意識学から見た稲荷信仰  


 日本の神社,祠の中で一番多く祀られているのが稲荷神である。稲荷社の数は全国で3万という数が上がっているが,実際は小さな祠や屋敷神もあるので,その数倍の数はあるだろう。五穀豊穣,商売繁盛など現世利益に通じる霊験もあらたかと言うことで庶民にとってはとても身近な神でもある。
稲荷の神のイメージ(古図)

私の亡父の故郷,兵庫県朝来郡和田山町にある父の生家の正面には樹齢数百年というご神木が立っており,ご神木のそばには水神である龍神を祀る祠と,農耕神としての稲荷社があり,先祖代々稲荷神と龍神を崇拝していた様子がうかがえた。かつては私の家と他の二家が共同でこの社の管理を任されていたそうである。おそらくは毎日の農作業の始業と終業時に私の先祖たちはその社に朝な夕なに礼拝をしていたのであろう。そう言う意味でも稲荷神に対しては個人的な思い入れがある。
 他方で稲荷神については稲荷=狐というステレオタイプがあり,昔から狐に化かされる,狐は祟りやすい,狐に取り憑かれる,といった俗信も普及していて,今でも稲荷を怖がったり,敬遠する人も多い。こうした「ダーティ稲荷」のイメージの背景にはどのような伝説があるのだろうか。
 そういう理由から,稲荷信仰に関する歴史学や宗教民俗学の諸文献をひもといているうちに,稲荷信仰の成立,発展,普及のプロセスはかなり複雑であり,神道,密教,陰陽道,修験道などの複数の霊的伝統が絡み合っていることがわかってきた。



神仏への意識学的アプローチ

 神話や伝説は誇張や歪曲も多く象徴化されていて,何がそもそもの事実的エピソ−ドなのか判然としない部分も多い。しかし,ユングの心理学の体系ではわれわれの意識の中には人類の歴史の中で経験されてきたさまざまな情動的要素が埋没していることを認めるのであり,こうした考古学的意識を発掘することで古の人々の意識体験を追体験することが可能になるかもしれない。
 また,超心理学とトランスパーソナル心理学を一括して「意識学」(あるいは変性意識学)と呼ぶならば,こうした信仰の普及に当たっては各種の修行者が得たサイキックあるいは霊的な意識体験がコアになっている側面もあり,逆を言えばシャーマニックな体験抜きには神仏意識との交流,感得はありえない。
宗教はまず原始的な宗教的心性,ヌミノーゼ,神秘体験といった「アナザー・リアリティの体験」が根幹にあって,その後で教義の整理や合理化が試みられていく中で成立していくものである。神話的なエピソードの中にも,後世の改ざんや歪曲はあるものの、神仏意識とのアクセスを達成した者の,圧倒的で強烈なサイキック&スピリチュアル体験が「背景画像」として埋め込まれているのだ,と私は見る。
 宗教哲学者の鎌田東二(2000)の著書「神道とは何か」(PHP新書)によれば,江戸期の国学者の一人である平田篤胤は古事記や日本書紀,祝詞を中核としつつも外国の思想,諸伝説,諸神話との比較考察を行いながら古代神話の原型を復元しようと試みた。また,平田篤胤は7歳のときに天狗にさらわれて「天狗界」に出入りしていたと主張する当時15歳の仙童,寅吉から聞き取り調査を行って「仙境異聞」という書物を著したり,幼少時から「前世の記憶」をもっていると主張する勝五郎という少年から聞き取り調査を行って「勝五郎再生記聞」を記し,さらにはしばしば妖怪に襲われると主張する稲生平太郎という少年の物語「稲生物怪録」をまとめたりしている。平田篤胤は天狗,転生,妖怪などの研究が,日本の神々の真相と諸相を解明するための重要な接近法の1つと考えていた。
 平田篤胤の仕事は日本における心霊研究(Psychical Research)の萌芽とでもいえるものであり,その後のわが国における霊学,心霊科学へと受け継がれていった。
 このようなアプローチは現代の意識&リアリティ研究においても有効性を持っているのではないかと私は考える。社会システムから異界や神話が排除され,無味乾燥なフラットランドと化している現代日本においても,古代から綿々と受け継がれてきた神話的世界に容易に入り込むことのできる人々も残っている。それを幻覚や妄想の名のもとに簡単に切り捨ててしまう近代合理主義的発想の方が病的ですらある。
以下に、稲荷信仰にまつわる神話や伝説を交えながら検討を行うが、これをただの「お話」として読み流してしまうのではなく、その中に「真実の断片」が紛れ込んでいるのだという目で読んでみると、意外な展開が見えてくるかもしれない。
たとえば、空海は若いころに山林修行に入り込んでおり、そこで修験や雑密の意識変容法をマスターしているはずである。当然ながら、さまざまな神仏意識(アストラル次元の非人称的意識場)との感応も数多く体験しているはずで、彼の見聞した異界のイメージ体験が伝説として後世に伝えられている可能性はある。



稲荷信仰と密教

 さて,稲荷信仰に話を戻すが,結論から先に述べると,稲荷と密教は連動して普及していったと考えるのが妥当であろう。真言系の東密,天台系の台密が日本における2大メジャー密教として平安時代から確立されているが,それぞれの宗祖空海,最澄以前にも密教的な断片的知識は輸入されていてこれを雑密と呼ぶ。
 これら密教の流れと絡み合うように修験道も稲荷信仰と密接な関係を持っている。修験道は日本古来の自然崇拝(特に山岳信仰)や原神道に雑密が加わり,さらに天台修験(三井寺系;熊野信仰)や真言修験(醍醐寺系)の系譜にも取り入れられていって,独自の発展を遂げた神仏習合のフュージョン宗教であるが,これには飯綱信仰や荼吉尼信仰との関連も認められる。
 稲荷信仰の大きな特色は何と言っても稲荷大神の使いとして狐が出てくることにある。稲荷神を狐だと思いこみ,狐を神だと誤解している人も意外に多いが,ここで登場する狐は稲荷大伸の「神使」,「眷属」であり,神とシャーマンの間に介在して託宣をもたらす霊的存在,いわば霊的メッセンジャーであって,神そのものではない。
 眷属にも実際さまざまな狐(シャーマンにビジョンやイメージをもたらす非人称的意識場;これが実体を伴うと認識された場合「動物霊」と呼ばれることになる)が存在する。天狐,地狐,空狐,玄狐,白狐,赤狐,野狐などの霊格があり,霊格の高い狐になると的確で妥当な託宣をもたらすが,野狐レベルの非人称的意識場とアクセスすると憑いた憑かれたの大騒ぎとなり,自滅に導かれる危険性も伴う。

 霊狐が稲荷神の使いになった経緯は東寺に伝わる「稲荷大明神流記」に「命婦事」として次のようなエピソードが記されている。

命婦事・・・
『昔,平安京の北,船岡山の辺りに年老いた夫婦の狐がいた。夫は,銀の針を並べたかのような白く美しい毛並みを持ち,尾は密教で用いる五鈷杵(ごこしょ)をはさんだような形をしていた。妻は鹿の首に,狐の体を持っていた。夫婦には五匹の子供があり,子供たちもまた各々が不思議な姿をしていた。さて,弘仁年中(810-824)の事。夫婦狐は子供たちを連れて稲荷山に行き,神前にひざまずいて,こう言った。「私たちは,このような獣の身ではありますが,生まれながらに霊智を備えています。世の中を守護し,人の役に立ちたいと願うのですが,この姿では思うようになりません。願わくばお社の眷属となり,御神威をお借りして,この誓願を果たしたいのです。」これを聞き,いたく感動した稲荷明神は喜んで願いを聞き届け,夫の狐は上の宮,妻の狐は下の宮に仕えることとなった。こうして各々十種の誓約を立て。あらゆる願を叶える力を得た夫婦狐は,稲荷社を信ずる人々の前に直接,あるいは夢の中にその姿を現してこれを導くようになり,やがて「告狐」(つげぎつね)と呼ばれるようになった。』(山折哲雄,1999「稲荷信仰事典」,戎光祥出版)

 動物としての狐は春になると山から里へ降りてきて,秋になると山へ帰っていくという生態周期を持っているようで,これが農作業の周期と一致するため,田の神,稲の神のイメージと結びついたと考える説もある。稲を植える時期になるとしばしば狐の姿を目撃するという経験が稲の神の使いと見なされるようになった原因だ,というわけである。
 一方,宗教戦略上の観点からは,伴信友(1773-1846)の「験の杉」(1835)にあるように,空海を始めとする密教僧が古来からの稲荷信仰に荼吉尼信仰を附会した結果,稲荷と狐が関連づけられたという説もある。荼吉尼天の別号は白晨狐王菩薩といい,巨大な白狐にまたがった女神の姿として表現されることがある。伴信友によれば,空海がこの荼吉尼法を行って狐神を稲荷と称して勧請したのが「稲荷=狐」図式の始まりと推断する。これについては,空海にすべての原因を押しつけようとする強引な論法があるものの,狐落としの祝詞・真言が神道ではなく東寺系の文書に見られることから,少なくとも密教の影響を否定できない。

 真言密教と稲荷神との密接な関係については,現代でも伏見稲荷大社から神輿が繰り出して東寺(教王護国寺)に向かい,東寺境内にある八幡宮の前で供物を受けて,その丑寅の方角(北東)にある伏見稲荷大社御旅所に到着するという稲荷祭りの存在を見ても歴然としている。今でも稲荷神は東寺の守護神なのである。
この点について、東寺に伝わる「稲荷大明神流記」に真言密教と稲荷神との関係を如実に表す伝説が記述されているので要約を掲げておこう。

『弘仁7年(816年)空海は紀州,田辺で稲荷神の化身である異相の老翁に出会った。身長約2メートル40センチ(8尺),骨高く筋太くして,内に大權の気を含み,外に凡夫の相を現していた。翁は空海に会えたことを喜んで言うには「自分は神であり,汝には威徳がある。今まさに悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者になったからには、私の教えを受ける気
はないか。」空海はこう述べた。「(中国の)霊山において、あなたを拝んでお会いしたときに交わした誓約を忘れることはできません。生の形は違っていても心は同じです。私には密教を日本に伝え隆盛させたいという願いがあります。神様には仏法の擁護をお願い申し上げます。京の九条に東寺という寺があります。ここで国家を鎮護するために密教を興すつもりです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください。」と仲むつまじく語らい会って、神の化身と空海は盟約を結んだ。
弘仁14年(823年)正月19日。空海は天皇より東寺を賜り、真言の道場とした。同年4月13日。紀州で出会った神の化身が稲を担ぎ、椙の葉を持って、2人の婦人と2人の子供を伴って東寺の南門に再びやって来た。空海は大喜びして一行をもてなした。心より敬いながら、神の化身に飯をお供えし、菓子を献じた。その後しばらくの間、一行は八条二階の柴守の家に寄宿したが、その間空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に17日の間祈りを捧げて神に鎮座していただいた。これが今の稲荷社(伏見稲荷)である。また、八条の二階堂は今の御旅所である。空海は神輿を作って伏見稲荷、東寺、御旅所をかかせて回らせたのである。』
稲束を背負った老翁の稲荷イメージ(古図)

この伝説を空海らの密教勢力と秦(苛田)氏らの神道勢力の政治的利害関係の一致を象徴するエピソードと理解するのは歴史学的見解であろうし、それはそれとして妥当な面もある。しかし、意識学的観点からは、空海は最初に中国に留学していたときに稲荷神の化身(アストラル・イメージ)と対面しており、次が紀州田辺、最後が東寺の南門で再会を果たしていることになる。老翁の姿というくだりには固執する必要はない。なぜなら、神仏意識はそれを感得する人の心理状態、アストラル・レベルによって如何様にも変化するためである。神仏意識の表現形態は知覚者の状態によって同じ意識場に感応しても全く異なる。自らがそう信じるような形で神仏意識は姿を現すのである。

龍頭太事・・・

『龍頭太は和銅年中より以来、すでに100年に及ぶまで、稲荷山山麓に庵を結んで、昼は田を耕し、夜は薪をこることを生業としている。その顔は龍のようである。顔の上に光があって、夜を照らすと昼のように明るくなるので、人はこれを龍頭太と呼ぶようになった。その姓を荷田氏(になだし)という。稲を担っているためである。弘仁年間のころより、弘法大師が稲荷山で難行苦行をしている
と、その翁がやって来てこう言った。自分はここにいる山の神である。仏法を護持する誓願がある。と』

 この伝説も前出の「稲荷大明神流記」に出てくる話であるが、ここでは稲荷神は龍の顔をした翁として空海の前に現れている。意識学的に推理すると稲荷山で修行中の空海が「山の神」と感応したことを象徴している。実際、稲荷山はいくつもの滝がある行場で、水神=龍のイメージにもつながりやすい。また、伝説から田の神、稲の神としての性質も龍頭太はもっており、少なくとも奈良時代には、すでに農耕神としての稲荷神のアストラル・イメージは確定していたものと推察される。



聖地:稲荷山



聖地:伏見稲荷山の一の峰上ノ社


 現在の京都市伏見区に伏見稲荷大社があることはみなさんもよくご存じだろう。伏見稲荷大社は稲荷山と呼ばれる東山連山の1つを中心に,現在は神道の神殿と無数の祠から構成されている稲荷信仰の総本宮である。明治期の廃仏毀釈までは稲荷本願所愛染寺という真言系の寺院も建っており,神仏両方の稲荷の聖地でもあった。
 仏教系の本願所が稲荷山に成立したのは記録上は応仁の乱以後、15世紀後半の頃であり、17世紀(江戸期)以後確立された。本願所愛染寺の住職天阿上人(1598-1674)は真言密教にしたがって神仏習合的な稲荷の行法を体系化していった人物である。天阿上人は中世から近世にかけて流行した稲荷神の使いとしての狐=眷属信仰に深く関与している。愛染寺では狐落としの祈祷を行ったり、稲荷系シャーマンの養成も行っていた。
 さて、天阿が著した「稲荷一流大事」には当時の仏教的稲荷=荼吉尼天の修法が記述されている。その一部(パラトラパ雅製簡略版)を掲げておく。興味のある方は実際にこの修法を試してみられてもよい。が、一定の霊的感受性と神仏意識に対する畏敬の念がなければ、何の効果もないどころか、下手するとアストラル界の「パンドラの箱」を開いてしまって収拾がつかなくなる。いつも言うように,面白半分でのお試しは厳禁である。

まず、供物・・・赤飯,餅,酒,真菓子,油物

大日如来真言
オン・バ・サラ・ダ・ド・バン 七難即滅
オン・ア・ビ・ラ・ウン・ケン 七福即生

合掌印 ダキニ本尊真言
オン・ギヤク・ソワカ
ダキニ・ギヤテイ・ギヤ・カ・ネイエイ・ソワカ
(十万返,千返,百返,百三十五返 唱える)

千早ぶる 稲荷の宮のしるしには 我思うこと満つの社に
千早ぶる 豊のみ前に とのいして
我思うこと神も応えよ
遠けれど 召せばぞまいる召し給え 富草もたべ 家つとにせん

最後に稲荷心経唱える

 稲荷心経(とうかしんぎょう)というのは般若心経の稲荷バージョンであり、これも愛染寺に伝わるお経である。嘘か誠かは知らないが、源頼朝、豊臣秀吉、徳川家康もこのお経を読んで天下人になったという前説が経本の巻頭に書いてあった。伏見稲荷大社境内の神具店にいけば経文を売っているので、今でも入手可である。神社でお経を売っているところがいかにもフュージョン的で趣がある。

 ところで、稲荷と仏教とのつながりは,空海の高弟,実慧(じちえ)が東寺(教王護国寺)造営の指揮を執ったころに始まる。平安初期の稲荷山にはすでに朝鮮からの渡来人,秦氏の祖霊,山神,穀霊の稲荷社が祀られていた。また,東寺の聖地としてすでにこの時代,山林修行者が多数入り込んでいた。稲荷山には20を数える滝があり,修行場として最適な条件も兼ね備えていた。今でも神道の禊ぎのための行場が稲荷山には設置されているが,年々ここで修行をする人は減っているように思われる。実慧は稲荷山から採材を行うため稲荷山の宗教事情に精通していたと考えられる。ここに稲荷神と仏教の荼吉尼天との習合が行われていった。
 稲荷山は修験者の聖地でもあった。たとえば,越前出身の行者,白山修験道の開祖,泰澄は奈良時代(8世紀)に稲荷山で修行し,本体観世音の女神を見た。(日本神仙伝,平安中期,大江匡房) 彼は養老3年に白山を開いた後,吉野山,稲荷社,阿蘇山で次々に奇跡を顕した。呪文によって石を飛ばしたり,その石を止めたり動かしたりといった物体飛行(サイコ・キネシス),自らも自由に飛行したり,一瞬の間に別の場所へ移動するといったテレポーテーションを得意としたと伝えられる。
 また,浄藏は稲荷山でも修行を行った。彼はある種の護法(童子)を使って修行を行った。(扶桑略記,寛平9年)修験の護法は陰陽道で言うところの式神のようなものであり,童子のビジョンで現れる。この童子を自由自在に使役して,加持祈祷,各種の奇跡を起こさせるのである。
 浄蔵の験力は人並みはずれたもので,急死した父親の文章博士三好清行の葬儀に出向いてお経を唱えると父親はたちどころに蘇生したというエピソードが知られている。もっと有名なのは,平将門の乱の鎮定のために940年浄蔵が比叡山延暦寺において大威徳法を修じていた時に,灯明に将門が弓矢を浴びているビジョンが参列者の眼前に映し出され,その瞬間に将門の乱が平定されたことを彼は感知した。
 いずれにしても,奈良平安時代の稲荷山は鞍馬山,愛宕山と並んで修験者の集結する霊場であり,東寺の密教僧の山林修行の実践現場としても利用されていたことは確かである。

ちなみに,私はこれまでに数度稲荷山に巡礼に行っているが,きわめて崇高で魂の底から揺さぶられるような意識場の存在を何度も体感している。心の平安、高揚、そのときどきで反応はいろいろだが、自分は一人ではなく、もっと大きな存在によって守られ、生かされていることを確信できるような反応が生じるのである。神威、神徳という言葉が身をもって感じられる場所が、私の場合稲荷山なのである。

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