私の古代史観

 基本的に日本は流民,移民の国である。大陸や半島での戦乱,国家崩壊のたびにどっと亡命者や難民が「ボートピープル」として流れてくるのは昔も今も同じである。さまざまな部族,氏族がそれぞれの信仰,文化をもって定住地を求めやってきた。彼らは西から東へと移動した。
 伊豫の国は古来より九州から近畿,近畿から九州への移動の中継地として機能してきた。古来より時の権力との結びつきが強い社会的風土もある。中でも、海人族(海の民)が水軍へつながる。代表的なのが村上水軍である。
 近年の考古学的発見により「定説」が揺らぎはじめ,日本の古代史は大きく塗り替えられようとしている。
 まず,縄文時代の様子からして知見が大きく変わってしまった。武光誠(1998)によれば,最近の日本の考古学的発見は以下のような点において,従来の学説を覆しつつあるという。

1.縄文時代の再認識 要点
A.縄文都市の存在 北海道函館市の中野B遺跡(B.C.6000−5500まで)で見つかった竪穴式住居の総数は約600棟。青森市三内丸山遺跡(B.C.3500−2000まで)では約500棟の竪穴式住居跡,そして高さ約20メートルの木製建造物(祭祀用?)の跡が発見される。縄文人は大規模集落を形成し,定住生活を送っていた。
B.縄文文化は南方にも紀元を持つ? 鹿児島県栫ノ原遺跡(B.C.10000頃)で大型丸木船を作るための丸ノミ石斧が発見される。
フィリピン⇒台湾⇒沖縄⇒九州へと海人族が流入して来た可能性を示唆。縄文人は単一ではなく,北方系(アイヌ民族の先祖?)と南方系がいる?
C.青銅器の使用 山形県三崎山A遺跡(B.C.1100−1000頃)で中国の殷王朝と同一形式の青銅製刀子が発掘される。殷の末期に日本海を経由した交易が行われていた。
D.縄文人は農耕栽培を行っていた 北海道臼尻B遺跡(B.C.2000)約300棟の住居跡から栽培されていたアワとヒエの種子が見つかる。中国起源のもの。

 これまでの常識では,縄文時代には狩猟や漁労が中心の生活であって,定住地点を持たず海岸や山野を放浪していたと考えられていた。農業も営むことなく,大規模な海上交通や陸上移動も行うことはできなかったと考えられていた。しかし,近年の縄文遺跡の発掘調査の結果は,これらを完全に覆してしまった。
 特に興味深いのは,東南アジアからの移動や中国大陸との交易を縄文時代の人間がしていたということである。すなわち,極東圏で人やモノの交流のネットワークが3000年以上も前からできていたのである。人やモノが交易を通じて移動していたということは,宗教や文化,社会制度の持ち込みもあったわけで,南方,北方,朝鮮半島,中国大陸からの人の出入りに伴って古代の日本は次第に組織化されていき,やがて部族国家→小王国→連合王国→統一王朝へと整えられていったものと考えられる。ムラ、クニという概念が歴史の教科書には出てくるが、クニといっても現代の国家のようなシステムではなく、拠点集落(ムラ)が都市国家の体裁を整えたのがクニのイメージである。弥生時代の都市国家は巨大な環濠集落であったが、中国の都市国家のような城壁に囲まれたものではなく、柵や濠で一応の境界線を築いた大きなムラという感じである。
 特に文明発祥地である中国大陸の動向は日本の国家形成に大きな影響を及ぼしたと思われる。黄河流域,長江流域から戦乱や国家滅亡のたびに亡命者や難民が日本列島に流れてきたことは確かである。縄文時代からそういう人的流入は続いてきたのである。

縄文から弥生へ
時代 伊豫 日本列島 朝鮮半島 中国大陸
-10000 愛媛県美川村の
上黒岩岩陰遺跡

縄文時代以前に,南方系のモンゴロイドが北に向かって移動を始め、長い年月の間にそれらが沖縄を含む日本列島に住みつき、日本列島全域で縄文文化を担うようになった。弥生から古墳時代になると、南方系や北方系のモンゴロイドが大挙渡来するようになり、その影響を強く受けて混血してきたのが和人、ほとんど影響を受けずにきたのがアイヌ人と琉球人であるという説がある。



文化と民族を区別して論じる必要があるかもしれない。

【遺跡】鹿児島県栫ノ原遺跡で大型丸木船を作るための丸ノミ石斧が発見される。東南アジア,フィリピン⇒台湾⇒沖縄⇒九州へと海の民が流入して来た可能性を示唆。

縄文人の流入ルート
  • 北方ルート
  • 日本海ルート
  • 朝鮮ルート
  • 東シナ海ルート
  • 沖縄ルート
  • 南方ルート
  • ミクロネシア・小笠原諸島ルート
-7000 初期水稲栽培,長江中流域で始まる。
-6000 【遺跡】北海道函館市の中野B遺跡(B.C.6000−5500まで)で見つかった竪穴式住居の総数は約600棟。
-5000 縄文文化大いに開花する
  • 大集落
  • 食用植物の栽培
  • 家畜飼育
  • 巨石記念物(ストーンサークル,磐座,ピラミッド状遺構)
  • 精霊信仰(アニミズム)
  • 土木建築
  • 土器製造技術
  • 天文観測技術
  • 造船技術
  • 遠洋航海術
黄河上・中流域に仰韶(ヤンシャオ)文化が展開。彩陶,灰陶の使用。粟,きびの栽培。豚の飼育。

長江下流域,河姆渡(カボト)文化が展開する。中国最古の稲作定住文化
高床式住居に住む。

河姆渡人は人の先祖

河姆渡人の信仰
1.神が天下るときの乗り物としてを信仰し,鳥形飾りを建物の棟の上に飾った。
2.葬制として,死者の頭を東の方角に向けて葬った。
3.女性の墓に副葬品が多い。・・・母系社会
4.東方海上の彼方に死後の安楽浄土があると信じた。
5.太陽に対する強烈な畏敬の念を持っていた。
⇒日本人とも共通する倭族の特徴
-4000 【遺跡】岡山県岡山市朝寝鼻貝塚で,稲の細胞化石が発見される。栽培種のジャポニカ米。

このころ,中国江南地方から既に稲作が伝わっていた。
-3500 【遺跡】青森市三内丸山遺跡(B.C.3500−2000まで)では約500棟の竪穴式住居跡,そして高さ約20メートルの木製建造物(祭祀用?)の跡が発見される。縄文人は大規模集落を形成し,定住生活を送っていた。
-3300 長江下流域,太湖の周辺を中心に良渚文化の存在。-2200まで続く。大地の神を信奉し,三種の神器を用いて祭祀する。人間を生贄に使う犠牲祭儀を行う。
-3000 寒冷化,海退期,地殻変動にともなって生活維持が困難になり,一部の縄文人が高度な航海技術を駆使して,南方に新天地を求めて移動を開始し始める。

ミクロネシア⇒メラネシア⇒ポリネシア⇒南米への大航海&移住始まる。・・・縄文文化の太平洋地域への伝播が生じる。
-2070 王朝成立
【夏王朝の伝説】
夏人は東南アジア系の先住民の出身で,南方から船に乗って,華中の長江,淮河を遡ってやってきた。
洛陽盆地に首都を置き,商業都市を築いて北方の狩猟民や遊牧民と交易をした。
夏人の祖先神を禹(ウ)という。禹は蛇身の水神,すなわちであった。
龍はインドシナ半島の住民の水神でもある。
-2000 【遺跡】-2000〜-1000
文京遺跡 縄文後期の集落跡
【遺跡】北海道臼尻B遺跡(-2000)約300棟の住居跡から栽培されていたアワとヒエの種子が見つかる。中国起源のもの。

縄文人が高度な航海技術をもっていたことから,中国や隣接地域との交流&交易を行っていたと考えるのは不合理ではない。
黄河中・下流域に竜山(ロンシャン)文化展開。黒陶,灰陶の使用。豚,牛,馬,羊,鶏の飼育。

-1600 殷(商),邑(ユウ)の連合体として華北を支配する

宗教:殷王の祖先を共通の父とする祖霊信仰。亀卜による神権政治。
-1300 19代殷王,商(安陽)に遷都する。青銅器文明,栄華を極める
-1100 【遺跡】山形県三崎山A遺跡(B.C.1100−1000頃)で中国の殷王朝と同一形式の青銅製刀子が発掘される。殷の末期に日本海を経由した交易が行われていた。
-1027 朝鮮半島に中国人進出する。
周の武王,殷王の親戚の箕子を朝鮮半島北部に封じる。⇒箕氏朝鮮のはじまり

箕子,朝鮮の民に礼儀,農業,養蚕,織物を教える。
西周建国。都を鎬京とし,封建制の国家を作る。
大陸の西から東へ進出し,渤海,黄海沿岸まで勢力圏に収める。

宗教:周王の祖先を共通の神とする信仰。

周と同姓の諸侯・・・燕,晋,ケイ,魯,曹,衛,カク,鄭,藤,蔡
周と異姓の諸侯・・・秦,申,許,杞,斉,キョ,チュ,薛,宋,陳,楚
-771 【伝説】
西周王家の者,九州に海路上陸す。
遊牧民犬戎が鎬京に侵入し,周王敗死。西周滅亡

-770 周の平王,洛邑に遷都し,東周を興す。-403まで春秋時代
-473 【推理】
呉の亡命者,難民,対馬,壱岐を経由して九州北部,唐津市付近に上陸し,稲作&定住をする。
プレ弥生文化倭人の第一起源
縄文人,倭人を先進的な文化人として受け入れ共存,同化。
呉人,半島中・南部に亡命する。 を滅ぼす。一気に北上して,山東半島の南側に遷都する。

越人は華南の海岸地帯,ベトナムにかけての海洋民族。身体に入れ墨をして,米と魚を常食とする。→弥生人との共通性
-403 列島では呉越同舟 周王,韓・魏・趙を諸侯と認める。
この頃,鉄製の犂(すき)を使い,牛耕が始まる。
-221まで戦国時代

伊予の縄文ビーナスと古代アンデス文明

上黒岩岩陰遺跡は愛媛県上浮穴郡美川村上黒岩1092番地に所在し、愛媛県松山市から高知県佐川町を経て高矢口市に至る国道33号線沿い,久万川の清流をはさみ道路の対岸にある。
 この地は四国の最高峰、石鎚山の西南麓の山地で,遺跡付近は標高約400メートルほどである。遺跡は東北面を高さ約20メートルの石灰岩の切り立つ断崖を背・負う,西南に開いた岩陰遺跡で、 1961年(昭36年)遺跡地のわきに住む中学生によって発見され、翌1962年(昭37年)から1970年(昭45年)まで、5回にわたる発堀調査がなされた。
  本道跡では遺跡地断面図に示すように第1 4層までの堆積層序を確認し、第T層から第\層まで,七つの文化層を確認している。 この遺跡は,各時代の人々が住居として利用するとともに,第W層の縄文文化早期中葉の人々は岩陰奥部を墓域として使用し、 10体以上の人骨が埋葬された状態で発見された。また人骨より居住地区に近く、二体の犬の埋葬骨も発見され、今から約8000年前と遠いわれわれの祖先が既に日本犬を飼っていたことがわかった。

愛媛県の上黒岩岩陰遺跡
この洞窟から人骨や動物の骨、生活や祭祀の道具などが出土した。
遺跡の近くには、御三戸神社という磐座信仰から発生した古社がある。

 発掘品の中で、最も注目を引いたものは、本遺跡の第9層から発掘された総計8個の、長径5センチ未満の偏平な緑泥片岩川原石で製作した線刻女性像(女神石)である。石には髪を伸ばした上半身裸,下半身は腰簑をつけた女性像が刻み込まれている。今日までに他遺跡からの類品はまったく未発見のもので,後期旧石器時代のヴィナス像、線刻動物像などとも関連ある日本最古の人物像であり、今後の考古学研究上に多くの研究課題を残す貴重な遺物である。
 カーボン14の放射能測定によって,今から約1 2 0 0 0年前という年代が算定された第9層からは、世界最古の土器の一つと考えられる細隆起線文土器、有舌先頭器、礫器などの人工遺物のほか,大型のニホンサルのしたあごなどの骨も発見されている。
 興味深いことに,これと酷似した石(土偶ならぬ岩偶)が南米エクアドルのバルディビア遺跡からも出土しているという事実である。バルディビア遺跡は紀元前3500年頃から人が定住し始め,紀元前3000年頃から縄文土器とデザインや製作方法がそっくりなバルディビア式土器が大量に作られ始めている。この土器文化はこの地域に忽然と現れ,周辺地域の遺跡からは同じ様式の土器はいまだに発見されていない。バルディビア式土器文化はその後紀元前1500年頃まで続き,この間に人体土偶や女神石も作られている。
 最近の考古学は縄文人が予想以上に高度の文化をもっていたことを明らかにしている。その1つが海人族としての高度な航海技術である。また,縄文人は世界最古の土器文明を誇っており,見方によっては縄文時代とは当時世界有数の先進文化が花開いた時代であったとも言える。
 『魏志倭人伝』には女王国である邪馬台国から南東に船で1年間すすんだ場所に「裸国」と「黒歯国」があるという記述が残されている。これについて研究者の中にはこれらのクニが南米にあったという説を唱えている人もいる。縄文から弥生にかけての海人族の大航海の経験が伝聞として倭人から中国人に伝わり,記録された可能性も指摘できるだろう。


縄文から弥生へ

 日本人のアイデンティティの起源を探る。日本人はどこからきたのか。われわれは何者なのか。縄文,弥生,古墳時代を中国,朝鮮,倭国(ヤマト)のアジア関係史として探求してみる。調べれば調べるほど深みにはまる倭の国の歴史である。
 弥生時代以降の日本人(倭人)は今から7000年前に長江下流域で栄えた河姆渡文化の後裔であろう。河姆渡文化
は中国最古の稲作定住文化である。河姆渡人は高床式住居に住んでおり,その後に続く倭人と共通する宗教的習俗を持っていた。

河姆渡人の信仰

1.神が天下るときの乗り物としてを信仰し,鳥形飾りを建物の棟の上に飾った。→鳥居の原型
2.葬制として,死者の頭を東の方角に向けて葬った。
3.女性の墓に副葬品が多い。・・・母系社会
4.東方海上の彼方に死後の安楽浄土があると信じた。
5.太陽に対する強烈な畏敬の念を持っていた。

河姆渡文化は良渚文化へと受け継がれる。これは紀元前3300年頃から2200年頃までまで続く。良渚人は大地の神を信奉し,三種の神器を用いて祭祀を行った。彼らの祭祀は人間の犠牲,すなわち生贄を捧げるものであった。
 日本人とも共通する倭族の特徴
強烈な太陽崇拝,稲作,高床式住居が倭人の特色であり,河姆渡人はその要素をすべて持ち合わせている。その流れを汲む呉人や越人が次々に移住し,列島は呉越同舟状態で弥生時代へ突入する。
 故国中国では国を違える部族が次々に列島に移住してきた。倭人たちは部族間の闘争,交易の利権争いに明け暮れながら,次第に国家としての体裁を整えるようになっていった。

水田稲作こそは縄文と弥生を分かつ農業技術である。水田稲作が日本に伝来してきた経路については,最近の考古学的知見により,中国の華中から朝鮮半島を経由して伝来したとする「半島ルート」がほぼ決定的であるといわれている。より具体的には,九州北部の玄界灘沿岸地域において,縄文時代晩期後半期(紀元前500-300)に発達した水田稲作が行われていたのは事実である。この時期,すでに北九州のみならず,近畿,山陽,南九州など西日本で水田稲作は広がりを見せていた。稲の刈り取りに使われる石包丁の形状や出土した炭化米のDNA分析より,稲作伝来は@山東半島から朝鮮半島中部西岸を経由,A長江下流域から黄海を越え,朝鮮半島南部西岸を経由,という2ルートが中心であると考えられている。

その担い手は渡来人であった。弥生人のルーツは基本的に渡来人である。最近の人類学的知見に依れば,縄文人から弥生人への遺伝学的形質変化は渡来人との混血による急激な変化であったと考えられている。

渡来系弥生人のタイプ

@北九州タイプ・・・長身で面長,華奢な体つき。→山東半島,朝鮮半島から中国東北地区起源
A西北九州タイプ・・・えらの張った彫りの深い顔立ち。→山東半島,朝鮮半島から長江流域起源

渡来系弥生人は最初は家族単位で数艘の船に乗り,数世代にわたって断続的に日本列島にやって来た。その背景には中国大陸での戦国時代の乱と流民の発生,それに連動する朝鮮半島での混乱がある。また,国境を越えて活躍した華僑(商人)の渡来も見逃せない。さらに,灌漑,土木,金属器製造技術を携えた人々が大陸や半島から渡来してきたものと考えられる。

井上満郎 1999 古代の日本と渡来人 明石書店 を参考に作図

弥生時代以降の朝鮮半島からの渡来のピーク(上田正昭説)

1.紀元前2世紀
2.西暦5世紀の前後
3.5世紀後半から6世紀の初め
4.7世紀後半



弥生から古墳へ
時代 伊豫 日本列島 朝鮮半島 中国大陸
-333 物部氏の後裔である越智(小知)氏は人。
【遺跡】松山市太山寺町の大渕遺跡で,縄文時代末期の稲作に関係する遺物が大量に出土する。伊豫では弥生文化が大陸からいち早く伝播している。越水軍との関係はいかに?
【推理】
越人の難民流入。
越人は物部氏の祖。
弥生文化を持ち込む
越人,列島の海岸部に拠点を築く。これが倭人の第二起源となる。
他方,日本先住民(縄文人),山の民となり,焼畑農業を営む。
倭人,次第に縄文人を支配するようになっていく。
燕領として「朝鮮」の名称が見える。 楚が越を滅ぼす。越人,四散
-300 列島各地に中国人の商業拠点が次々に築かれる。弥生文化が列島各地に普及する。
-284 燕,真番,朝鮮を支配する。 燕が斉を破る。燕の全盛時代
-221 遼東郡が朝鮮を支配する 始皇帝中国を統一 興る
-200 【遺跡】祝谷遺跡で弥生中期初頭の大規模環濠遺構発見。国内最大規模の環濠
-219 斉人徐福,童男童女数千人を従えて来航。日本に定住する。
【隋書】隋の使節が609年ヤマトに派遣されたときに中国人の秦王国を通る。
始皇帝,斉人の徐福(徐市)に命じて,三神山の仙人の国を探検させる。
-207 【推理】
秦氏,中国から半島へ
秦の滅亡。
-202 青銅器の伝来,宝器,祭器として使われる。 燕,朝鮮を放棄し後退。 前漢興る
-195 華僑(燕,斉の亡命者含む)と朝鮮先住民の連合王国樹立。すなわち,燕人,衛満が朝鮮王準を討ち,半島北部の箕氏朝鮮滅びる。衛満,平壤を都として衛氏朝鮮を興す。
準王,数千人を率いて海に逃げ,馬韓を攻めて韓王となる。中・南部の辰国を建てる。
燕王,匈奴に亡命する。遼東郡が漢に属す。
-108 中国商人,倭人との交易ネットワークを確立。人とモノの交流が活発化する。倭人の諸国(部族国家)が列島各地に勃興する。
中国流の都市文明の移植も行われ始める。
漢の武帝,北部朝鮮に楽浪四郡を置く

半島南部にも多数の中国人が殖民する。倭人との交易。
-100

祝谷遺跡で弥生土偶
 愛媛県埋蔵文化財調査センターは、弥生時代中期(紀元前100頃)の土偶の頭部が出土したことを明らかにした。見つかった土偶は高さ約7cm、幅約5.5cmあり、内部は空洞で首から下は破損している。鼻孔まで刻まれた精巧な表現の顔はやや上向きで、首飾りや、耳にピアスのような飾りをつけた痕も描かれている。頬から顎へのラインの繊細さや、顔に入れ墨がないことなどから女性の可能性が高い。同センターでは、土偶は縄文時代が中心で、弥生時代のものは全国でも数例しかなく、とりわけこれほど整った顔立ちのものは珍しいという。


【遺跡】B.C.1世紀末,島根県加茂岩倉遺跡・・・銅鐸が一挙に31個も出土。
-82 漢,朝鮮南部の真番郡を廃止する。半島北東部の臨屯郡も廃止。
楽浪郡の中国人,土着化して都市生活を営み,半島と列島に影響を与える。以後,半島の中国化進む。
-25 【漢書】倭人,分かれて百余国,楽浪郡に入貢するものあり。 高句麗,半島北部に。
半島南部の中国化。
紀元前後 【伝説】物部氏の一支族である物部阿佐理(モノノベアサリ)が現在の北条市に住み着いた。伊予・物部は,越智氏,河野氏へと続く水軍の流れだが,そもそもは海洋民の越人,稲作民族河姆渡人へルーツを求める事も可能。

新の貨幣,伊豫に。
このころ,日本最大の環濠集落,吉野ヶ里栄える。(弥生時代全般の中心的クニ)

第一の東遷】九州遠賀川流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が奴国との軋轢の中、より広い農耕地を求めて四国北岸を経て近畿地方へ移動を開始する。これを邪馬台国の建国と考える。以後約300年続く。

【推理】最近の考古学的発見により,邪馬台(ヤマト)国は畿内で成立したと考える方が合理的。同じ東遷説でも,「九州にあった邪馬台国」が東遷して大和朝廷になったのではなく,倭人の有力部族が大和地方に移動後,連合して邪馬台国を築き,それが大和朝廷へ発展していった。

【対立仮説】これに対し,邪馬台国を九州・宇佐を中心とした連合国家としてとらえ,近畿勢力とは別物と考える説もある。
8 島根県荒神谷遺跡・・・銅剣が一度に358本も出土する。次に,銅剣が発掘されたとこから少し離れた場所で、銅鐸銅矛が同時に出土し,従来の考古学の常識を覆す発見となる。一説によれば,この2つは主に農耕祭祀に使われていたと考えられ、銅剣・銅矛は悪霊を払うため、銅鐸はカミを呼ぶ「かね」であったと推論されている。
氏族ごとにカミを祀る。巫女,ト骨を媒体に神仏意識との交信を試みる。
興る
戦乱による食糧不足で,中国の人口6000万人から3000万人に半減する。
25 中国の国力衰退,緊縮財政政策により半島の自主的統治。独自文化の発展。 後漢興る
中国の人口さらに半減して1500万人に激減。
50 【遺跡】1世紀−2世紀 文京遺跡・古松山市
弥生時代の大集落跡・・・中国の漢王朝で造られた青銅製の鏡破片。朝鮮半島,中国北部からもたらされた鋳造鉄斧、板状鉄斧、鉄鏃、ヤリカンナなどの鉄器。中国大陸とのかかわりのある滑石製指輪など、多彩な文物が出土。

【遺跡】祝谷六丁場遺跡
日本で鋳造された平形銅剣出土。単独で地中に埋葬され,瀬戸内海沿岸で多数出土している。
出雲王国
57 北九州の倭人の族長,楽浪郡に使者を送り,貢を奉じる。漢委奴国王の名誉総領事称号の金印を光武帝より賜る。 中国の人口2100万人に回復。
67 仏教,中国に伝来する。
107 【後漢書】倭国が献使する。
倭国王,帥升らが奴隷160人を献じ,請見を願った。
中国政情不安。
人口5000万人台に。
142 張陵,天師道を創始する。中国道教の成立。
宗教秘密結社
146
150
168 張角,太平道を布教。
178 【梁書】倭国大乱。中国の影響力が薄れた結果。〜183まで
北九州の勢力滅び,大和地方の勢力が伸張する。政権の重心,大和地方へ移る。
半島中・南部,辰国が三韓に分立する。
馬韓・弁韓・辰韓
179 鬼道,中国で再び隆盛。
184 漢人(中国人)の難民,倭国にも流入する。

このころ,卑弥呼,邪馬台国(ヤマト連合王国)の女王に共立される。卑弥呼は鬼道を操る巫女(シャーマン)。
【推理】
中国人組織,ヤマトを支援する。中国系原始道教組織が活動し,卑弥呼の鬼道を組織化し,ヤマト連合王国を裏から取りまとめた。
楽浪郡の中国人が多数難民として半島に流れてくる。 黄巾の乱鬼道の軍勢と黄巾の賊が共同して反乱を起こす。
中国の中央政府,事実上の消滅。
188 張魯の教団,五斗米道(鬼道)の巫術により消災の祈祷,病気直しを行う。
宗教共和国
216年,張魯没す。
【福水神社由来記】神宮皇后が福水神社に立ち寄り,水を求められた。

日本の中国化

中国大陸からの流入者は、1つには朝鮮半島中・南部へ、もう1つは日本列島(特に九州)にダイレクトに移動していったのではないだろうか。もちろん、中国=>朝鮮半島=>日本列島という人的な流入もあっただろう。中国といってもきわめて広く、地域によって多種多様な民族が集合しているが、弥生人は、基本的には中国江南地方の部族を祖先にもっているのである。呉人、越人、秦人、漢人など、断続的に中国からの直接または朝鮮半島経由の流入によって、列島の中国化が進んでいった。後続の流入者は、当時の先進文化や技術を伝え、社会集団刷新の原動力になっていったものと考えられる。
 弥生時代の拠点集落は北九州、河内、大和地方に加え、出雲、丹後、越前などの日本海文化を担う勢力、それに近江の勢力も無視できない位置にあったようである。


古墳から飛鳥へ
古墳時代 A.D.280(それ以前)・・・松山市朝日谷2号墳築造さる。四国の首長の墓?西日本の連合政権?

船ケ谷遺跡

 松山市。古墳時代中期(5世紀)ごろの高坏(たかつき)など韓国製土器2点が見つかる。

古墳稲荷
鯨山古墳
岩子山古墳群・・・500年前後に築造された首長クラスの円墳


稲荷の神・・・宇迦之御魂神,大巳貴命,太田命,大宮姫命,保食命
3世紀・・・古墳文化の始まり
A.D.239 卑弥呼,魏(帯方郡)へ使者を送る。
A.D.247・・・邪馬台国(大和・物部系連合王国)と狗奴国(日向・神武系日韓連合か?)が戦う。邪馬台国敗退。卑弥呼死す。壱与(台与)女王となる。

A.D.266 邪馬台国女王,
壱与(台与)晋に遣使する。

3世紀半ばから4世紀はじめにかけて
【第二の東遷】南九州,日向王朝の勢力が、邪馬台(ヤマト)攻略を開始。九州を掌握後,瀬戸内海を制圧,大阪に上陸して物部と戦い,大和地方を征服。これを神武東遷と考える。狗奴国

【別の仮説】鷲ア弘朋氏によれば,九州勢力の閉塞的状況を打開するため南九州の日向王朝が東遷を行った主体であると考えている。

A.D.300以後・・・大和朝廷,日本統一。九州から関東までを勢力圏に収め,A.D.450ころには中小の地方豪族までを配下にする。

【推理】大和先住の物部系の政権倒れ,邪馬台国滅び,狗奴国の政権が大和地方を奪取して大和朝廷となり,200年かかって日本を統一した。

応神天皇の時代,秦氏朝鮮,新羅より葛城襲津彦に率いられて日本(大和・葛城地方)へ移住。養蚕機織の技術を伝える。
5世紀
大陸,半島より渡来人続々来る。
239・・・卑弥呼の使者難升米らが帯方郡に派遣され、朝献して親魏倭王卑弥呼の称号を授かることを願う。
346・・・倭軍,新羅の風島を襲撃
350前後・・・馬韓、東晋+楽浪・帯方の支援によって倒され、百済建国される。
366・・・百済,日本へ初めて献使
369・・・百済王,倭王のため鉄の七支刀を造る。

399年
高句麗,広開土王の時代
朝鮮半島に侵入した倭の軍勢を撃退する


A.D.220 後漢滅び三国時代へ

魏,邪馬台国を支援する。
呉,狗奴国を支援?
A.D.280 ,中国を統一
A.D.317 五胡十六国時代,東晋
A.D.386 北魏(北朝)
A.D.420 (南朝)
A.D.479 宋滅び興る
502 斉滅び興る
534 北魏滅ぶ
535 東魏・西魏建国
550 東魏滅び北斉興る
556 西魏滅び北周興る
557 梁滅び興る
577 北周,北斉を滅ぼす
581 北周滅ぶ
589 ,中国を統一
618 隋滅び興る

参考文献

1.Culture編集部 1998 ビッグマンスペシャル 暴かれた日本古代史−新事実を旅する 世界文化社

2.第一学習社編集部(編著)1997 グローバルワイド最新世界史図表 第一学習社

3.岡田英弘 1977 倭国 中公新書

4.鳥越憲三郎 1992 古代朝鮮と倭族 中公新書

5.鳥越憲三郎 2000 古代中国と倭族 中公新書

6.寺沢薫 2000 日本の歴史02 王権誕生 講談社

7.松山市考古館(編) 考古館さんぽ@〜G