中山道六十九次 日帰り夫婦旅 15

11月18日(火)快晴


信濃路D 長久保宿〜和田宿


和田峠越は、どう考えても日帰り旅は無理、まして秋の日はつるべ落とし、信濃路の旅はこれが年内最後と決めて、長久保から和田宿まで一宿場を歩くことにした。

前回、長久保で戴いたバス時刻表を良く調べたら、上田駅から往復、JRバスを利用して行ける事がわかり、東京駅7時28分発「あさま1号」に乗車、上田駅8時45分着、9時駅前発の長久保行きに乗った。乗客は野次喜多だけだった。

車中から、信濃国分寺跡、千曲川、烏帽子岳などを見て(おふくろの実家がこの辺なので、やっじっじには懐かしい)依田川沿いの丸子町に着き、ここでお年寄りが三人ほど乗車、バスは依田窪病院の玄関先に横付けして、お年寄りはここで全員が降りた。
終点長久保には9時52分到着した。バス代は1020円。
長久保宿「かねんて」の角から今日の歩きが始まる。

    

角の現役の旅籠を始め、この辺も昔の雰囲気が良く残っている。この辺を長久保宿横町と言う。
ほどなく142号線に合流、そして152号線が再合流する。その手前左手に中部北陸自然歩道の入口があった。突然、左手の空き地から大きな鳥が飛び立つ。「きじ」だ。

「中仙道」の大きな看板が目立つドライブインがあり、その先に「四泊落合標高680M」の標識、ここから右手の細い道に下りる。国道に向いて看板が立っていた。
細い道(旧街道)からは読めない。この看板「一里塚跡」の看板だった。
旧街道はデイリーストアの裏を通って再び国道に合流する。
行く手には小山を挟んで谷が大きく割れている。

左の谷に行く道が「大門街道」甲斐の武田信玄が信濃侵攻のために作った道(中の棒道と呼ばれた軍用道路)だ。右に行く道が中山道で下諏訪に通じている。
和田を通って下諏訪に行くわけだから当然右の道だが、旧中山道は、ここは一旦左に入り、すぐに右折して大門川を渡り続いて依田川を渡る。

 

大門川を渡る橋のガードレールに「中山道」の小さなシールが張ってあった。
渡った先の右手の森は竹林あり、色づいた柿あり、松の古木ありで、作られたようにまとまっていた。
 

二つ目の橋で依田川を渡ったら直ぐに左折、ほどなく国道に合流して、その先の「青原信号」で向こう側に渡る。そこに新しく整備された綺麗な公園があり東屋や水飲み場があって一休みできる。
整備された道端には「史跡旧中山道」の石碑や案内板、多くの道祖神があった。ただ残念なことにトイレがなかった。
  

ここから先はすべてゆるい登り坂だ。

 

さすがにコスモスは終わっているが柿が色づいていて綺麗だ。 山は紅葉しているし、見上げる空は真っ青、飛行機雲が青空のキャンバスに十字を描いている。

和田村のバス停は藁葺きの農家あり、神社風あり、尖がり帽子ありで楽しい。ただバスを待っている人は見かけなかった。

  

帰りに分かった事だけど、バス路線は上田から長久保までで、和田村内は村営になっていて無料だった。ただし日に数本しかない。帰りに和田から長久保まで利用した時、無料と聞いてびっくり、まごまごしていたら、気持として100円を入れて戴ければとのこと、運転手さんが恐縮していた。
「中組」の古風な看板が立っていて和田宿に入った。 左に「みみずの道祖神」(ふるさと美化運動の優勝作品)があり、そういえば道端でやたら太っている「みみず」を見かけた。
「三千僧接待碑」というのもあった。なんでも千人の僧侶を接待する願をかけ、その後三千人まで増えて、最初に造った一千人僧に二を足して、この碑を建てたとか。言われてみれば、はっきりとそれが分かる碑だった。

   

その少し先左側に、若宮八幡神社の森があった。茅葺屋根の古い本殿、拝殿、左手に石垣に囲まれた和田城主と羽田家代々の墓が祀られていた。

本殿と思ったのは覆屋で中に小さな本殿があった。杉の巨木にかこまれた静かな一角だった。

  

ほどなく中山道一里塚跡の碑がある。49里目の石碑だ。
なおも上りの道をひたすら歩いて行くと、「是より和田宿」の大きな石碑がデンと置かれている。12時だった。

 

和田小、中学校の前を通り八幡神社に到着、この辺から少し下り坂になります。
八幡社は茅葺ながら入母屋造りです。
やがて追川に架かる橋の袂に到着、この辺を橋場と言います。

すぐ傍に「かわちや」があります。かっての旅籠で「歴史の道資料館」として公開されています。
和田宿は永久元年(1861年)3月10日大火災が発生、本陣、脇本陣はじめ殆どの人家が灰燼に帰し宿場機能を失いましたが、同年11月に皇女和宮の降嫁があり、和田宿が宿泊地に決まっていた為、江戸幕府の絶大な援助のもと、わずか半年で復興された宿場です。 「かわちや」を始め現在残っている古い建物はすべてその時に建てられたものです。

裏に「黒曜石博物館」があり、本陣を含めた三館共通の入場券を売っていました。
和田峠で取れる黒曜石は、石器の材料として縄文時代から貴重化され、当時から和田は人の出入りが多かったようです。そんな歴史と共に実物の石器がならべられています。

「かわちや」は和田宿の旅籠でも規模が大きいほうで、出桁造りに格子戸といった当時の様子が良く残っています。

 

 

二階の広い板の間に、障子越に差す光がなんとも言えない風情をかもし出していました。
職員の方が博物館から「かわちや」まで付きっ切りで説明してくれました。
ここから本陣までの間は和田宿の中で一番素晴らしい街並みが残っています。
右に左にしっかりとした昔のままの建物が連らなっていました。

 

 

本陣は大名等が泊る座敷棟と、一般人や家人用の居室棟の二棟あったらしいのですが、 居室棟だけが残って、役場として機能していましたが昭和59年新役場建設と共に役目を終え、その後宿場の遺構としての重要性を認められて61年から5年掛かりで修理復元されたそうです。使いやすい座敷棟が残っている(和田宿の脇本陣もそうです)場合は多いのですが、居室棟だけが残っているのは珍しいそうです。

 

 

この本陣の屋根は板葺きに小石が並べられていて、また縁側(障子の外、雨戸の内、)に対する「入側」(障子の内側、畳敷、押入れの変わりにふとんを積んだり次の間の用も足した)も復元されていました。
ここでも職員の方が親切に説明してくれたましが、食事もしなければいけないし、2時半のバスに乗らなければならないしで、食事場所を聞いてほどほどに失礼しました。
教えて戴いた通り、新役場の前を通り国道に面した「道の駅和田宿センター」で昼食をとりました。
ここで思い出して従兄弟に電話して帰りに立ち寄ることにしました。
上和田のバス停の前に旅籠のままの「本亭旅館」がありました。

 

古めかしい看板の電話番号は和田十三番とあります。いつか和田峠越えの時にはお世話になるはず、喜多さんが行って名詞を戴いてきました。

 

バス停の隣には脇本陣の「みどりかわ」さんがありました。
時間通りに村営バスが来て長久保下車。乗り換えて落ち合い場所、依田窪病院で下車した。すでに従兄弟が待っていてくれた。従兄弟の家を二軒ほど回り上田駅まで送ってもらって5時23分新幹線乗車6時46分上野駅に着いた。

距離10.4キロ 歩数 17437歩

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