神社サイコメトリー(2000年9月)
名称:国津比古命神社
櫛玉比売命神社
御祭神
國津比古命神社
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)
櫛玉比売命神社
天道日女(あまじひめ)
御炊屋姫(みかしきやひめ)
天香山
宇摩志麻治
物部阿佐利
脇宮
國津比古命神社・・・金比羅宮,稲荷社
櫛玉比売命神社・・・和霊神社,素鵞社
コメント
丘陵地の上,向かい合わせに国津比古命神社,櫛玉比売命神社の神殿がある。各種の情報を総合してみると,軽島豊明朝臣物部阿佐利は、風早の国造となり、物部氏の祖饒速日命の妃である櫛玉比売命を祀った。物部、風早、越智の諸氏氏神として崇拝されたとある。現在の宮司も物部氏の末裔である。生粋の物部系神社といえる。祭りの時には饒速日命を擁した神輿を神社の階段から投げ落とすという荒っぽい神事で知られる。櫛玉比売命神社の旧社殿裏には竹林の小丘があり,その頂上に石碑が建っていた。両神社ともとても落ち着いた雰囲気になるが,櫛玉比売命神社の裏丘にエネルギー・スポットがあるようだ。
KamiWayさんによるサイコメトリー
時代は不詳だが,現在の櫛玉比売命神社の裏丘は以前はもっと大きく広がっていて,その頂上にわらぶき屋根の高床式のやぐらのような祭祀場があった。この建物は吹きさらしで,壁はなく高床につながる階段が見え,床の上に皿に盛った供物を並べるようになっている。人1人が床の上に登るとやぐらが倒れてしまいそうな脆弱な感じの建物。周囲の集落に住んでいる人々は,この小丘を神と交信するための聖なる場所と見なしていた。人々はいつも天を仰ぎ見ていた。
ここでは,出産,病,死などにまつわる祭祀をシャーマンが執り行っていた。
祭祀場のスケッチ
一番強く感じるのは,族長や周辺集落の有力者やその家族が病に伏せると,これを癒すために村落の女性(娘)を捕らえてきて生贄にしたということである。たとえば,有力者が眼病を患うと,生贄の同じ目を潰して,祭祀場の床下に横たわらせ,逃亡しないように縄でくくって餓死させる。ときには子を思う親が娘の代わりに生贄となる事もあった。死体は放置され,骸が自然に分解していく風葬である。こうして何人もの女性がこの場所で生贄に捧げられている。
この丘のいたるところに横穴が掘られており,そこでも何らかの儀式が行われていたようだ。出産もこの横穴で行われたのかもしれない。
集落と集落の連絡のために,この建物には木片を何枚かつないだ縄がぶら下がっており,これを鳴らして合図を行った。電車の警報機のようなとても甲高く通る音が響き渡る。建物は見張りのやぐらとしても利用されたようだ。
族長や村の有力者が死ぬと,この丘の高い場所に死体をさらして,少しでも天に近いところで白骨化するのを待つ。「天」が重要な意味を持つ葬送儀礼である。
櫛玉比売命神社の裏丘の竹林には天の気と地の気が上下から合流して渦を巻きながら1本の強烈なエネルギー・フローが伸びていっており,それは国津比古命神社の社殿の方向に流れている。
かつて国津比古命神社の社殿の裏には巨石があったのではないか。これに縄をグルグル巻いて,大勢の人々が車座に座り,岩を崇拝している姿が見える。岩に稲妻のような閃光がピカピカ走って,反射している。
巨石のスケッチ
考察
このサイコメトリーは,初めて当地を訪れた直後に実施したものであり,事前の情報をほとんど持ち合わせていない状態での過去透視となった。まったくの行き当たりばったりの巡礼であり,準備も何もしていなかった。このため,現場での物的証拠も見つけることができず,今後繰り返し現地調査を行わないと分からない部分も多い。
状況証拠的には,物部氏が巨石信仰と何らかの関わりがあるのではないか,という情報をネット上で見つけることができた。
学界の定説では巨石信仰は縄文時代に日本でも見られたアニミズムの一種であろうと言われている。世界に目を向けてみても,巨石建造物が超自然的な力をもっているという考え方は、民間伝承によって支持されている。巨石遺跡のある土地では、それらが水と結び付いて力をもつという言伝えがあり、大多数の伝説はそれらが死に関わるよりも、活力を生み出すものであることを示唆しているようである。
縄文,弥生,古墳時代の宗教的祭祀遺跡にやがて社,祠が建てられ,神社として整備されていったケースは珍しくはない。そこに仏教や修験が習合していって,聖地,霊場となった場所もある。
今回は物部氏を鍵に巡礼を敢行したのであるが,あらためて日本霊界の奥深さを見せつけられた格好になった。
伊予の伝説によれば物部氏の一支族,物部阿佐理が伊予北条の地を定住拠点としたのが,現行の時代区分では弥生時代とされている。当時の物部氏がどのような宗教的祭祀儀礼や宗教的感情を持っていたのかは,あまりにも資料が少なく憶測の域を出ない。しかし,彼らが巨石信仰を持っていたとする資料と,サイコメトリー情報の一致は無視できない気がする。少なくとも,彼らは宇宙のエネルギー(気)の調節やその利用の仕方について知っており,現代人とは根本的に異なる感性で世界を見ていたのだと思われる。
生け贄については古墳時代の途中までは人柱を使ったということもあるし,縄文時代,弥生時代でも天変地異や疫病の流行などを神の怒りと考えて生け贄を差し出すような風習もあっただろう。
その後,出雲でも生命エネルギーの転化を目的とした生贄祭祀が行われていたことがサイコメトリーから推定されている。
國津比古命神社+櫛玉比賣命神社巡礼(2001年5月)
昨年9月のサイコメトリーに続いて,今回は調査ではなく,参拝をしに行った。その場にたたずみ,たっぷりと時間をかけて拝み倒すことができた。また,神社の由緒書もいただくことができたのは幸いであった。ここは,強烈なエネルギーにあふれた場所であり,帰宅してから発熱してしまったほどであった。國津比古命神社よりも櫛玉比賣命神社のある場所の方が「いやしろ地」としての空気に溢れており,櫛玉比賣命神社の本殿よりも旧社,旧社よりもその裏の小山(前方後円墳跡)が強いエネルギーが出ている。
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丘の上に國津比古命神社,櫛玉比賣命神社はある。夫婦神社である。 |
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國津比古命神社の門 |
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國津比古命神社のご神殿 |
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脇宮の稲荷社 私の行くところには必ず稲荷社がある。 |
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國津比古命神社を櫛玉比賣命神社側から見たところ |
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櫛玉比賣命神社へ通じる参道 |
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櫛玉比賣命神社のご神殿 |
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脇宮の素鷲社 愛媛県内には素鷲社,素鷲神社が多数ある。ご祭神は素戔嗚尊である。そもそもは,伊豫に流れ着いた平家の落人が県内某所の隠れ里に建てた祠が発祥である。私にとって,とても縁深き社であり,魂のつながりを感じられる。 |
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櫛玉比賣命神社の向かいある小山 前方後円墳の一部である。昨年のサイコメトリーで,古代の祭祀にまつわる情報が得られた。古墳時代以前から神聖なる場所であったようだ。 |
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前方後円墳の頂上 強烈なエネルギーに溢れていた。 |
延書式内社
國津比古命神社
櫛玉比賣命神社
御由緒
当神社は応神天皇の御代(皇紀九三〇(西暦二七〇)〜九七〇)に勅令を奉じ物部阿佐理命が風早の国造となり、その祖神天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほのあかりくしだまにぎはやひのみこと)及び宇摩志麻治命(うましまじのみこと)を國津比古命神社(くにつひこみこと)、妃神天道姫命(あめのみちひめのみこと)及び御炊屋姫命(みかしじやひめのみこと)を櫛玉比責命神社(くしだまひめのみこと)に奉齋せられ、公の崇敬厚く醍醐天皇の御代の延喜年間(皇紀一五六一(西暦九〇一)〜一五八三)に編纂された延書式内神明帳に「風早郡二座國津比古命神社、櫛玉比賣命神社」とあり、当時の官国幣社に列せられた由緒深い古社です。
中昔までは実に壮大な御構えの神社であったが、天正年間(皇紀二二三三〜二二五二)度々の兵乱により廃頽し社殿宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築した。寛保元年に松平隠岐守は、毎年代官をして参拝する制度を定められました。
國津比古命神社は、初め「櫛玉饒速日尊神社」と称し、阿佐理命を合祀して現社名に、誉田別尊(応神天皇)を合祀し「頭日八幡宮」と改称しましたが、中御門天皇の亨保年中(皇紀二三七一−二三七六)に旧号に復しました。
饒速日尊は、天照皇大神の御子天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の御長子で、大和に天降りこの地を中心として社会の開発に着手せられ、天孫の天下経営の大業に協力せられて大義名分を明らかにし天下統一に偉大な功績を顕されました。宇摩志麻治命は父命の御志を継がれて地方開発に御尽瘁せられたのです。このように御親子命ともに尊い神様で、殖産農工、除災招福の守神であらせられます。
櫛玉比賣命神社は、中古は祓座大明神(はらいにます)とも称せられましたが、後水尾天皇の寛永年間(皇紀二二七一〜二二八九)に官命を受けて南方の小山の頂きより現在の地に奉還され、中御門天皇の亨保年中に旧号に復しました。
天道姫命は大国主命(大己貴命;おほなむち)の御子であられ、御炊屋姫命(登美夜毘責とも称す) は大和国鳥見の豪族の長髄彦(登美毘古;とみのびこ)の妹君で、宇摩志麻治命の母君にあらせられます。古来、地方豪族の氏神として代々崇敬せられ、明治二十九年に社格が「県社」(國津社)・「郷社」(櫛玉社)となりました。両社は夫婦仲良く向かい合ってお齋りされ、我々を護って下さっています。尚、櫛玉社拝殿前方の小山は前方後円墳の一部であります。
古墳エネルギースポット編
鯨山古墳は5世紀ごろに築造されたと考えられる前方後円墳である。平野部に位置する丘であり、地元の人々からは通称「鯨ヶ岡」と呼ばれる樹木に被われた古墳である。現状は南西部が変形しているが北部の方墳部はほぼ旧態をとどめ、堀の遺構もわずかに残っており、かつては円筒埴輪もあったという。この古墳は応神天皇の御代、小千国造(おちくにのみやつこ)として、最初に伊予の国に下向した乎致命(おちのみこと)の墳墓と伝えられ、天正7年3月、三島大祝安任の手記に、「小千御子墓在馬越邑」と記されている。小千(越智)氏は古代祭祀氏族,物部氏の流れを汲むものである。
鯨山古墳の遠景
方墳部上の小祠
円墳部上にある神社と観音堂
円墳部にある三島神社
古墳稲荷
この古墳には神社(三島神社)と仏閣(不動堂;観音堂)が建っている。その奥に進むと、うっそうとした林のつらなる古墳の北部に小祠がある。一見すると何でもない祠に見えるが,ここは拝み屋御用達の礼拝所である。天空からのエネルギーと地下からのエネルギーがぶつかり合う地点だそうで,いわゆる非物質世界(NPW)との接点として昔からここには「魔物」が住むと恐れられていた。地元の人でもおいそれとは近寄らない場所である。三島神社のご神殿の脇には稲荷社も建っている。古墳稲荷の典型である。
| 参考HP | |
| 神社紹介 | 木屋の資料館3号館、倭史 |
| 巨石信仰 | 神奈備 |
| 磐船神社 | |
| 蛇と文明 |