秦氏と稲荷
現代からの問題提起
日本は基本的に移民の国であり、民族混合、文化習合の国である。生粋の日本人(日本列島先住民)というものはいない。どの時代に移住してきた人々かを基準に便宜上区別はできたとしても、歴史上、日本人は単一民族ではなかったのである。特に日本人のルーツは、中国大陸から直接渡来してきた部族、朝鮮半島から幾度となくやってきた人々の影響を遺伝学的、社会・文化的に強く受けていることは否定できない。縄文時代からその波は小規模ながら起こっていたが、特に弥生時代以降に大挙渡来してきた人々の与えた影響は看過できないものがある。日本はこうした渡来人の作り上げた国でもあるのだ。
ところで、国籍や民族による人間の区分は、ときとして身内意識を喚起し、「よそ者」に対する激しい敵意、憎しみをもたらす。たとえば、日本人と韓国人の間にある感情的な葛藤がそれである。今年(平成14年)に行われた日韓共催のFIFAワールドカップを振り返ってみても、これをすべて両国の友好に役立った、成功した大会だったと言ってよいだろうか。今回の大会には誤審問題や不正疑惑、サポーターの行き過ぎた応援などが目立った。詳しくはこちらのサイトを参照。日本と韓国の間には、歴史教科書問題、従軍慰安婦問題など植民地時代に根ざした課題が立ちはだかっている。こうした背景から、韓国人は日本人に対して否定的な感情を持っている人もまだ多く、それがスポーツの祭典であるはずのワールドカップの舞台に頭をもたげることもあった。たとえば、開会式の時に日本の首相に浴びせられた大きなブーイング、決勝トーナメントで日本がトルコに敗れたときに大喜びしたサポーターたち。これらは「一部の人々」の感情の発散と片づけられてよいことなのだろうか。「共催」という言葉とはかけ離れた実態、両国民のすれ違いを感じずにはいられない大会だったと、私は思う。
自国や自民族に誇りやプライドを感じることは重要なことである。それが国家レベルのエネルギー、すなわち生産性につながるためだ。自分たちが暮らしている国を愛すること自体は自然な感情であろう。しかし、そのことと他国、他民族を腐し、蔑視することとは別問題である。相手の国、民族にも誇りはある。相手の立場や価値観を尊重した上で、素朴に応援することができないのは、心の貧困といわれても仕方ないであろう。日本人の多くは素直に韓国を応援したが、韓国人はそうではなかった。逆に、日本が負けるのを願う声も多かった、という韓国での報告を私はとても残念に思う。
意識場という概念を適用してみても、多くの人々の注目が集まる国際的なスポーツの祭典は、人々の想念のぶつかり合いになる。国民の期待を一心に受けた選手たちも、普段の実力以上の力が発揮できることもある。それを疑似戦争という人もいるが、スポーツはあくまでも個人が楽しむもの、心身を高めるためのものであって、国威発揚とか他国への攻撃的感情をぶつけるためにやるものではない。
グローバル化の時代、国際化の流れの中で、自民族だけが優越している、他は蛮族にすぎないという発想はもはや化石化した考え方である。民族という枠に固執する限り、真の地球市民にはなれない。それは国際的孤立を生みはするだろうが、長い目で見て得策とは言えないのではないだろうか。
私は別段、韓国の人に先入観も偏見も抱いてはいない。歴史的、文化的に見て隣国として影響を与え合ってきたわけだし、数千年というタイムスパンの中で物事を見れば、互いに相容れず、敵対してきた時代よりも、人的、文化的に相互作用し、共存してきた時代の方がはるかに長いためである。これからの数百年、数千年後を見通していけば、民族というアイデンティティの枠は確実に意味をなさなくなっていくことであろう。
今回は、こうした人的、文化的な共有化の1つの事例として、秦氏という渡来人の遺した影響について考えてみたい。
秦氏の神々
時代を遡ってみよう。
5世紀前後の朝鮮半島は動乱の時代だった。西暦390年〜410年頃、朝鮮半島では倭と百済、高句麗と新羅が連合し、戦が続いていた。さらに追い打ちをかけるように新羅、百済ともに干ばつが続き、稲は枯れてしまい、イナゴが大発生。飢えた百済の農民たちが新羅に多数逃亡した。一方、半島南部の加羅地方の人々は海を渡って倭国に向かった。
このときの加羅からの渡来人の中に弓月の君(首長)、弓月の民(生産民)が含まれていた。<百二十県の民>と日本書紀には出ているので、過去最大級の渡来人集団が倭国にやってきたことになる。それが秦氏である。
秦氏の出自は、秦の始皇帝の末裔という。始皇帝と本当に血がつながっていたかどうかは疑問視されているが、少なくとも、秦氏の首長の家系は朝鮮半島中部に設置されていた中国王権の出先機関である帯方郡、楽浪郡の漢人集団だったことは推定される。在韓中国人で自らを始皇帝の末裔と称する人々が秦氏集団の中心にいた可能性はある。
さて、秦氏は、まず北九州地方に上陸し、その周辺に定住したものもいた。やがて古墳築造、河川の治水工事に関する技術を必要としていた大和王権が渡来人を積極的に畿内に呼び、彼らは大和の葛城地方、さらに山城国深草に移住していった。以後6世紀に至るまでの百数十年間に渡り、秦氏の朝鮮半島からの渡来は持続的に発生した。
秦氏が日本に渡来してきて祀った神々は、以下に示す神社を探訪してみればその片鱗を知ることができる。
| 1.豊前国(大分県)香春神社 | 『豊前国風土記』に新羅国神を祀るとある。銅を産出する香春岳には金属の神が祀られていた。また、宇佐八幡宮の元宮で、女神を祀る。神社の神官家のうち、赤染氏は秦氏系。 |
| 2.豊前国(大分県)宇佐八幡宮 | 八幡神の本社。「ヤハタ」の神の祭祀が朝鮮半島での祭祀に類似している。ヤハタ信仰は、新羅・加羅の土俗信仰+仏教+道教+日本の土俗信仰だった。朝鮮の太子神、対馬の天童信仰との関連性。巫女を媒介したシャーマニズム。女神を本体とする。 |
| 3.大隅国(鹿児島県)鹿児島神宮 | 豊前国から大隅国に秦氏系の人々が移住した。正統の八幡神を祀るというゆえに「正八幡宮」。海の向こうから空船(うつろぶね)に乗った母子が漂着するという伝説が由緒にある。 |
| 4.大隅国(鹿児島県)韓国宇豆峯神社 | 霧島山を韓国岳という。神体山の韓国岳の里宮。もう1つの秦王国。大隅、薩摩を治めた島津氏は秦氏系。 |
| 5.山城国(京都府)伏見稲荷大社 | 稲荷山のある深草地区に秦氏が移住。それ以前の土俗信仰、古墳信仰に秦氏の信仰が習合されて稲荷信仰となる。 |
| 6.山城国(京都府)木島坐天照御魂神社 | 通称蚕ノ社。ご祭神は天御中主命,大国魂神,穂々出見命,鵜茅葺不合命。木嶋神社のある嵯峨野一帯は,5世紀以降朝鮮半島から渡来した秦氏の勢力範囲であり,製陶,養蚕,機織などのすぐれた技術者集団がこのあたりに入植した。蚕ノ社という名称は織物の神,蚕養神を祀ることからついたもの。古来より祈雨の神としての信仰も篤く,巨樹が繁茂し,今でも清泉が湧き出でる場所に立地。 |
| 7.山城国(京都府)松尾大社 | ご祭神は日吉大社の祭神で比叡山の守護神でもある大山咋神,宗像三女神の一柱である市杵島媛命である。そもそもは秦氏の氏神を祀る。松尾大社は,賀茂神社との関係も深く,かつては松尾大社の祭礼も「葵祭」と呼ばれていた。「秦氏本系帳」によれば,葛野川(賀茂川の支流)で秦氏の女性が洗濯をしていたときに丹塗矢が流れてきて,それが松尾大明神であったという。中世以後,松尾大社は酒造りの守護神として全国の酒造家から信仰を集めてきた。 |
| 8.山城国(京都府)大酒神社 | 秦河勝が建てた太秦の広隆寺の境内に鎮座する。 |
| 9.加賀国(石川県)白山神社 | 越前の修験行者、泰澄が白山を開山。白山神と観世音菩薩を習合させた。泰澄は秦氏。白山神の源流は韓国神。「白山」 は、昔は「しらやま」あるいは「しろやま」 と呼ばれていた。「新羅人(しらぎひと) の山」 あるいは 「斯盧人(しろひと) の山」 という意味もあったようである。白山比刀iしらやまひめ)神社の主神は菊理媛(くくりひめ)命である。 |
| 10.近江国(滋賀県)白鬚神社 | 白神信仰。比良明神が老翁の姿で現れたので、白鬚神という。新羅、高麗との連関。 |
| 11.播磨国(兵庫県)大避神社 | 秦河勝を祭神とし、播磨の秦氏によって祭祀された。 |
このうち、2は八幡神社の総本宮、5は稲荷神社の総本宮である。神社本庁包括下の神社は、全国に約80000社で、そのうち稲荷神社が3万社、八幡神社が1万5千社なので、神社の過半数が秦氏に由来するものであることがわかる。それほどまでに、秦氏の神祇信仰に与えた影響力は大きいといえる。
ここでは、山城国に移住してきた秦氏の信仰の足跡を稲荷を軸に展開していきたい。
墳墓信仰
伏見稲荷大社は東山連山の1つ稲荷山の麓に建っている。稲荷山には一の峯、二の峯、三の峰、荒神峯の頂のそれぞれに古墳があった。これら稲荷山古墳群は深草地区の首長級の人物の墓であり、4世紀後半に築造されたものと考えられている。
秦氏が深草地区に移住してきたのは5世紀中頃と思われ、稲荷山麓に秦氏の首長墓と考えられる山伏塚古墳、谷口古墳が存在する。
古代の霊魂観からして、山はその地域の人々(一族)の祖霊の住む山と信じられていた。それは古墳時代になっても同じであり、秦氏が深草に移住した時点ですでに稲荷山は信仰の山になっていたはずである。
奈良・平安時代においても、稲荷山は墳墓が作られた葬地であり、死者の眠る山として特別な場所だった。
稲荷山に登ってみればわかることだが、この山には<お塚>が林立している。しかも、このお塚は稲荷山の峯を取り巻くようにストーンサークル上に配列されているのである。稲荷山を巡ることはお塚を巡ることに等しい。こうしたお塚信仰のルーツは、お塚=お墓を拝むことから出発しているのではないだろうか。
稲荷信仰とは、<お墓参り>ということになる。
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一の峯のお塚 |
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二の峯のお塚 ここが稲荷山のかつての本社であった。深草地区の首長を祀る前方後円墳の跡である。 |
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三の峯のお塚 |
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荒神峯のお塚 |
白鳥信仰
稲荷信仰には白鳥信仰も絡んでいる。
「山城国風土記」には秦氏の遠祖にあたる秦公伊侶巨(はたのきみいろこ)が大変な財産家であったが,あるとき驕り高ぶって弓の的に餅を使ったところ,餅はたちまち白鳥の姿と化して山の峰に飛んでいってしまったというエピソードが出てくる。その後,これを悔いた秦公伊侶巨の子孫は,稲荷山のお社の木を抜いて家に持ち帰り,植えなおしてお祀りした。今でも,その木を植えて根づけば吉,枯れれば福は得られないとされる,とある。これが稲荷祭祀の始まりとされる。

写真:伏見稲荷大社参集殿食堂の絵画「餅の的」
縄文時代以来の死生観では、万物は死と再生を繰り返すものと信じられていた。たとえば、植物の生命サイクルを古代人はつぶさに観察していた。春になり、種をまき、それが発芽して、夏には青々とした葉を出し成長し、秋には実り、冬には種になる。
種子は死であり、同時に再生の具現物でもあると考えられたのである。
また、太陽も日々死と再生を繰り返し、季節によっても死と再生を繰り返すものと考えられた。冬至は太陽が死ぬ日であり、春に向かって再生をしていく転換点である。太陽と季節の節目である春分、夏至、秋分、冬至は儀礼的にも重要な日だった。
こうした自然のサイクルを古代人は渡り鳥の生態に重ねてとらえていた。
白鳥は<冬の使者>ともいわれる。10月から3月にかけて(11月−12月がピーク)白鳥は日本に渡ってくる。渡り鳥の生態を観察していた古代人は白鳥が冬、死、再生に関わる神の使いとして捉えたようである。白鳥が渡ってくるとき、収穫が終わり、冬になり、食物の神は死ぬ。白鳥が帰っていくとき、太陽の光は強まり、草木が生え穀物の種を蒔く時期が近づいてくる。ゆえに、白鳥は食物の神、穀神の使いとして見なされた。
『古事記』の大気都比売神の項に以下のような神話が見られる。
またスサノヲノ命は、食物をオホゲツヒメノ神に求めた。そこでオホゲツヒメは、鼻や口また尻から品々のうまい食べ物を取り出して、いろいろに調理し整えて差し上げるとき、ハヤスサノヲノ命は、そのしわざを立ち伺って、食物を穢して差し出すのだと思って、ただちにそのオホゲツヒメノ神を殺してしまった。そして殺された神の身体から生まれ出た物は、頭に蚕が生まれ、二つの目に稲の種が生まれ、二つの耳に粟が生まれ、鼻に小豆が生まれ、陰部に麦が生まれ、尻に大豆が生まれた。そこでカムムスヒの御母神は、これらを取らせて五穀の種となさった。
<次田昌幸1977「古事記」講談社より現代語訳>
大気都比売神は食物を司る女神であり、『日本書紀』では保食神(うけもちのかみ)が殺されて五穀の源になっている。また、稲荷神の本来の名前は宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)というが、「ウカ」、「ウケ」、「ケ」という言葉はいずれも古語で「食べ物」を意味する。つまり、稲荷の神は「食べ物に宿っている魂」であり、五穀の魂、穀神ということになる。
いずれにしても、古代人の信仰では、穀物を収穫するときに、鎌で刈り取られることで穀物に宿る神は死に、春になって種を蒔くときに穀物神は復活すると信じられていた。穀物の起源を教える神話には、このように死体化生がテーマになっている。その理由は<種>と<死>がイメージ的に複合して認識されていたことにある。さらに、これに死と再生の象徴である白鳥信仰がかぶさり、古墳時代以来の葬地、墳墓信仰に上書きされて、稲荷信仰は<稲成りの信仰>として確立されたのであろう。
狼信仰
秦氏が神と崇めた稲荷とは実はオオカミだった。「日本書紀」の欽明天皇紀に次のような記述が認められるためである。
(欽明天皇が)まだ幼少のおり、夢に人が現れ、「天皇が秦大津父(はたのおおつち)という者を、寵愛されれば、壮年になって必ず天下を治められるでしょう」といった。夢が覚めて使いを遣わし、広く探されたら、山城国紀郡の深草の里に、その人を見つけた。名前は果たして見られた夢の通りであった。珍しい夢であるとたいへん喜ばれ、秦大津父に「何か思いあたることはなかったか」と問われると、「特に変わったこともございません。ただ私が伊勢に商いにに行き、帰るときに、山の中で二匹の狼が咬み合って、血まみれになったのに出会いました。そこで馬からおりて、手を洗い口をすすいで『あなた方は恐れ多い神であるのに、荒々しい行いを好まれます。もし猟師に出会えば、たちまち捕らわれてしまうでしょう』といいました。咬み合うのをおしとどめて、血にぬれた毛を拭き、洗って逃がし、命を助けてやりました」とお答えした。天皇は「きっとこの報いだろう」といわれ、大津父を召され、近くにはべらせて、手厚く遇された。大津父は、大いに富を重ねることになったので、皇位をおつぎになってからは、大蔵の司に任じられた。<宇治谷孟1988「日本書紀 全現代語訳」講談社より>
このことから、秦大津父が狼を神として崇めていたと考えて差し支えはないだろう。古代、狼は大口真神(おおぐちのまがみ)と呼ばれる神だった。肉食の猛獣として、ニホンオオカミは人里に現れることも多く、そのどう猛さ、荒々しさを人間は畏れて神と見なした。単に怖がられていたのではなく、オオカミは日本では古くから作物を食い荒らす猪や鹿を退治する農耕の守護神と言う意味で崇拝されていた。この大口真神という名前が縮まって大神となり、オオカミと呼ばれるようになったのである。残念ながら、ニホンオオカミは1905年を最後に捕獲・目撃されておらず、絶滅した。
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古代の狼信仰の名残を伝える数少ない神社の1つに、愛媛県松山市にある木野山神社がある。 |
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社殿の内部には狛犬の代わりに狛狼の石像があり、狼のはく製まで置いてある。さらに、この社殿の地下にご神体を拝するための聖域がある。地元では、<憑き物落とし>で知られている神社だ。 |
秦大津父が神の化身として崇めたという狼の逸話は、稲荷信仰の源流に狼信仰があったことをにおわせるものである。稲荷大神とは、稲荷オオカミだったのではないか。稲荷神の使いとして狐が認知されるようになった平安時代以前は、同じくイヌ科の動物で、農耕の守護神だったオオカミが眷属としての地位を持っていたのではないかと考えられるのである。
いや、狐もオオカミも山の神として同じように認識されていた可能性を考えておく必要もある。彼らの生態は、秋が終わる頃に山に戻り、春の始まりと共に山から里に下りてきて、田畑に出没した。だから、彼らは田の神であり、山の神として見なされたのである。また、彼らは多産、安産の神としても崇められていた。彼らは冬に山にこもり、春になると子供をたくさん産む。こうした命のサイクルと農作物の豊作を願う気持ちがミックスされて、稲荷信仰に発展していったものと考えられる。
参考文献
大和岩雄 1993 「秦氏の研究」大和書房