稲荷祭
伏見稲荷大社の祭の中でも、稲荷祭、すなわち神幸祭と還幸祭は大きな祭として知られている。太陽暦下の現在では、神幸祭は4月下旬の最初の日曜日、還幸祭は5月3日に定められている。平成14年度の稲荷祭は4月21日、5月3日である。
![]() |
平成14年5月3日、還幸祭の様子 |
神幸祭のときには、神輿が本社を出て伏見街道を北上し、洛中に入り、七条通を西に、醒ヶ井通を南に巡幸し、八条堀川近くの御旅所に座を移す。その後、還幸祭の日までは、御旅所にて氏子たちの参詣を受ける。
還幸祭のときには、御旅所を出発した神輿は、御旅所前通りを西に、大宮九条をさらに西に、東寺(教王護国寺)二王門から寺内に入り、八幡宮前に到着する。東寺側がそこで神輿に御供をいたし、それから神輿は二王門を出て九条通を東に、大宮通を北に、松原通を東に、寺町通を南に、五条通を東に、伏見街道を南行して本社へ帰座する。
| 昔は御輿を人力で担いだそうだが、現在はトラックを利用している。 | |
| ご神体の到着を待つ神職たち | |
| 「オー」という神職の声(警蹕【けいひつ】)と共に、ご神体を入れた木箱が素早く覆いの中に隠されてご神殿に入っていく。警蹕【けいひつ】とは、そもそも神さまがお出になるときや膳を供える時に声を発して先を払う(前のものを取り除き清める)ことであり、神が降り立ったことを示す合図である。 |
神輿は田中社、上の社(一の峰)、下の社(三の峰)、中の社(二の峰)、四之大神の順に5基が順に本殿前に移動してくる。
稲荷神はその社域を伏見稲荷だけにもつのではなく、東寺の近くに御旅所という「出張所」ももっており、年に一度神輿が巡幸をするという特徴を持っているのである。
稲荷祭は貞観年中(859−876)に始まり、天暦年間(947−957)以後、恒例化したという。その性格は、1つには5世紀頃に京都盆地に定住した渡来系氏族秦氏の御霊を鎮め、たたりを祓う御霊会としての意味合いがある。稲荷神はそもそも秦氏の私的な信仰から始まっている。彼らは当時辺境の地とされる京都盆地の一角を定住地として与えられ、高度な土木技術を駆使して治水工事をやり遂げ、やがて豊かな地に変えていった。しかし、平安遷都に伴って、土地を没収され、政治的にもほとんど報いられることもなかった。平安貴族、藤原氏から見れば、秦氏の恨み、呪いの思いが怨霊となって、自分たちに祟りをなすのではないか、と恐れる気持ちもあっただろう。そういうタマ鎮めの意味で稲荷祭が行われるようになった可能性がある。中世、室町時代には稲荷祭にも祇園祭と同じように、山鉾巡行があったそうである。
稲荷祭のもう1つの性格は、少なくとも平安年間に真言密教と稲荷神との密接な関係が確立されたことに基づいている。今でも稲荷神は東寺の守護神である。
| 教王護国寺(東寺)の五重塔 | |
| 教王護国寺境内の八島宮 | ![]() |
![]() |
現在の伏見稲荷大社御旅所 教王護国寺の北東にある |
『廿二社本縁』によれば、空海が東寺にいたときに、二王門で年老いた翁・媼が多くの男子のお供をつれて稲を担って休んでいるのを空海の弟子である実恵が見て、これはただごとではないと思い、空海に知らせた。そこで、空海は彼らを招いて中門で話を交わした。どこへ行かれるのかと空海がたずねると、比叡山にいる最澄が守護せよと言ってわれらを招いたからであると答えた。空海は、最澄には日吉神が鎮守としてあるので、東寺の仏法を守護していただきたい、と申し入れた。そして、空海は一行を案内して、現在の伏見稲荷の境内を選んで鎮座し、以後東寺の守護神となったという。
また、東寺に伝わる『稲荷大明神流記』にはつぎのような伝説も出てくる。
『弘仁7年(816年)空海は紀州,田辺で稲荷神の化身である異相の老翁に出会った。身長約2メートル40センチ(8尺),骨高く筋太くして,内に大權の気を含み,外に凡夫の相を現していた。翁は空海に会えたことを喜んで言うには「自分は神であり,汝には威徳がある。今まさに悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者になったからには、私の教えを受ける気はないか。」空海はこう述べた。「(中国の)霊山において、あなたを拝んでお会いしたときに交わした誓約を忘れることはできません。生の形は違っていても心は同じです。私には密教を日本に伝え隆盛させたいという願いがあります。神様には仏法の擁護をお願い申し上げます。京の九条に東寺という寺があります。ここで国家を鎮護するために密教を興すつもりです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください。」と仲むつまじく語らい会って、神の化身と空海は盟約を結んだ。
弘仁14年(823年)正月19日。空海は天皇より東寺を賜り、真言の道場とした。同年4月13日。紀州で出会った神の化身が稲を担ぎ、椙の葉を持って、2人の婦人と2人の子供を伴って東寺の南門に再びやって来た。空海は大喜びして一行をもてなした。心より敬いながら、神の化身に飯をお供えし、菓子を献じた。その後しばらくの間、一行は八条二階の柴守の家に寄宿したが、その間空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に17日の間祈りを捧げて神に鎮座していただいた。これが今の稲荷社(伏見稲荷)である。また、八条の二階堂は今の御旅所である。空海は神輿を作って伏見稲荷、東寺、御旅所をかかせて回らせたのである。』
このように、最初は秦氏の私的な信仰として始まった稲荷信仰は、真言密教とのつながりによって広く普及していったものと考えられる。
参考文献:山折哲雄(編)1999 稲荷信仰事典 戎光祥出版