Shakespeare; France at War by Kipling, Obermann Once More by Matthew Arnold; The Dynasts by Thomas Hardy; Atalanta by Swinburne; Great Misgiving by Sir William Watson などの作品の影響を指摘している。
[*6] Stephen E. Tabachnick, The T. E. Lawrence P*U*Z*Z*L*E, University of Georgia Press, Georgia 1984, p.34 ; Tabachnick & Christopher Matheson, Images of Lawrence, Jonathan Cape, London 1988, p.17, etc.
Malcolm Brown & Julia Cave, A Touch of Genius: the Life of T. E. Lawrence, Dent, London 1988, p.43.
Lawrence James, The Golden Warrior: The Life and Legend of Lawrence of Arabia, Weidenfeld & Nicolson, London 1990, p.60.
Michael Asher, Lawrence: The Uncrowned King of Arabia, Viking, London 1998, p.76.
他にオークションに出品されたものには、『七柱』1935年750部限定版、『十字軍城塞』1936年千部限定版、Wilfrid Scawen Blunt がロレンスおよび Cunninghame Graham に宛てた書簡3通(1920-22年)、ロレンス所有の Edward Garnett 作 The Trial of Jeanne d'Arc and other plays (1931)、Brian Desmond Hurst and Duncan Guthrie による映画 Lawrence of Arabia シナリオ(1938年4月)、ロレンスのサイン入り Augustus John 作肖像画写真(日付なし)。