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1. はじめに 1908年に開通してダマスカスとメディーナを結んだヒジャーズ鉄道(巡礼鉄道)は、第一次大戦中にロレンスたちの破壊で南ヨルダンの要衝マアーン以南が放棄された。 ロレンスはメディーナ防衛のトルコ軍14,000名を置き去りで孤立させて北上し、ダマスカスに達することを反乱の戦略的主眼とした。彼のゲリラ活動はヒジャーズ鉄道の遮断に尽きるといっても過言ではない。『七柱』後半の山場のひとつで ロレンスが圧勝した「タフィーラの戦い」は鉄道と無関係だが、彼自身が韜晦して「戦史のまねごと〈パロディ〉」と言うほどで、反乱の帰趨を決するようなものではなかった。 南部の現サウジアラビア国境からヨルダン側へ10数キロ入ったところにムダウワラ停車場があり、線路上の距離ではマアーンの南 113キロに位置している。砂漠のなかの構内には近在で最大の深井戸があり、巡礼の乗降地ではないが列車(薪を燃料とする蒸気機関車)の給水地、トルコ軍鉄道守備隊の駐屯地としてヨルダン南部きっての戦略要地だった。 ムダウワラ停車場の攻撃は再三検討されたが時期尚早として見送られ、ダマスカス攻略を2ヶ月後に控えた1918年8月8日にようやくバクストン少佐の率いる英軍駱駝隊によって破壊されて(写真)、メディーナの完全孤立化が実現した。 この作戦にロレンスは参加していないが、前段階として彼が体験した数度の出動がある。その主要なものが1917年12月の軍用車使用による偵察と、1918年4月にドーニー中佐が計画し、ロレンスも加って観戦した装甲車とアラブ人(ベドウィンとエジプト兵の混成)によるムダウワラ北方のタル・シャフム駅攻撃だった。拙訳『完全版 知恵の七柱』(全5巻、平凡社東洋文庫、2008-2009)では、それぞれ第四巻所載の第90章、第105章に述べられている。 本稿では、これらの記述を通じて『七柱』とその関連地図に見られる誤り――ヒジャーズ鉄道の2停車場の位置が逆になっていること――を明らかにする。 |
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[注] 地図の縮尺は同一ではありません
■ ヒジャーズ鉄道 マアーン以南ムダウワラまでの停車場名 GeoNames に掲載がある駅名
上の地図は GSGS2957 の1924年初版であるが、マアーン以南の駅名が
同じ GSGS2957 の第3版(1941年)では、Ma‘an と Mudawara のちょうど中間あたりに Batn al Ghul の一駅が掲載されているのみだ。これはこれで正確だが、上図の1924年初版に比べると差違が大きい。 |
2. ラムラ駅の位置――タル・シャフムの北か南か まず、地図画像をご覧いただきたい。左から2番目の地図〔B〕が1926年版『七柱』(以下「予約者向け簡約版」)に用いられた、ロレンスの指示でバーソロミュー社が作成したカラー地図の当該部分である(『七柱』の地図の始祖で、拙訳書第2巻口絵に使用したもの。詳細は第二巻所載の拙稿「アカバへの道――『七柱』の地図を修正する」を参照。ネット版はこちら)。 南北に走る黒いラインがヒジャーズ鉄道だ。Mudowwara ムダウワラから北へ向かって第一の停車場が Ramleh ラムラ(黄緑の丸印) 、第二が Shahm タル・シャフム(赤の丸印)、そして Shedia シャディーヤなどの駅が続いて Maan マアーン(画像外)にいたる(以下ローマ字の綴りはすべて出典の表記による)。 だがこれが誤りで、本来はムダウワラから見て北へ第一の停車場がタル・シャフム、第二がラムラという順序でなければならない。ロレンスの地図では両駅の位置が逆なのだ。
ほかの関連地図(以下の諸図については同じく前記拙稿参照)を見ると、まず1918年の GSGS2555〔A〕が間違っている。赤枠で示した TELL ESH SHAHIM (タル・アッ‐シャフム)が RAMLA の北側にある。これは、1926年に予約者向け簡約版の刊行に際してロレンスとバーソロミューが地図作成の叩き台とした、左下の1924年刊 GSGS2957〔F〕の主要典拠の筆頭に挙げられているものだ。だが当の〔F〕には、シャフムの誤りかと思われる Shajm という駅名が北に離れて見られるがラムラはない。 そして、〔B〕を基にした『七柱』のダイジェスト本『砂漠の反乱』Revolt in the Desert (1927) の地図も当然間違っている。ロレンスの死後に刊行されて広く流布した『七柱』 1935年版(予約者向け簡約版の普及本)では地図 (Map IV. 右から2番目、白地の地図〔C〕) を作った The Chiswick Press, Ltd. が追随して誤っている。A. Gatrell 作成のペンギン版の地図も 1935版の Map III に基づいた Map 3ではムダウワラのすぐ北隣にシャフムがあってラムラは欠落し、Map IV に基づいた Map 4 でも誤りを引き継いでシャフムがラムラの北に来ている。 柏倉訳の旧東洋文庫版も、底本とした 1935版の Map III に基づいた巻末地図 (2) (3) ではラムラがなく、Map IV は利用されずじまいで、いずれにせよ間違っている。 停車場の正しい順序は、『七柱』オクスフォード・テキスト原文の記述に関して拙訳書第四巻第90章(31頁)の割注で説明し、第105章冒頭のタル・シャフム停車場についてこの割注を指定したとおりである。 右端の地図〔D〕は GSGS 4646 ‘Cairo’ (Series 1301, Sheet NH-36, Edition 7-GSGS. 英国国防省測量部と当時の航空省による1960年刊) からとったもので、正しいラムラ ER RAMLA とタル・シャフム TULUL ESH SHAHM (Tulul は Tall/Tell = 丘陵の複数)の位置を示している。たまたまこの部分は図面の右端で、これに接する GSGS 4646 ‘Al Jawf’ (Sheet NH-37) という図面で途切れた鉄道をつなぐと、駅名としては南からムダウワラ (西側にかろうじて載っている Husn el Mudawwara 「フスン・アル‐ムダウワラ」という台地に対応)、タル・シャフム(同 Tulul esh Shahm 「トゥルール・アッ‐シャフム」)、Er Ramla (= Al Ramla. 「アッ‐ラムラ」)……と続く。ラムラはシャフムの北に位置しているのだ。 この地図〔D〕の正確さは航空測量を取り入れた結果だが、いまではそれらと比較にならない高い精度をもつ GeoNames(衛星写真による地理データベース)で詳細に確認することができる(Jordan の Mahattat ar Ramlah 「ラムラ停車場」を検索)。 GeoNames によれば、マアーン、ラムラ、タル・シャフム、ムダウワラの停車場位置はつぎのとおりである(秒の数値に端数がないのは GeoNames の処理基準によると見られるが、筆者は審らかにしない)。
つまり、停車場の緯度でいえばムダウワラの北16.634km にタル・シャフムがあり、ラムラはその北7.565kmに位置する。そしてラムラから緯度では0°38’50” (71.748km) 北方にマアーン停車場がある。 GeoNames が示すマアーン‐ムダウワラ間の「廃駅」 abandoned railroad station は北から順にムサウワラ、アブー・タラファ、アッ‐シーディーヤ、ファッスーア、ハッティーヤ、アカバ・アル‐ヒジャーズィーヤ、バーティン・アル‐グール、ラムラ、タル・シャフムの9ヶ所だが、ハッティーヤと西に外れたアカバ・アル‐ヒジャーズィーヤを同所と見れば、前記の地図〔D〕にアカバ・アル‐ヒジャーズィーヤ以外の8駅が記載されているのと符号する。対してロレンスが第105章(拙訳書第四巻210頁)で7駅と言っているのは、このうちのどれか2ヶ所を知らず、代わりに第56章 (第二巻319頁)で「マアーン南方の最初の停車場」と述べたガディール・アル‐ハッジュを入れたためにちがいない。ロレンスは1917年7月にアカバ攻撃の途中で当時存在したこの駅の小守備隊と交戦している。 結論として、ムダウワラ以北の停車場は第一がタル・シャフム、第二がラムラなのであって、拙訳書第三巻92頁に初めて触れられ、第四巻31、33、201、207、209の各頁に現れる両停車場の位置関係はそのように理解されねばならない。 拙訳書の巻末地図には正位置を記入したので地理上の問題はないわけだが、本文の記述と照合された場合に疑問を持たれる可能性がある。あるいは、オクスフォード・テキストであれ簡約版であれ、旧柏倉訳を含めて英文原書由来の地図を点検した注意深い読者は、拙訳書の地図が誤っていると思われるかもしれない。したがってここでは、ロレンスの文章と彼が作成に関与した地図がいずれも事実に反していることに読者の注意を促しておきたいと思う。 3. 誤りの持つ意味 話を少し戻すと、両停車場の位置関係がオクスフォード・テキストで具体的に言及されているのはつぎの個所で、拙訳書では前述の第90章(第四巻31頁)が対応する。 ...but it opened straight on Ramleh, the first station north of Mudowwara, and we had to go back and try other ways till evening, when we were at last in place behind the last ridge, a little above Tell Shahm, the second station. (p.517)地理を知らずにここを読むと、駅の順序は南からムダウワラ、ラムラ、タル・シャフムと思うのが自然だろう。原書に付された地図〔B〕を見ても、そうなっているのだ。 だが、このときロレンスは軍用車でクワイラから、つまり西北から東南へ向かって鉄道に近づいている。したがってムダウワラの北で最初に出くわした駅をラムラと思い、ついで二番目、つまり下り方向のムダウワラ寄りをタル・シャフムと思ったのだと解すれば現実の地理どおりであって、この記述も納得できる――が、添付の地図〔B〕とは合わなくなる。 ところが、簡約版を見ると同個所はこうなっている。 ..., when we were in place behind the last ridge, above Tell Shahm, the second station northward from Mudowwara. (Ch. 82, ペンギン版 p.468)つまり簡約版では、タル・シャフムをムダウワラから第二の停車場と言い切っている。クワイラからのルートを斟酌する必要もなければ、取りようによっては別の見方もできるような余地もない。ラムラには触れていないが、オクスフォード・テキストの記述を思えば第一の停車場をラムラと見ていたのはいうまでもない。そして翌朝、つまり1918年の元旦に背後の尾根からどこへ行ったかというと、南へ出てロレンスの言うシャフム停車場の向かいまで接近したと、ここはオクスフォード・テキストどおりである。 念のため実際の地勢に触れると、線路の西ほぼ 8キロに駅名の元になったトゥルール・アッ‐シャフムという標高816メートルの山地が走っている。その山地が複雑に入り組んで北に延びたところがサフル・ウマイル・ワ・アンマールという833メートルの丘陵で、そこから同じく8キロほど東にあるのがラムラ駅なのだ。したがって、クワイラから下がってきたロレンスが入り込んだのが「厄介な山地」(前掲引用の先行文)だったため、「最後の尾根の後ろ」で1917年の大晦日を過ごしたという『七柱』の記述はきわめてよく理解できる。 簡約版の文章は、オクスフォード・テキストをそぎ落として簡潔な表現に改めた一例と言えるだろう。しかし、それによってロレンスはタル・シャフムがムダウワラから第二の停車場だと信じていたことを疑問の余地なく確定させてしまったのである。 1918年1月1日に、ロレンスの一行はあたりの小防砦を攻撃し、さらに彼の言うシャフムの駅舎に 2,000ヤード離れたところから「立て続けに砲弾を的確に撃ち込み」、「近づいて、悠々と扉や窓から弾丸を撃ち込んだ」(第四巻33頁)。だが勝負はつかず、この日は車両による攻撃が可能と初めて分かったことに満足してアカバへ引き揚げた。そしてシャフムと思った第二の停車場が実はラムラだったことに、ロレンスは気づかずじまいだった。 まったくの憶測だが、彼の思い違いはこのときの出動が軍用車8台という態勢の英軍将兵のみだったためかもしれない。縄張り内であれば知らないことはないアラブが 1人でもいたならば、このような勘違いが起こるわけはないからだ。 僻地の小駅の順番だけなら、錯誤もさしたることはないと言えよう。事実、この誤解がその後の戦況に影響したわけでも、『七柱』の記述に混乱をもたらしたわけでもない。 問題は、この思い違いに基づいて『七柱』の誤った地図が作成されたことにあるだろう。 2006年から10年計画で進行中の GARP (Great Arab Revolt Project) 「大アラブ反乱プロジェクト」という事業がある。英国ブリストル大学とヨルダン政府考古局、ヨルダンのアル・フサイン・ビン・タラール大学そのほかが合同で立ち上げた第一次大戦戦跡調査で、すでに多数の施設遺構やトルコ軍遺留品などを発見している。(http://www.jordan1914-18archaeology.org) |
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バクストン隊による ムダウワラ停車場の爆破 (1918年8月8日) 出典 Robert Graves, Lawrence and the Arabs, Cape, 1927 |
その2007年11月のリポートにこうある。[ Day 12 - Rest day plus! ]ここに言う「ロレンスが描写したもの」とは、拙訳書第三巻第70章138〜41頁(簡約版では第64章)所載の場面である。1917年9月にムダウワラの南方で初めて電気起爆の地雷を用いて列車を爆破したときのことで、ラムラ、シャフムとは関係がない。ただこれで分かるのは、駱駝隊のバクストンはムダウワラの軍事設備や給水塔、風車(蒸気機関とともに風力で地下水を揚水するもの)は爆破したが一部建物は残したことだ。また『七柱』によるかぎり本来のタル・シャフム(調査団の言うラムラ)はロレンスもドーニーもバクストンも本格的には攻撃していないが、風化とベドウィンの略奪に曝されて施設は跡形もないことも分かる。 問題は、調査ティームが明らかに『七柱』の記述を指針として行動していることだ。ヒジャーズ鉄道、とくに南部の記録はトルコ側、ドイツ側ともに整備されているとはとうてい言えず、分からないことだらけというのが現実のようで、そこに戦跡調査の意味もあるのだろう。 調査団が持参したのがオクスフォード・テキストか簡約版かは不明だが、そのいずれにせよ誤った地図(〔B〕あるいは〔C〕)が付された『七柱』をもとに行動している調査団は、少なくともこのリポートを書いた時点ではラムラとタル・シャフムの遺構を取り違えている。調査団が、最終的にどのような報告書を出すかは興味深いところである。 4. なぜこの誤りが起こったか 最後の疑問、ないしは推測は、この誤りの原因とその意味についてである。 拙訳書第二巻所載の拙稿383頁以下の「推定」を参照いただきたいが、ロレンスの記憶、記述を修正できるような形で正確な予約者向け簡約版用の地図は作成されなかった。 言いうるのは、1926年簡約版の地図〔B〕作成の基となった〔F〕とその第一典拠である〔A〕の記載不備のために、以後の『七柱』地図のすべてに誤った原文に沿ってはいるが誤った地名が記入されたことだ。そして、完成された地図〔B〕と『七柱』の記述が合うことでロレンスも読者も疑問を持たず、地図、文章ともに人の注意を惹くことなくいまにいたったのである。 つまり、アカバルートとまったく同じことがここでも生じていたと推定される。ただ、アカバルートの場合はあれだけ大規模な過誤でも『七柱』を読むうえで現実の不都合はなく、第三者への具体的な影響があるとも考えられない。しかし本件の場合の問題は、瑣末とはいえ実際の停車場位置と一致しないものが書かれ、それに従った地図が作られたことによって、『七柱』地図の利用者はその被害者にならざるをえないという事実である。 田隅恒生(2009年8月) |