中山道 日帰り 独り旅 25

 H18年11月9日(木)晴れ


美濃路A 中津川宿〜大井宿



来週も再来週も野暮用が多くて、旅に出られそうに無い。そこで近頃のやっじっじにしては珍しく、半月の間をおいただけで、中山道に出かけることにした。
予報通りの良い天気になりそうだ。南千住駅6時着、前回同様、東京駅6時36分発「ひかり141」岡山行きに乗車、定刻通り名古屋到着、そして、これまた前回同様、9時名古屋発の「特急しなの7号」でゆっくり座って中津川に着く予定だった。
それがどうしたことか、始発にもかかわらず乗車口までいっぱいの立ちっぱなし、それでも定刻通り9時47分中津川駅に到着した。
今まで新幹線でも「あずさ」や「しなの」などの特急でも、始発駅乗車なら自由席でも楽に座れたのに、一体どうしたというのだろうか。
それが一人旅のメリットだったのに。おかげで歩き出す前から草臥れてしまった。

今、中津川市はお祝いムードで沸いている。というのも久しぶりにお生まれになった、皇室の男系男子、悠仁親王の御印が中津川市の木でもある「高野槙」に決定したからだ。駅頭には祝旗が幾つもはためいていた。

駅前から直進、旧中山道の道(新町通り)へ右折していく、「すや」さんなど何軒か旧家があり、東京千住宿の旧街道でも見かけた、空き地を利用した宿場PR施設などもあった。(下右)

 
前回寄った「中山道歴史博物館」の前を通り、右に本陣跡、左に旧庄屋さん宅を見ながら進んでいくと、枡形になり左折、しばらく先で右折して中津川を渡って進んでいく。
そして、この枡形辺りから先が本町、下町と続く中津川宿の中心で、宿場町の面影が色濃く残っている場所だ。

 

格子が見事な旧家や「うだつ」の上がった旧家、杉玉の下がる蔵元などかっての宿場の風情が良く残されていた。

 

銘酒「恵那山」の蔵元があり、名物栗きんとんのお店があり、枡形を曲がるたびに感動がある素晴らしい街並みだった。
枡形を曲がって振り返ったら、「うだつ」の屋根瓦が波を打っていて見事な曲線美を見せていた。こんな景色始めて見た。
その先、村社への参道が左にあり、何気ない路地にも趣がある。

 

下町通りを過ぎ、中津川を渡って直進、津島神社の参道案内に沿って左折、「石屋坂」を上って行く。
左の民家の壁に高札が三枚懸っていた。駒場村の高札場跡だそうだ。

 

小さな道しるべを右に見て、正面の丘に突き当たる。道は右折していくようだが、丘にのぼる白い手摺と石段が見える。
ここは東山道の昔に坂本駅があった場所だと言われていて、この坂を「小手ノ木坂」という。古から交通の要衝として重要な場所だったようだ。

 

坂を昇ると右に「こでの木坂」の石仏群と言われている場所がある。ここに珍しい「双頭一身道祖神」がまつられている(左下)。
その先に「上宿の一里塚跡」の碑があった(下右)。江戸から八十五番目の一里塚だ。

 

1キロほど進むと「小石塚の立場跡」に出る、向かいにはコンビニがあり、左は国道が走り右手に中央線が走る。
道はそこで行き止まりになり、正面に案内板が立っている(左下)。
この案内板の左脇の石段を下り、右の横断歩道を渡って、国道と線路の間の道を道なりに進んでいく、左側は中津川インターチェンジのコンクリート塀、右側は線路に沿ったカーブした道になって、その先で旧中山道に繋がっている。
この辺は中央高速道のインターチェンジが出来て、その為に旧中山道は無くなってしまったそうだ。
文字で書くとややこしいが、案内板がしっかり付けられているので、それに従って進めば迷うことは無いと思う。

 

繋がった旧道が下左の道で、集落は千旦林集落です。
この集落を進んでいくと右手に六地蔵灯篭が建っている。お寺の門前で赤い前掛けを掛けた六地蔵は良く見かけるが、灯篭に彫られた六地蔵は珍しいですね。1657年の作だそうです。

 

下左の写真は恵那山をバックにした六地蔵です。東海道では富士山を、中山道信濃路では浅間山を、そして美濃路ではいつも恵那山を友にして歩きます。
少し先に「坂本神社八幡宮」の一の鳥居がありました。奥の方を中央線の電車が走っていきます。神社やお寺の境内を横切る電車、街道歩きでは良く見かける光景です。

 

ちょっと奥の方ですが、電車に引かれてお宮参りです。
山の麓にある、格式のある神社でした。やっじっじが石段を昇って境内に入ると笙篳篥の音が聞こえてきました。人の気配はないのですが?、お宮参りでもあるのかな。
参拝を済ませて、ふと振り返ると、一人の青年が立っていました。「ご参拝ごくろう様です」丁寧な挨拶をされて、やっじっじのほうが恐縮です。この神社の若い宮司さんでした。
地元の方ですが横浜のほうの神社にお努めしていたそうで、坂本神社に神主がいないので、故郷に戻り実家から通って来ているそうです。雅楽を流しているのも、お参りの方が淋しくないようにとの心使いのようでした。
本来「坂本神社」といって、地元の山ノ神を祀っていたのを、戦国時代に戦火に巻き込まれるの恐れ、源氏(武士)に縁の八幡宮も併せ祀り「坂本神社八幡宮」になったと言う事です。災いを避けるための先人の知恵ですね。この辺の土地、千旦林はセンダンリンと読むのかと思っていたら、センダンバヤシと読むのだそうです。
東山道の昔から、駅の機能を維持する為に駄馬も沢山いたようで、それで千駄林(せんだばやし)と書いたそうですが、駄の字が良くない字ということで、旦の字を当て今の呼び方になったとか。若い宮司さんの受け売りです。

 

地方のお社は、とかく氏子に任せっぱなしになりがち、これからの宮司はもっと積極的に関わっていかなければと、大変前向きで好感が持てました。
少し先の街道沿いには馬頭観音の碑もあった(下右)。美濃路の馬頭観音は「馬頭観世音」と書かれた石碑より、三面を持った石仏が多いようだ。

 

その先で道は追分になり、旧道は左の道へ。時刻は12時丁度だった。

 

しばらく行くと将監塚の案内板と灯篭がある。この近くに宝匡印塔があり、その塔が二代目美濃国代官岡田将監の墓と言われているらしいが、この近くには何も無かった。

 

その先に三ツ家の一里塚跡があった(下左)。
ここで不思議な物を見た。車は(たまにしか)走っていない、人も(ほとんど)歩いていない、のに豪華なトンネル式横断歩道が完備していた(下右)。
勿論税金の無駄使いとは思いません。信号機を付けるより安く出来たのでしょうね?市長さん。

 

流石に馬を大事にする街道沿い、覆いの付いた馬頭観音が祀られていた。下右は「坂本立場跡」とゆっくり下る旧道。

 

立場跡からの道はゆっくりとした下りになり、坂本観音(左下)を右に見て坂本川を渡り茄子川集落に入る。「なすがわ」ではなく「なすびがわ」です。

 
茄子川は間の宿だった集落で、落ち着いた屋並みが続いている。左に茄子川村高札場跡が、恵那山をバックに一角をなしている(左下)。

 

街中をしばらく進むと左角に本陣(間の宿なので本陣とは呼ばれなかったが、皇女和宮も明治天皇もお休みになった)藤原家が「茄子川小休所藤原家」として保存されている(右下)。見学不可。

 

藤原家脇の道は秋葉様への道で、秋葉灯篭が両脇に建っていた(左下)。そのまましばらく進むと左に茄子川焼の窯元があった。中山道を道中する人達の良い土産になったようだ。

 

道の右に恵那市の標識。左に中山道と書かれた大きな石碑が建っていた。その少し先で濁川を渡ると大井宿東の入り口、岡瀬沢集落に入っていく。下右は岡瀬沢の常夜灯と街道碑。

 

川沿い向こうに神社が見える。そろそろお腹も空いてきたのであの森で一休みすることとした。神社の名前は富士浅間神社、坂本神社と違い宮司のいないお宮だ。舞殿に腰掛さしてもらい昼食を摂る。時刻は1時20分、ここで30分ほど休んだ。
今日のコースは峠道ではないのでストックを持ってこなかったが、街道だから上り下りは当然ある。杖があれば楽なのにとは思う。

 

ゆっくり休んで元気を取り戻し甚平坂を昇っていく。頂上は甚平坂公園と言って、広重が大井宿を描いた場所だといわれ、ここに広重の浮世絵を掘った石碑が置かれ、ベンチやトイレも完備していて、やっじっじもホットした。
朝の内こそ寒いくらいだったが、歩き出せば暑い。ジャンバーは腰に巻きチョッキはカバンに仕舞い込んで、汗びっしょりになって歩く。
ここで喜多さんから電話。今回はなんとなく体が重い、でも元気に歩いているよ。

   

今度は甚平坂を下っていく、左に根津神社の石段があった、境内には祭神根津甚平の墓と言われている大きな宝匡印塔があるらしいが、急な石段を前にしてここはパス。この坂は根津坂とも呼ばれているようだ。ドンドン下っていくと「関戸一里塚跡」の碑がある。

 

なお下っていくと、前が開けて恵那の町が見えた。右に明治天皇ご休息所跡の石碑や道案内があった。

   

目の前の中央高速は橋で渡り、渡った右にある菅原神社に参拝、鳥居左の狭い石段を下ると、そこが旧道であり、右手に「上宿の石仏群」がある。

  


その先に狭い小さなガードがある。明智鉄道のガードでこれを潜るといよいよ大井宿の中心街だ。写真を写すのに電車が通らないかと待ちわびたが、坂本神社のようにはいかなかった。
大井宿は中山道六十九次の内、四十六番目の宿場町で、美濃の国にある十六の宿場の中では最も栄えた宿場だそうだ。
今でも、その面影を色濃く残している。特に宿場内に枡形が六ヶ所もあり、今もはっきりと分かる形で残っているのは本当に驚きだ。

 

緩やかな五妙坂を下り、右に復元された高札場を見ながら、上横橋を渡ると最初の枡形に出る。延寿院横薬師を右に見て左折、次の左角に「大井宿本陣跡」がある。昭和22年の火災で本陣建物は焼失したが、何も無いわけではなく、本陣正門、樹齢数百年と言われる松、庭園などは今もその姿を留めている(下二枚)。

 

本陣の角、二つ目の枡形を右折すると左に「中山道ひし屋資料館」が建っている(下左)。この資料館は大井宿の有力な商家であり庄屋でもあった「ひし屋古山家」の建物で、平成9年に市が買い取り資料館として活用している。
案内してくれたボランテアの女性によれば二億五千万円の予算で、半分は持ち主に、残り半分で整備復元したとか。ここでこれからの街道歩きに役立つ資料を沢山いただいた。有難うございました。
前側に竹矢来を備えた旧家があった(下右)。

 

この通りは茶屋、大旅籠、脇本陣など旧家が軒を連ね、中ほど右には明治天皇行在所(下右)もある。

 

その少し先、右角「旅籠角屋」さんの所が三つ目の枡形で、ここを右折すると左に元大井村庄屋「古屋家」の豪壮なお屋敷がある(下二枚)。

 

突き当たりに「市神神社」が建つ(下右)。この社は元は上宿にあり煙草の市を開いていたとか。ここが四つ目の枡形で、ここを左折するとかっての茶屋町で、五ヶ所目を左折、六ヶ所目の枡形を右折して、阿木川を大井橋で渡れば昔の宿場町はおしまいだ。

 

現在の大井宿、恵那市は拡大の一途をたどり、大井橋を渡った先で恵那駅からの道と交差し、左折した先に「中山道広重美術館」が建っている(下左)。右下の写真は中山道と駅前通りとの交差点

 

左上がその美術館で現在開館五周年記念の展示として「北斎と広重」風景画の二大巨匠展を開催している。素晴らしい展示です。
左下は路地で見かけた3階建ての家、右下は恵那駅です。

 

「中山道広重美術館」では浮世絵に親しんで貰うため、浮世絵造りに簡単に挑戦出来ます。下の五色摺りの作品は、女性の館員さんに教わりながら、やっじっじが手がけた作品です。広重の木曽海道六十九次の内「大井」 素晴らしい出来上がりにブキッチョなやっじっじは大感激でした。
館内で3時過ぎから4時過ぎまで小1時間を過ごしたが、幾つも見てきた街道博物館のなかでは白眉の館だと思う。





4時15分に恵那駅到着、まもなく着いた4時17分発セントラルライナー名古屋行きに乗車、5時15分名古屋駅に着いた。「特急しなの」と大差はなかったし、特急券の代わりの整理券は310円だった。
5時58分名古屋発のひかりに乗車。東京駅着は7時45分だった。 

 距離 12、9K  歩数19、915歩 (中津川駅〜恵那駅)


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