中山道 日帰り 独り旅 28

 H20年6月13日(日)晴れ


美濃路D
 

謡坂〜御嵩宿〜伏見宿〜日本ライン今渡駅



前回は、クラブツーリズムのツアーにのって、無事に峠越えを終えることが出来た。感謝感激ではあるが、それはそれとして、これから先は、長年こだわってきた日帰り独り旅に戻って、中山道を踏破したいと思う。
昨年6月に奥州街道の最終回を歩いて以来のことだが、中山道も三分の一を残すのみになった。年内は無理でも、来年中には何とかなるだろう。
またまたなんと弱気なことをと、お思いでしょうが、なにしろ今話題になっている後期高齢者だもんで、肉体的にも、精神的にも、もちろん経済的にも大変なんですよ。

今年の梅雨は陽性というか、早めに台風が来たりして、まとまった雨が降るかと思えば、雲ひとつ無いピーカンの天気になったりで予定を立てるのもたいへんです。やっじっじも町会の役員として、お祭りの手伝いをしたり、親交が深い、かっての同業者とのリクレーションも来週あるし、習っているダンスのサークル旅行も近いし、孫(と言っても二十歳を過ぎた立派な女性ですが)との約束もあるし、リタイヤして余暇は沢山あるはずなのに、なんとも気忙しい毎日です。ともあれ明日は間違いなく、全国的に快晴との予報にジパング切符を買ってきました。

6時前起床、思っていた通りの雲ひとつ無い上天気、前の晩から準備した支度をして 即タクシーに乗り込み、鶯谷駅へ。
6時23分東京駅着、お茶を買ったり、新聞を買ったり、朝食のカツサンドを買ったりしながら新幹線のホームへ、丁度名古屋行き「こだま」が出発するところだったのでそのまま乗車。
東京駅発6時30分、名古屋駅着9時16分。隣の名鉄ビルに行き、9時25分発の名鉄犬山線特急犬山行きに乗車、9時51分犬山駅着、ここで名鉄広見線に乗り換え新可児(しんかに)駅に10時22分着、再度御嵩(みたけ)駅行きに乗り換え、最終地「御嵩」駅到着は10時38分だった。新幹線に乗ってから4時間8分もかかった。美濃路はやっぱり遠かった。
車窓からプールサイドではしゃぐ小学生の集団を見かけたが、それがちっとも不自然でない、今日は暑そうだ。

 

幸いにも駅前にタクシー案内所があり、直ぐに連絡がつき、前回終着地「謡坂」に10時55分到着した(上左)、前回マイクロバスに乗って帰途に着いた場所だ。代金1650ー、ウオーミングアップして11時歩き始める。

道を下って行くと右崖に、へばりつく様に鳥居が建っている。ここが珍しい「耳神社」だ。急な石段を昇り小さな社頭に立つ。耳の病に霊験ありと伝えられ,悪い方の耳を錐で刺し願いが叶えられれば、年の数の錐で編んだ「すだれ」を奉納するという。今も「すだれ」や「錐」が奉納されていた。

 

また維新の際、水戸天狗党が京に向かう徒路、この社の幟を幕府の布陣とみて抜刀して走りぬけたと言われる。水鳥の羽音に驚いた平家と同じですね。

 

しばらく行くと右に入る最後の山道がある(右下)。「牛の鼻欠け坂」だ。急な坂に、牛の鼻が擦り切れるほどの例えだが、西に向かっては最後の短い上りだから、それほどではない。

 

ほどなく竹林に囲まれた気持ちの良い道になる。

 

ここにも石室に仏が祀られている。じきに山道は終わりになるから、このような石室に祀られる仏はこれが最後か。この仏は「寒念仏供養塔」と言われている。

 
ここから一気に坂を下る。「牛の鼻欠け坂」の名に恥じぬ急坂だ。そして舗装された平らな里道に出た(右下)。信濃路、木曽路、美濃路と続いた長い長い山道もついに終わりが来たのだ。思えば自然豊かな心はずむ、そしてやっじっじを鍛えてくれた道だった。

 
やっじっじは、これで峠は終わったと安堵したが、これから江戸に向かう旅人は、ここまで平地を歩いて来て、ここからいきなり急な山道になるわけで、びっくりするだろうな。ここから碓井峠を越えるまで、幾多の峠を越えていかねばならぬわけだから。

 
あぜ道を直進して左折、角に道案内の標識がひしめき合って陣取りをしていた。集落に入り、鐘と太鼓の音が聞こえた。祭りでもあるのかなと思ったら天理教の祝詞だった。我が家の近所にも先日までそのようなお宅があったな。

 
集落を抜けると国道21号に合流する。その右角奥に「和泉式部の廟所」がある。石碑には式部の作と伝えられる「ひとりさえ渡れば沈むうき橋に、あとなる人はしばしとどまれ」の歌が記されている。和泉式部は平安時代を代表する三女流歌人の一人であり、東山道を辿って、この地で没したと伝えられている。

 
その後はしばらく国道を進む。12時、左角に御嵩宿への石標が建ち、道は国道と分かれて左折、宿場通りに入っていく(上右)。

 
御嵩宿に入ってすぐに気がつくのが、右手奥に聳える(というほど高くは無いが)形の良い山だ。御嵩富士と呼ばれている。

 
宿場に入って右に「竹屋」さんがある。御嵩宿の本陣「野呂」家の分家で、明治以降の御嵩の経済を支えた中心的商家だったようだ。明治10年頃の建物で、今は修復されて一般公開されていた。犬矢来を備えた、京風の奥に深い屋敷で、中庭に茶室もあり、奥に蔵も構えた豪邸だ。
隣に「中山道みたけ館」がたっている。一階が図書館、二階が展示室になっていて、目に付いたのが「マリヤ観音」で発掘された「隠れキリシタン」の品々と、「妻の神」の幟だった。
その隣が「蟹薬師」「可児大寺」と呼ばれている「大寺山願興寺」だ(上二枚)。本尊の薬師如来は国重文に指定されている。竹屋さんからこのあたりまでデジカメのボタンを意識せずに回したらしく良く写っていない。毎度のことながら残念至極。

 
蟹薬師と道一つ挟んで今日の出発地「御嶽駅」があった(上左)。ここを右折、左右折して国道に合流、そろそろ食事場所をと探しながら進むと左に喫茶店、迷わず入店する。今日は天気が良すぎて疲れる。炒飯とアイス珈琲で少しのんびりする。お店の名前は眞奈富(まなぶ)さん、入店 13時15分、お店を出たのは14時だった。

 
お店を出てすぐに前側に渡る。この先の幾つかの旧道が右手に分かれていくからだが、その前に「鬼首塚遺跡」があらわれた。建久・正治の頃(1190年頃)関の太郎という乱暴者が現れ狼藉の限りを尽くしたので、村人は地頭に太郎退治を願い出た。地頭は屈強の武士4名を派遣、蟹薬師に篭って祈願したところ、霊夢を得て太郎が女装して祭りに来ることを知り、彼を捉えて首を刎ね、その首を都に運ぼうとしたが此処まで来て急に重くなり仕方なく首をここに埋めたという。時刻は2時15分。

右に盲腸線の旧道に入り、少し先に御岳教の大きな石碑と社があった。御岳教って何なんだろう。木曽の御嶽山を信仰の対象としているのかな。まさか御嵩富士が対象ではないよね。

 
しばらく行くと、国道に合流、その少し先に顔戸(ごうど)の信号があり、傍らを流れている可児川が大きく広がって、広々とした景色になった。

 
行く手に「東海環状自動車道」が横たわり、その手前で旧街道は国道から離れていく。ここは変則三叉路になっていて、真ん中の一段小高い道が旧街道だ。そこに「中山道 比衣一里塚跡」の碑がある。新しい高速道はガードで潜って前進する。

 
しばらく進むと上左の写真のところに出る。ここは旧道っぽい直進ではなく、左折して国道に合流する。ほどなく左側に、伏見宿本陣跡の石碑が建つ一角にでる(上右)。

 
伏見宿には宿場としての遺跡は殆ど無い。わずかにそれらしき旧家が二軒向かい合って残っているだけだ。

 
伏見宿を通り、そのまま進んでいくと「南無阿弥陀仏」の石塔が建ち、その先に「上恵土神社」があった。時刻は3時15分参道の石に腰を下ろし一休み。ここで一休みしてよかった。この先 上恵土の交叉点は道路拡幅整備の大工事中で、車道と人道は引き離され、直進も左折道路も同じ「21」号線。回りの大型店舗は休業中で(もっともこれだけ大掛かりな工事をしていたらお客さんも寄り付かないだろう)道を聞くにも歩いている人も無く、ままよと左折する。しばらく先で工事現場の方に訪ねたら、先ほどの角まで戻って直進する道を進んだほうが近いとのこと。左折したこの道は21号線のバイバスらしい。
この先の国道は大きく広がって同じ21号とは思えない。中恵土の交差点を越えると、右に大きな可児中央市場が見える。市場に沿った歩道に入っていくと、自然と国道から分かれ普通の一般道になり、JR太田線の踏み切りを渡った所で4時20分、そのまま道を進み「日本ライン今渡駅入り口」で旧道コースから離れ駅に直行、名鉄今渡駅着 17時少し前。喜多さんと連絡を取っている間に電車が到着、17時03分発車。犬山乗換え名古屋着18時。22分の「ひかり」に乗車 東京駅に20時10分着。

思っていた通り汗びっしょり、身体くたくた、腕や首は日に焼けて真っ赤だ。ホームに着いた時お客さんが誰もいなかったので、これ幸いと待合室で上半身裸になって着替えることが出来た。おかげでさっぱりして帰途につけた。
距離 18,7K  歩数  23404歩 久しぶりの一人歩き, 失敗もあったが、それなりにこなせたな。

つたない年寄りのホームページにもかかわらず、カウンターが10,000を越えました。厚く感謝もうしあげます。


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