稲荷信仰の本願

2009年に刊行された「イチから知りたい日本の神様2:稲荷大神」は、現在の伏見稲荷大社が実質的に監修した本であることは、以前のブログ記事で述べたとおりである。

私は、国家神道の時代は置いといて、戦後、神社本庁を中枢とする神道の標準化の以前に、各神社に太古から伝えられていた信仰を、その後も調べてきた。そのプロセスで、たまたま巡り会った1冊の本がある。

伏見稲荷大社が1951年(昭和26年)に公刊した「稲荷の信仰」がそれである。古書店で掘り出してきた一冊で、戦後まもなく編集されたものだが、そこには口伝なども取り入れた稲荷信仰の本質に関わる事柄が一般の人向けに平易な文体で書かれている。(旧漢字、旧仮名遣いだけど)

これを読んでみて、改めて稲荷信仰とはどのようなものなのかについて再確認できたので、そのエッセンスを要約してみようと思う。

章立ては、

第1章・・・みたまとあらたま

第2章・・・御神号の由来

第3章・・・福の信仰

第4章・・・はつうまとおひたき

第5章・・・お塚の信仰

第6章・・・稲荷勧請の事

第7章・・・命婦御眷属の信仰

第8章・・・稲荷本地仏の信仰

第9章・・・稲荷信仰の本願

となっており、神仏習合時代の稲荷信仰にも詳しく触れているのが特徴である。「イチから・・・」シリーズと重複する内容はカットするとして、この本には格調の高い言葉で信仰とは何かを考えさせられるような内容が綴られていた。

私は本を読むとき、一番最後のページから読むクセがあるので、最後から最初までを読んでいったわけであるが、結論に該当するのは第9章であり、そこに書かれていることこそが稲荷信仰の本質だと得心がいった。

以下に要約を述べることにする。

祈願と感謝

①人間の持つ感情の中で、祈願と感謝は、そのもっとも純粋な精神であり、それは絶対的な神の無限な生命力に対する信仰からわき出る感情である。

②現実を単なる現象として見るにとどまらずに、その中に神の大いなる無限の恩恵を感受するときには、その根源となるものを信頼しようとする心が生じる。

③上記を自覚することが信仰の第一歩である。

④あらゆる事象を神の証示、霊験、賜物、福とする信仰に立つ者にとっては、生活環境が生き生きしたものに感じられてくる。古来、稲荷詣を「福参り」と呼んだのは、このような信仰に生きる者の歓喜の声だった。

⑤この天地自然の中から神の恩恵を見いだすことは元々人間の心の持ち方によるものである。

⑥信仰の体験を日々の実践の中で豊かなものにするにつれて、生活環境がみな神の恵みとなって蘇生する。

⑦これに対し、生活の空虚を愚痴る人は人生に対する熱情の乏しさを告白しているのと同じである。

⑧全自然の創造力をもって神の霊的活動と、それを感受する人間の心の持ちようによって、この人生のすべてが神に対する信頼に変化する。

⑨この信仰の仕方は、決して権力者にすがるような依存心ではなくて、神を信頼する個人の積極的な精神力である。

⑩それはかつて、中世の頃に人心に覆いかぶさっていた権力の宗教が、その教義として立てていたような、人間と対立した神の観念ではなく、神と人間が「一と多」の関係で大きく調和している状態を意味する。一がなければ多も存在せず、多がなければ一もまた存在し得ないのである。このように、神と人間との関係は相互関係である。

⑪このように、神と人間との関係を有機的な組織(細胞組織にたとえることもできる)として確信するとき、人間はここに大きな回心を起こすことになる。それが第二段階の信仰へと発展していく。それは心の大転換である。

現代の日本人が忘れてしまった「精神力」=精神的支柱の問題にも言及しているし、日常や俗の中に聖を見いだすことの重要性、実践と体験の重視、そしていわゆるスピ感(スピリチュアルな感受性)の問題にも言及している。

古い本だが、その古さを現代的に読み替えてみても十分に通用するメッセージがこもっている一冊である。


引き続き「稲荷の信仰」を参考にしながら、その要点を紹介していこう。前述したように、神に対する信頼と心の転換(回心)が祈願と感謝の前提条件となる宗教的心情であることは述べた。さらに、論を進めていくと次のようなポイントが指摘されている。

心構え

このような心の持ち方は、いつでも誰にでもできる事で、むしろ人間の本性なのだが、多くの場合、自覚がない。

①この気持ち(祈願と感謝)は自我の内的欲求と外界からの刺激、環境の変化によって様々な働きを起こす。その内容は複雑で希望、欲求、尊崇、讃仰、讃美、崇拝、反省、告白、悔悟、懺悔など様々である。しかし、これらの感情の終極するところは、人間が生きるための心構えなのである。

②いわば、神の恵みを受容する気持ちを明確にすることであり、そこには必ず感謝の心が伴ってくる。この感謝の心の中に、あらゆる人間的感謝を融和していくところに「真の祈願」のあり方がある。

祈願の本質

①元来、自我・生命の拡充という祈願の精神は人間の持つ本性である。

②この世界に自己が実在することを自らがはっきりと信じる事が肝要である。

③このとき、初めて希望や努力の気が起こり、また生き甲斐も湧いてくる。

④人類の進歩も文化の向上もこの精神力に基づくものである。

以上のことから、祈願は人間の精神にいつもみずみずしい活力を与える創造の泉となる。

⑤人間の祈願がもっとも純粋に高められるときは「生が抹殺されようとするとき」にやってくる。すなわち、人間、自分が生存の危機的な状況に陥ると神の存在が意識されるようになる。のっぴきならない状態にまで追い詰められた人間は、他の欲求は消え失せて、ただ「生きる望み」だけが残る。

⑥つまり、それは「宇宙生命」に直面するからである。この本源の生命に没入する機会を得ると言うことが、最も大切な宗教的体験なのである。

このような体験は、修行の過程での限界状況で体験されることもあるし、人生の危機に直面して絶体絶命にまで追い詰められたときにも生じる。さらには、医療・保健分野との関連で言えば、終末期に至った人々の「生きる意味と目的」、「希望」の問題にも通じる。

祈願と感謝の関係

⑦要するに、祈願は神と人との親しい交感であり、心霊の達しうるもっとも神秘的な体験である。

⑧しかも、この体験には常に感謝の情が伴う。感謝の心なしではいかなる祈願もその純粋さを保つことはできない。

⑨いわば、感謝の情は、祈願という精神の泉を常に清らかに保つための浄化作用である。それは常に祈願の裏づけになるものである。

⑩神道の祝詞の精神は、元々は、この祈願と感謝の気持ちを、ごく素直に表現したものである。

⑪感謝の心というものは、無理矢理に、あるいは努力して生じるものではなく、人間が古来より持っていた自然な感情であり、恩恵を感じるときに自然に発生するものである。その究極が「生命の源泉」に還ろうとする感情であり、神秘的なもの、高貴なもの、根源なるものを求めようとする精神作用である。

ここまでの結論

「生きる力」は祈願によって強められると同時に、感謝によって清められる。この2つの精神作用は生活上のあらゆる実践の原動力となる。祈願と感謝が相互作用しながら信仰の熱情は高まり、清まる。稲荷の信仰、特に<願詣>(願掛け)は、この心の持ち方によって生きてくる。

私たちが素直に自分の身に感謝するのは、父母を通して遠い祖先への敬愛となるものである。生活できることに私たちが感謝するのは「社会奉仕」となり、また「人類博愛」の源流となる。それらが収束する先は、全自然の恵みに対する感謝の心に他ならない。

初詣などで、「クレクレ念」を飛ばすのが、この不況時の「苦しいときの神頼み」の心理であるが、いくらお賽銭を投げて「クレクレ」と「祈願」したところで何の効果もない。祈願の基底に上記のような身近な他者、遠い祖先、社会への奉仕精神、人類愛、自然や宇宙からの恵みに対する感謝の気持ちが伴っていないからである。

また、「生きていてよかった」と感じる経験は誰にでもあるだろうが、それが上記の感謝の気持ちにつながっていかないと、一瞬だけのピーク体験で終わる。

自戒の意味も込めて、自分の心構えを常時モニタリングするように日々の実践を行っていきたいものである。


ここまで人間の持つ様々な意欲、願望は感謝の心によって浄化されるという事を述べた。そして、ただの祈願だけでは何も効果がないとも述べた。

感謝の心を持つことによって「慈愛」、「反省」、「謙譲」の徳を積み、自己浄化が生じるというプロセスがそこにはある。

引き続き、「稲荷の信仰」の要点をまとめたものを披露することにしよう。

努力と親和

①祈願と感謝の精神力は、日常生活の上に、生き生きとして働く「実践道」を展開させる原動力となる。すなわち、祈願は努力を産み、感謝は親和の情をわき出させる。この信仰と実践が結合することによって、、創造と希望にあふれた実生活が現れてくるのである。

②本来、人間の労働や努力は自分の欲望の充足のみを目的とするものではない。それは、個人の喜びよりも一家の団らんへ、さらには社会生活の喜びを共にすることを目的とするものである。

③それゆえ、蓄財、貯蓄は「生活の手段」に過ぎないもので、決して目的とするものではない。

④たとえば、商売は「世間様」への奉仕が目的であり、売り手と買い手が共に喜び合うことに妙味がある。

①古来、「道」と呼ばれる概念は人間が努力する心構えを指す言葉であり、社会生活に障害を与えるような行為を「道を外れる」と呼んだ。

②つまり、人の努力する心がけというものは、何事につけても万物を育て、養う思いを為すことである。この思いを積極的に推し進めていくと「道」の入り口にたどり着く。

③それは、働く人も、読書する人も、また宗教の道を歩む人でも皆同じである。深くその仕事に入り込んでいくと、日々の務めが「道」そのものになっていく。あらゆる努力が「道」の上に続けられ、累積されていくとき、人類は大きな文化の業績を築き上げることができる。

福を得ること

①努力の「努」の文字は、「女性の股の力」という意味からきている。それは、女性が生来、その天分として備えている「産みの力」を表現したものであった。

②人間の努力も何かを生み出す力となり、それは無限の力にもなる。

③「稲荷の鳥居を越える」という諺は、霊孤の神通力を言うものとなっているが、実は人間に対する教訓である。

④それは、智恵のある人といえども、努力と体験を積まなければ、一生ろくな仕事はできないことを教えるものである。

⑤それゆえ、「福」は神から頂戴するものではなく、働く努力によって「獲得」されるものである。

親和

①努力にはつねに親和の感情がその裏付けになるべきものである。

②親和の心は、感謝の情を伴うときに発生する。

③それは父母へ、きょうだいへ、隣人へ、社会へ、国家へ、ひいては人類に、さらにまた「大自然」に調和していく心である。

④自然を敬う心、物を大事にする心がけ、分かち合う心、隣人愛、相互敬愛、個性の尊重などの情操は、感謝の心から流れ出た親和という人間的な感情である。

⑤人間の努力は、常に人と共にあるという意識の中で行われるものである。さらに、人間にとどまらずに、あらゆる事象の中にある根本理法である。

⑥たとえば、一粒の稲種の死は、次に巡ってくる豊かな稲穂を実らせる機縁であるように、人の世の福祉も、地上の平和も、みな人々の犠牲的な努力の上に築かれているのである。個人の幸福といえども、「全体」の中から離れて存在しうるものではない。この因縁(縁起)の理法は万物に適用されるものである。

結語

①古来、稲荷五社大明神の中には、万有生命の根源の御魂を象徴する宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)あるいは倉稲魂尊(うがのみたまのみこと)を主神として、これに男神と女神とが並び祀られている。それは佐田彦大神と大宮能売大神という民族神である。

②田の力=努力を意味する「男」の文字が示すように、男性は努力を持って本性とする。これに対し、女性の徳は親和である。

③この男性原理と女性原理の2つがそれぞれに特徴を発揮しながら調和を保っていくところに一家の繁栄があり、社会の平穏と進歩がある。さらに、人間界だけではなく、森羅万象の世界から、宇宙天体の現象まで共通する理法である。

④万有の源である神の恵みは無限に尽きることのない生命の泉である。私たちは、これを願い、かつ頼みとしてこそ、あらゆる努力が展開される。そこに初めて、希望がわき、感謝に満たされる。

⑤稲荷信仰の根源力とは・・・

・天には光
・地には実り
・人には望み
・世には睦み

それが合わさって世の親和が現れるというものである。この福に対する信仰の共感において、人類はあらゆる対立や障害を乗り越えることができる。

『大神のみひかりのもとに、輝く希望を抱きつつ、祈願と感謝の信仰を持って、努力と親和の生活を営むことこそ、人間として真に生きる道であります』pp.140

以上が要約である。稲荷信仰の最終的な目標とは何かが明確に述べられている。やれ、狐が憑くだの、災いを為すだの、動物を崇拝しているだの、というレベルの話はひとかけらもない。

元は穀霊神であり、農耕神であった稲荷大神への信仰は、今では生業、産業の神として認識されているが、感謝なき祈願は意味がない、努力なくして福は得られない、身近なところから親和の情を起こして意識を自然、地球、宇宙にまで拡張していくことが稲荷信仰の本願である。

スピリチュアリティの観点から見ても、相矛盾するような記述はなく、稲荷大神に限らず普遍的な人間の良い有様(Well-Being)が、そこには説かれている。私たちは、その良い有様を実現していくことを、いつの間にか忘れてしまっているのではないだろうか?

(完)