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曇ってはいるものの、「夕方まで雨はない」との予報を信じて、八時半に家を出る。南千住からJRで日暮里経由浦和には九時半に到着した。
![]() 旧道に戻って少し行くと慈恵稲荷の小堂があり道に面して、市神を祀った小堂と市の定杭(石柱)が鉄柵に囲まれて立っていた。浦和宿の二七市場の定杭で、この辺で浦和の市が二の日と七の日の、月六回開かれていたことを示している。珍しいものを見ました。道はそのままJRの上を浦和橋で渡り、ほどなく北浦和の駅に着きます。 ![]() 喜多さん、先日の健康診断の際、「トイレは我慢をせずにこまめに行くように」と言われたとかで、さっそくトイレ休憩です。浦和市はサッカーの浦和レッズの町、駅前の観光案内所もサッカー一色でした。そういえば歩道のあちこちにマスコットの姿や選手の手形がモニュメントされていた。街道は北にむけて進みます
![]() ![]() 左に廓信寺がありました。説明板に、さつまいも「紅赤」の発見者山田いちさんの墓があるとのこと、「紅赤」は一名「金時」と言われています。我が家でも「きんとん」造りで随分お世話になったので早速お参りしました。 参道の六地蔵はなかなか趣がありました。 道は銀杏並木になり、その中に一本だけ貧弱な杉の木が立っています。見落としてしまいそうですが「一本杉」とかかれた石柱が車道に面して立っています。針谷仇討ち事件の場所だそうです。都内でもこんなことが良くあるのですが、史跡の標識や石柱が車道に面してだけ立っているのは訳がわかりません。車の中から走りながら読める筈はないと思うのですが。 ほどなく与野駅への交差に出ます。右手にケヤキの大木が見えます。この辺が浦和と大宮宿の間の立場のあった場所で、半里塚跡のケヤキと言われています。旧道はしだいに広く綺麗に整備されたケヤキ並木になっていき、左手に埼玉新都心のビル群が見え出します。
信号を渡って右側に移ると、広 い歩道上に新しい祠があり中に二体の仏様が祀られています。お女郎地蔵と火の玉不動です。
かってこの辺りにあった刑場の名残です。今では埼玉新都心として、線路の向こう側には高層ビル群が聳え立ち、かっての中山道の上を埼玉スポーツアリーナに連なる巨大なコンコースが明るい屋根付きで通っていて、それはそれで見事です。
![]() そろそろ十二時、お腹も空いてきたし疲れてきたのでベンチで一休みです。遠くの方にいた鳩が集団で弥次喜多に向かってきます。あっという間に回りは、鳩でいっぱいです。喜多さんが、「なんにも食べていないよ、持っていないよ」と言っても、終いには弥次さんの腕に乗ってきます、あまりの慣れ慣れしさに、早々に歩き始めました。そう言えば弥次喜多も腹ペコです。「宮まで何丁」と書かれた小さな石柱が立っています。一の鳥居から宮までは十八丁(約2キロ)だそうです。ためしに計ってみたら一丁歩くと140歩位でした。
![]() 参拝をすませて旧道に戻るため、左の道から出て住宅地を通り旧中山道にでましたが、本当は右の出口から住宅地をぬけて古街道に出、旧道に合流するのが正しいようです。
合流点に氷川神社裏参道の碑が立っています。 目の前に「サイジェリヤ」があり12時半になっていたので早速入店しました。家の近くの店と違い、この店にはご飯物はなさそうなので、弥次さんは「あさりのスパゲッチ」とハンバーグ。喜多さんは海鮮サラダと「きのこグラタン」を注文、ゆっくりと過ごして、1時半に店を出ました。 東北本線のガードを潜り抜けると、大きな十字路になります。ここは右の上尾鴻巣方面ではなく、宮原駅という方にすすみます。この道が旧道です。しばらく行くと右に広大な空き地があり、再開発の対象地になっていますが、ここは元スバル自動車の跡だそうです。 そこ此処に道標やら馬頭観音、庚申塔が立っていて旧道を歩いていることが分かります。 ![]() 行く手の新幹線のガードを潜りますが、このガードは新幹線の両側にニューシャトルバスの線路が並んでいる珍しいガードです。宮原駅との十字路を越えると天神橋という場所になりますが、橋はありません。
![]() 喜多さんが買い物をしている間、前庭の椅子で一服していた弥次さんに、店員さんがお茶を持ってきてくれました。サービスの良いこと。お店を出たら、赤根塾の皆さんも向こう側を歩いていました。 そろそろ上尾宿に入ったようです。
![]() ここの路傍にも庚申塔の祠があり猿田彦の尊の額があがっています。道案内には、やはりこの神様でしょう。赤根塾の皆さんはどんどん先へ行きます。競走しているわけではないので、弥次喜多は距離を置くことにしました。今日の終着地、上尾駅はもう直ぐですから。
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