■ ヒジャーズ鉄道
ヒジャーズ鉄道の 旧駅舎
駅舎の内部 |
サウディアラビアの美しい自然、考古学的に興味深い多くの遺跡はほとんど一般には知られていない。アクセスが困難なのと、情報の乏しいことがその原因である。1991年、ある商社の駐在員として家内とともにジェッダに赴任した当時の私にとって、サウディアラビアは退屈な国でしかなく、観光などおよそ縁遠いものとしか思えなかった。 そんな私の浅はかな先入観を覆したのが、サウディア航空の機内誌に掲載された砂漠に放置された朽ち果てた蒸気機関車の写真だった。昔映画『アラビアのロレンス』で見たロレンスによって爆破されたヒジャーズ鉄道の残骸に違いないと思った私は、是非行って実物を見たくなった。しかし、その現場はジェッダから600キロ以上離れた砂漠の真ん中で、その正確な位置もわからない。なかなか休暇も取れない駐在員にとって、ヒジャーズ鉄道見学は高嶺の花だった。 私の希望が期せずして実現することになったのは、マダイン・サーレー〔マダーイン・サーリフ〕の遺跡のお陰だった。これはヨルダン南部にあるペトラの遺跡に酷似した遺跡である。ジェッダから直線距離で約600キロも離れたところにあるのだが、ヒジャーズ鉄道の廃墟と違って、マダイン・サーレーにはサウディアラビアには珍しく観光ツアーがあった。ただそのツアーを利用するためには少なくとも同行者が15人必要とのことだった。 15人以上がメディーナ・シェラトンホテルに一泊すれば、ホテルがマダイン・サーレー往復の大型バスを仕立ててくれるという。私は友人を誘い、25人の同行者を集めることに成功した。 1993年11月のある木曜日の午後、私たちはメディーナ郊外のシェラトンホテルに到着し、翌朝6時メルセデス・ベンツの大型バスでホテルを出発した。メディーナ市街を外れ、北に向かう自動車道路に出る。道路はメディーナに始まる広い川幅のワディ(涸河)にそって北に向かって走っていた。ワディの両側にはデーツ樹木が切れ目無く並んでいた。 よく見ると道路の左手、遠くに見えるデーツ林と、手前の砂漠の間に、電信柱のようなものが並んでいるのがわかった。ガイドのムハンマドが「昔あそこにヒジャーズ鉄道が走っていました」と言った。ヒジャーズ鉄道を見たいという私の希望は、マダイン・サーレーのお陰でかなえられたのだった。 ヒジャーズ鉄道は1908年9月に、オスマントルコの手によって開通した。しかし第一次大戦中に破壊され、サウディアラビア領内ではそれ以来廃線になっている。その路線はシリアのダマスカスからヨルダンを縦貫し、現在のサウディアラビア王国の西北部を経て、聖地メディーナに至る、長約1300キロの単線鉄道である。当初の予定では、メディーナから更にメッカまで延長される予定であったが、そこまでは終に完成しなかった。それでも、それまでラクダの背に乗って数十日かけてメディーナにたどり着いたものが、この鉄道によってわずか数日でメディーナに着くことができるようになり、最盛期は年間3万人の巡礼を輸送したという。ヒジャーズ鉄道は、表向きは巡礼輸送が目的であるが、実はメッカ・メディーナを支配していたオスマントルコの兵站線確保が、大きな目的であった。 鉄道建設は、主として全世界のイスラム教徒からの募金によって行われた。しかし第一次大戦でトルコが敗戦した後は、その路線の通過する諸国がそれぞれ独立して運営することになった。サウディアラビア領内ではその後全く使われていない。多分世界で一番短命な鉄道だろう。一方今でもヨルダン領内ではその路線はまだ使われており、ヨルダンに大量に産出するリン鉱石を、その積み出し港であるアカバまで運んでいる鉄道は、当時の路線の支線だが、今なお活躍している。 私たちが進む道路は、旧ヒジャーズ鉄道の路線と平行に走っている。よく見ると、砂漠の地面から、約1メートルほど土盛りした上に線路が敷かれていたことがわかった。そして所々で土盛りが数メートル切られて、レールは小さな橋の上を通るようになっていた。これは路線が広いワディの川床を走っているので、まれに降る大雨による洪水からレールを守ろうという配慮なのだろう。そして、数キロの間隔をおいて、赤茶けた煉瓦建ての駅舎らしい建物が配置されていた。【写真[1]及び[2]】 しばらくして、とある大きな駅舎の正面でバスは停車した。ムハンマドの先導で、私たちは自動車道路から駅舎までの約100メートルを歩いた。朝ホテルを出発した時は未だ温度もそれほど高くなかったが、朝8時を過ぎると気温は40度近くあった。 線路の傍らの砂の上に、脱線して転がった客車の鉄の枠組みが、赤錆びて転がっていた。プラットホームの高さや、レールの太さや軌道の広さから見て、ヒジャーズ鉄道は狭軌の日本のJRより更に軌道の幅が狭いトロッコ鉄道に近い規模の単線鉄道であったらしいことがわかった。しかしプラットホームの後ろに残された赤煉瓦二階建ての駅舎は立派な建物だった。こんな砂漠の真ん中に一定間隔で駅を配置しても、本当に乗降客がいたのだろうか。駅舎には事務所か休憩所のような部屋もあり、階段を降りた地下はレスト・ルームであった、とのムハンマドの説明だった。 |
小麦畑
円形農場
マダイン・サーレーの 遺跡
車庫の遠景
車庫の中にあったドイツ製の蒸気機関車 |
鉄道の駅舎の廃墟からバスはさらに北に向かって走り続けた。途中の道路脇の砂漠には、直径1キロ近くはあろうと思われる、緑色の円形農場が所々に見られる。井戸を掘って地下水を汲み上げ、スプリンクラーの付いた長さ数100メートルのパイプを360度回転させて水を撒いて、人工的に小麦を栽培しているのだ。1980年代後半サウディアラビアは世界でも有数の小麦輸出国だったのである。お昼前にマダイン・サーレーに到着。 ヒジャーズ鉄道の保線区があり主要駅の一つであったマダイン・サーレーは、メッカ、メディーナと並んで、太古のシリアからイエーメンを経て海路インドネシアやマレーシアに至る東西通商路の要衝であり、ペトラの遺跡を築いたナバタエ人が西暦紀元前後にここに岩石を彫った巨大遺跡を残した。19世紀後半にここを訪れたイギリス人ダウティーの『アラビア砂漠紀行〔砂漠のアラビア〕』によれば、 当時のマダイン・サーレーは巡礼路の主要オアシスであり、宿場町であったとのこと。なお『アラビア砂漠紀行』はロレンスの愛読書でもあったそうだ。 遺跡の中で一番高度の高い所にある生け贄の祭壇から周囲を眺めると、数キロの所に小さな林があり、その傍に煉瓦建の建物が見えた。それがヒジャーズ鉄道の駅、そして保線区の車庫だった。われわれが遺跡見学を終えて、ヒジャーズ鉄道の駅に着いたのは、そろそろ午後4時近くだった。車庫の中の蒸気機関車は、丁度修復工事中で茶色に防錆塗装をされたばかりの姿だったが、もともとかなり損傷していた模様だった。サウディア航空の機内誌で見た野ざらしになったヒジャーズ鉄道の蒸気機関車の方が保存状態が良いように見えた。車体のネームプレートにはドイツ語が書かれていた。車庫の外には貨車が数両、かなり朽ち果てた姿で置かれていた。又車庫の周囲には車輪、車軸、台車などが積んであった。そして車庫から少し離れたところにある煉瓦建ての建物は、トルコ軍の鉄道守備隊の砦の跡だった。日の傾き始めた操車場の構内で、ロレンスの活躍した当時を偲んだ。もうロレンスが活躍した時代から70年がたっていた。【写真[3]〜[10]】 ヒジャーズ鉄道の見学を終え、私たちは一路メディーナに向かった。日は暮れ、何の照明もない砂漠の中の自動車道路を、バスはひたすらに走り続けた。メディーナ・シェラトンホテルに着いたときは、午後9時を過ぎていた。 チャンスがあればヒジャーズ鉄道全線をたどる砂漠旅行をして見たいものである。 HAGITANI Atsushi, December 2002 |