中山道六十九次 日帰り夫婦旅 その八

吾妻路G 5月14日(木)晴れ

本庄宿〜新町宿〜倉賀野宿へ



前回はやっちさんと一緒の親子旅だったので、景色の良い坂本宿周辺を歩いたが、今回は前に戻って本庄宿からの続きを歩くことにする。曇ってはいるが、夜まで降らないとの予報に、いつも通り7時20分ころ出発、上野駅7時50分の高崎行きに乗車、途中、信号事故で少し遅れて9時30分、前々回の終着地本庄駅に着いた。

旧中山道に出て左折、しばらく行くと左手に赤レンガ造りの大きなケーキ屋がある。ローヤル菓子店だ。この建物は本庄商業銀行として、明治27年に建てられ国の有形文化財にも指定されている。その後昭和51年から現在のローヤル菓子店として使われている。

   

まだ歩き始めたばかりだという喜多さんを尻目にやっじっじは、さっさと店内へ。元銀行だけあって高い天井、広々とした店内、ショウケースには美味しそうなケーキの数々、一画に椅子テーブルがあったので、コーヒーを頼めるのか聞いてみたら、ケーキをお食べになるのならコーヒーは付いているとのこと、早速ケーキを頼んで一休みする。

古い蔵も残っている本庄宿の外れに「金鎖(かなさ)神社」の森が見えた。参道を掃除していたがホコリがすごい。ほかの入り口を探したが見当たらず、しかたなく、参道を入ると右に御神木の大きな楠木、その隣にも立派な榧の木があった。享保年間に建てられた立派なお社では、お宮参りの家族がお祓いを受けていた。この神社の角を道路を渡って右折、すぐに左折する「かねんて」になっていて、旧中山道につながっている。右左折をする短い間の歩道に中山道の浮世絵が埋め込まれていた。

   

旧道沿には綺麗にガーデニングされた家が多く、中には家に面してではなく、通りに面して素晴らしい花園を造っているお宅もあって感激した。


少しさき左に鳥居のある小山があった。浅間神社とも古墳とも言われてる小山です。その先右側に泪橋由来碑というのが目に付いた。刑場跡かと思ったら、そうではなく宿場維持のために助郷になった村々の農民が、過酷な狩り出しに涙した所だそうだ。いずれにしても歴史は悲しい。

   



神保原駅への交差を過ぎて18号を斜めに横断する。左に薬師堂の祠があり、その前に庚申塔や二十二夜塔など多数の石塔が向かい合って立っていた。右手に小さな八幡神社があり、境内に入って一休みする。大きな鬼瓦(本当に鬼の顔をしている鬼瓦)が保存されていた。旧道は神流(かんな)川(がわ)を渡るために国道に合流する。


 

その手前, 白壁の蔵の前に小さな祠があり、一里塚跡の碑が立っていた。近くで新築工事中の左官屋さんが、野次喜多の姿に気づき、「中山道を歩いているの、京都まで行くのかな。今は車があるのに、道を横切らないで、縦に歩く人もいるんだね」 辛辣。それでも京都までなんていう所をみれば分かってはいるんだね。「この辺の事を調べた物を持っている人もいるんだけど、今日は来ていなくて残念だな。まあ、お気をつけて」。ありがとう。

   

神流川を渡ると右に神流川古戦場跡の碑がある。天正10年(1582)にこの河原で滝川一益(信長の家臣)と北条氏邦が一大合戦を繰り広げたとか。

 

右手に広大な自衛隊の駐屯地があり、左に新町の交通取り締まり所があった。かっては、ここで積載オーバーのトラックを検問していたのだ。川を渡ったこちら側は群馬県(上野国)だ。旧道との分かれ道に常夜灯(見透灯篭、複製)が立っていた。ここは右の道に入ってゆく。

 

八坂神社があり、その脇に芭蕉句碑がある。この句碑は明治維新の廃仏稀釈の際に、字の読めない人が仏所縁の碑と間違えて河原に捨て去り、後に見つけ出されて再建されたらしい。すでに12時を回っていてお腹も空いてきた。新町の駅前に行こうかとも思ったが、そのまま旧道を行く。しばらくして「うなぎや」を見つけ、今日のお昼は豪華に「うな重」と決めたら、隣が蕎麦屋(すかや)さんでいつも通りの天ぷらそばになった。1時、食事を終えて出る野次喜多と入れ違いに一人の旅人が入ってきた。

 

右手に小公園があり、その奥に明治天皇行在所が現存していた。

 

その先、旧道が右に分かれる手前に弁天橋があり、橋の袂に弁天社があった。右の旧道に入ると旧家が点在し六地蔵や石仏もあった。

 

特に一軒、物凄い蔵造りのお屋敷があった。張り巡らされた塀の中に、すべてが蔵造りの家屋が建ち並び、小路に面して門があり、白壁、黒瓦の屋根、まるでお城と見まがうばかりのお屋敷だった。地方には本当にものすごいお屋敷があるものだ。

   

 

行く手に関越自動車道の高架が見え、その下をくぐって歩道を行くと、歩道は車道から分かれて、そのまま土手を登って遊歩道になる。この土手の道が旧中山道です。
 
しばらくこの遊歩道を歩きます。広い河川敷は畑やサッカー場などのスポーツ施設になっています。この土手をどの地点で下り柳瀬橋につなげるか、takaoさんが悩んだ所です。やっじっじはここで「新町宿」のコピーを持ってきていない事に気づきました。結局やっじっじはtakaoさんと同じ間違いを犯し、同じ道を歩いたのです。ただ橋の上から見たかぎり大した間違いではないようです。あまりこだわり過ぎるのもと納得しました。




柳瀬橋を渡り岩鼻の交差点を左折、国道を横断しようとした時、後ろから来た旅人に声を掛けられました。「さっき、お蕎麦屋さんでお見かけしましたね。中山道を歩いているんですか。」「はい夫婦で歩いています」「私も東海道を歩き終わって中山道をあるいています」ちょっと自慢げです。「私達も東海道を去年歩き終えて、中山道に挑戦しています」やっじっじの声も自慢げです。なにしろこちらは夫婦旅で踏破しているのですから。
歩きながら、おたがい旅の情報交換です。手元の地図は一般の地図のようです。けっこう道に迷いますとの言葉に、takaoさんの地図を示して、いかに役に立つか話をしたら、どうやって検索するのか、ホームページの名前はなどと興味津々でした。やっじっじが年ですので疲れが残らないように、日帰り旅を基本にしていると聞いてびっくりしていた。実年齢を言ったのに反応しないところを見ると、やっじっじより若いんじゃないかな。今日は高崎まで歩くつもりらしく、野次喜多が倉賀野で帰ると聞いて、「それじゃ、先を急ぎますので」と去っていった。

   

ほどなく例幣使街道の追分に着いた。追分には道しるべをかねた常夜灯が立っている。京都からの例弊使はここで江戸への道と別れ日光に向かって行ったのだ。先ほどの旅人はまだ視野の先にいる。まもなく倉賀野駅の交差にでた。駅に向かう途中、右手のお寺の屋根に、八幡神社にあったものと同じ鬼瓦が乗っているのが見えた。

駅到着3時10分、3時16分の列車に乗車、上野4時55分着、ところで前回上野駅で降りられなかった訳が分かった。倉賀野で切符を買ったとき、山手線内は南千住や浅草橋より高いのだ。何故だかは分からないが。だから南千住行きの切符では上野は途中下車にならないのだ。上野行きの切符なら南千住で途中下車できるはずだ。でも納得はできない。南千住に向かう際、車内に酔っ払いがいて、南千住で強制的に降ろされた。

距離 約17キロ 歩数 32900歩

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