俺のこと


俺は、下町で三代続いた魚屋の長男として、この世に生を受けた。
なんて言えばカッコいいが、比弱な、貧乏魚屋の跡取り息子だ。
生まれた日さえハッキリしない。
戸籍上は昭和6年3月30日になっているが、中学に入る時まで3月21日が誕生日だと思っていた。
親父がそう言っていたのだ。

今で言う春分の日で、昔は春季皇霊祭と言われ、学校も休みで、家々では日の丸の旗が立てられ、「俺の誕生日だから皆が祝ってくれる」などとほざいていたのだ。

ところが中学に受験の時、戸籍謄本の中身を見てびっくり、初めて正式の誕生日を知った。
昔は、出生届けは親の申告制で、今と違って病院の証明書も無いから、届け出た日が誕生日であり、繰上げは10日しか認められなかったようだ。
と言うことは、4月9日に出生届けを出したのだ。

恥ずかしい話だが、親父の結婚届けも同じ日に出されていた。
まあ 戦前には良くある話で、子供が出来てあわてて正式な結婚となったわけだ。
ところが叔母(母の妹)によると、俺の誕生日は3月22日だそうだ。
私は出産に立ち会っているのだから間違い無いと断言していた。
いずれにしろ本人には分からない話で、ただ届けた日(4月9日)のままだったら、遅生まれになっていたわけで、どっちが得だったのかな。

俺が生まれたのは、親父が入谷の金美館通りに店を出していた時だ。
所帯を持った親父が、入谷に支店を出して間もない頃で、近くに区設の市場が出来て、商売も上手くいかなくなった頃だと聞いている。
たまたま本店を継いでいた叔父(親父の兄)が体調を崩し、療養に専念することになり、親族会議の結果、親父が入谷の店をたたんで本店を継ぐことになったそうだ。

聞いた話では、俺は本店に来てから歩き出したというから、1歳の誕生日前後のことなのだろう。



 
思い出


隅田川のほとり、台東区立橋場研修センターの入り口に、一体のお地蔵様が祀られている。
戦前 詳しくは昭和12年6月30日午前3時頃、当時橋場にあった福祉施設、同情園(孤児院)の火災の際に亡くなった十人の幼児を哀れんで、建てられたお地蔵様だ。

この火事は、孤児たちの「おしめ」を乾かすために、火鉢のまわりに「おしめ」を干し、それが原因で火災が発生し10人の幼児が亡くなったといわれている。
今では考えられない話だが。 

元々このお地蔵さまは同情園が建っていた台東区橋場一丁目二十七番地(旧石浜二丁目十四番地)に建てられたお地蔵さまだが、戦後、宗教がらみの色々な事情で捨てられ、今は地元の人達の好意によってこの地に祀られている。

この火災の事は、おぼろげながら覚えている。
当時、満六才になったばかりだから、私の古い記憶の一つかも知れない。それだけ印象が強かったのだろう。
アサヒ商店街の中程、今の清川二丁目三番地の魚屋の二階の窓から、誰もいない様な静けさのなかで、一人 東方の薄赤く染まった空を見ていた。
なんの音も聞こえない、深夜の大通りは人一人いない、車も走っていないし、動くものはなんにもいない。真っ暗な夜空に東の空だけが薄赤く染まっていた。

刺し子の半纏をまとい、刺し子の頭巾をかぶった、火事場装束のおじさんが、シャージャラン、シャージャランと金属音をたてながら一人 金棒を引いて歩いてくる。
その前後はまったく記憶にないが、その光景だけが鮮明にうかんでくる。

今、思いかえせば火事もおさまり家の人達も寝静まった後、ひとり興奮おさまらぬ俺が、外を覗いていたのかもしれない。
火事がおさまった事を知らせる為に、火事場装束に身をかためた鳶職の人が、町を流し歩く、そんな姿があったと先輩から聞いた。まだ、そんな時代だ。

第二次世界大戦(太平洋戦争)が、激しくなってきて、内地にも戦火がおよび始めた昭和19年秋頃(俺は勤労動員で工場で働いていた。後述)、帝都東京(当時は、そう言われていた)を守るために主要道路を拡幅して、防火帯をつくる事が決まり、アサヒ会通りも対象になった。
バス通りから隅田川まで、南向きの家並みが裏通りまで、強制的に取り壊された。
いわゆる強制疎開だ。 
戦時中のことゆえ、どうする事もできず、わずかな、保障で、我が家も取り壊された。
家は隣の家作だったから、すずめの涙ほどしか保障してもらえず、親父がこぼしていたのを覚えている。
店も住まいもなくした親父は、前横町のカワキ屋と言うクリーニング屋さんのお店を借りて商売(魚の配給業務)を続ける事になった。
カワキ屋さんのご主人は赤紙(招集令状)一枚で軍隊に招集されて、商売も止めていた。
当時その様なお店は結構多かったのだ。残された家族は勿論そこに住んでいたので、借りたのは、お店だけで住まいは別に借りる事になる。

そこで住まいとして借りたのが、七年程前に火事で焼けた、同情園跡地に建てられた、家作の一軒だった。
東向きに二階建の四軒長屋が一棟、その前に通路があって、突き当たりに南向き二階建ての三軒長屋が一棟、その一番右、通路の突き当たりの家が新しい住まいになった。
長屋ながら玄関があり、奥に台所があり、玄関の脇には小さいながらも庭らしきものもあり、建てられて何年もたっていないその家は、私にとってまことに新鮮であり、おふくろが、ものすごく喜んでいたのを覚えている。
すでに弟も生まれていたし、戦争も厳しさを増してきていたが(床下に防空壕を掘った)初めての「しもたや」(住む為だけの家)それが珍しかったのだ。
後々もこの家で過ごした時のことが良く話題になったことでも、その喜びがわかる。

しかし、この家には長く住むことはなかった。
戦争が益々きびしくなり、19年11月29日日本橋周辺が空襲に合い焦土と化した。
市場の帰りに、現場を目撃した親父はびっくり仰天し、このままでは家も焼かれ命も危ないと思ったそうだ。
暫くして、今度は千葉県の馬橋に疎開する。石浜の家には数ヶ月しか住めなかったのだ。疎開前後の事については、項を改めて記す事にする。

20年3月10日深夜の東京大空襲の時、疎開先の馬橋村幸谷の家の庭先で、真つ赤に染まった、南の夜空を見ながら、あそこあたりは新宿の方、あそこあたりは浅草だよ、と幸谷のおばあさんの話に耳をかたむけながら、お店も住まいも焼けてしまった、これでなにもかも無くなってしまったのだと思った。

同情園の火事の時と違って、空は一面に赤く、ときに強く、ときに広く、いつまでも燃え続けていた。東京は燃え続けていた。



思い出 2

続けて小学校の思い出を書こうと思ったのだが、小学校生活に特別な思いが無い。
勉強が出来たほうではないし、かといって落ちこぼれでもない。
スポーツは苦手だし、音痴だし、絵も下手だし、チビで、痩せていて、腺病質(今でいう虚弱体質)で、風邪を引いたといっては休み、扁桃腺が腫れて熱を出しては休み、年中休んでばかりいた。

卒業記念の写真にも、俺の顔は、右上に一人 丸枠に収まっている。
なんとも情けない有様だ。
学芸会にも一度も出たことがない。もっとも店が忙しい親にとっては、そのほうが良かったかな。
ただ運動会は好きだったな。徒競走も6人で走る時はいつも1番だった。たまに8人の時は、直ぐ後ろに早い奴がいて2番になった。

そんな俺だったが、卒業する6年の間には色々な事があった。
学校生活以外のことも含めて洗い出してみよう。

今のように、幼稚園や保育園が殆ど無い時代だから、小学校に入ると言うことは始めて集団生活に入ると言うことで、初めから嫌悪感を持っていた。
入る時には身体検査があって、裸になって注射を打たれると聞いて、行くのは嫌だと泣き叫んだ。
一つにはお婆ちゃん子として、一人っ子として、甘やかされて育てられた所為もあるだろう。
お婆ちゃんには良く浅草にお芝居(公園劇場、剣戟の金井修一座)を見に連れて行ってもらった。俺にはお芝居より帰りに寄る、松屋の「いちごクリーム」が目当てだった気がするが。
親父も母もお店が忙しかったから、小学校に上がる頃まで「姉や」がいたし、住込みの店員さんも常時3・4人はいた。
思うようにならなければ、なんでも泣いて我侭を通した。
そんな、やんちゃな、あまったれの俺をからかったのだろう。
考えようによっては、それだけ純情だったのだ。(と、自分を慰めている)

今の様にクラス替えもないから、1年から6年まで男子の2組だった。
ちなみに、男子3組、女子3組、計6組300人が同級生だ。

だが、俺にとってクラスメイトと言えるのは2組の前のほう、チビ組の連中だけだ。
彼等とは60年以上たった今も、家族ぐるみの付き合いが続いている。
だが、その仲間も、近頃は一人減り二人減りして、残った者も杖をつくようになったり、都落ちしたりして淋しくなってきた。
大人になってからの、彼等との交流については改めて記すことにする。

俺の子供の頃は、学校の友達は学校だけのことで、家に帰れば近所の子供達(幼友達)と遊ぶのが普通だった。
どこでも子供は「うじゃうじゃ」いるし、塾もないし(行っても算盤かお習字位)遊ぶ時間はたっぷりあるし、車は走ってないし(だから車道でいくらでも遊べた)天下の往来は子供たちのものだった。良い時代でしたね。
たまに車が通ると「良い匂いだ」と排気ガスを吸いながら後を追いかけたりもした。

なにより学校の友達と違うのは、近くに住んでいるというだけで、学校の違いも、年の差も、勉強の出来不出来も関係なく一緒に遊べたことだ。
ちょうど、一葉の「たけくらべ」の世界だ。
さしずめ俺たちは表組だ。表通りのお店の子供達が十数人でグループを作っていた。

学校から帰ってくれば、俺は元気だった。がき大将だった。
「じんとり」「どこゆき」「すいよこう」。「ちゃんばらごっこ」に「おにごっこ」。「三角ベースの野球」や「なわとび」「めんこ」に「べーごま」数え上げたらきりがない。紙芝居も楽しみだったな。

そんな頃(たしか3年生の時)御用聞きに出た店のMさんの後を4.5人で付いていった。
Mさんがお客さんの家に入った後、自転車のスポークが曲がっているのに気づいた俺が、直そうと指を差し込んだ瞬間、間が悪いことに古着屋のYちゃんがペダルを回し始めた。

俺の親指は吹っ飛んだ。その時は本当にそう思った。
血だらけになり、泣き騒ぐ俺の声に、Mさんが家から飛び出してきて、俺をかかえて医者に連れて行こうとした。
俺は嫌がったね、何故って、Mさんが行こうとしたのは俺の罹りつけの医者で、そこは店の前を通らなければ行けないのだ。親父に見つかってしまう(いずれ分かってしまうのに)俺は駄々をこねてO医院に運び込んでもらった。
以来O医院が俺の罹りつけになった。どうにも困ったガキでした(反省)。

しばらくの間は痛くて痛くて、学校も1週間くらいは休んだ。
まだ痛い指をかばいつつ学校に行った日、体操の時間があった。
見学にして下さいと言う俺に、先生は「なんだ指の1本くらい、戦地の兵隊さんは命懸けで戦っているんだぞ」。
情けなかったな。いくら戦時中とはいえ、痛いものは痛いのに。
それでも見学にしてくれて、ありがたかった。
今でも右の親指は寸足らずのままだ。

そのU先生にも召集令状がきて、後任の先生が来るまでクラスは各組に分散された。
俺は男子3組(S先生)に入った。元の2組に戻ったのは5年生になってからだ。

熊本からI 先生が見えた。
背の低い中年の先生で、生徒が騒ぐと「ためやんか」と大声で叫ぶ。
駄目じゃないかの方言で、そのまま「ためやんか」が渾名になった。
商業学校に進学の時(当時の学制は小学校6年までが義務で、その上に2年間の高等小学校、他に5年制の中学校、商業学校、工業学校などがあった。中学に進むのは、高等学校、大学と進むいわゆる進学組で、俺のような商人の子は商業へ行くのが普通だった。ただ5年制の学校はすべて入試制だった。) 俺が受験したS商業は合格発表が一番早く、合格したことを報告に教室に入ったら、先生は非常に喜んでくれて、大仰に俺を抱きかかえ、後ろの黒板に「合格 S商業 やっじっじ」と書き出してくれた。
この時は本当に嬉しかったな。小学校時代、皆の前で褒められたのはこの時だけだ。

いや、こんな事もあったな。幼友達と道端で落書きをして遊んでいた時、たまたまU先生が通りかかって声をかけていった。あくる日、教室で「やっじっじが、小さい子に勉強を教えたりして、良く面倒みていたぞ。とても良いことだ。」
何時もどうり、ただ遊んでいただけなのに。

支那事変が長期化してきて、内地もだんだんに戦時色が濃くなり、小学校の修学旅行も今年の卒業生から中止という噂が流れた。
それまで修学旅行は2泊3日の「伊勢・奈良・京都」が普通だった。
案の定、旅行は日延べになり、代わりに日帰りで「江ノ島・鎌倉」になった。
ところが、どうした風の吹き回しか中止は来年度からとなり、我々は「伊勢・奈良・京都」に行くことが出来たのだ。結果的に我々は修学旅行を2回したのである。
記念写真も江ノ島・鎌倉のほかに、二見が浦・若草山等、沢山ある。
おもけに卒業記念に箱根にも行った。もっともこれは希望者だけだったが。
学校側も通常行事は今年が最後と頑張ったのかな。
事実、後輩たちは全部中止になったようだ。時代は大きく変わっていったのだ。

修学旅行で一番記憶に残っているのは、奈良でのことだ。
宿に着いてから、班ごとの自由行動の時間が与えられた。
みやげ物やのおばさんの「よってらっしゃい、みてらっしゃい、みたからかえとはもうしません、みるはほうらくめのくすり、よってらっしゃい、みてらっしゃい」
その抑揚が面白く、意味もわからずに、皆ではやしながら町の中を歩き回った。
おかげで我が班は集合時間に遅れてしまい、先生から往復ビンタをくらった。
それでもめげずに、枕飛ばしが深夜まで行われたのは言うまでも無い。

この時期、俺にとって大きな出来事があった。
母が亡くなったのだ。
母は家業の無理がたたった故もあるが病弱で、昭和16年1月11日、33歳の若さで死亡した。俺が9歳、4年生の時だ。
亡くなる前1年程は、幸谷の実家で静養したり、都立大塚病院に入院したりした。
大塚病院への見舞いの帰り、振り替えって見たら、病院への小道に陽炎がたっていたのを鮮明に覚えている。病名は腹膜炎だから今なら直せたかも知れない。

母 の最期は家で看取った。今と違って当時はそれが普通だった。
店の奥の狭い部屋に母が寝ていて、危篤状態という事で大勢の親類縁者が集まっていた。
息を引き取る寸前、寝ていた母が突然半身を起こし、皆が慌てて押さえつけるようにして寝かせた。
それが最期だった。「ひろちゃんを残して行くのが、よほど気がかりだったんだね」そんな声が聞こえた。
優しい母だったが、一日中店に追われ、病弱だった所為もあり、なにより殆ど「おばあちゃん」に育てられた俺にとって強烈な印象は薄い。
亡くなったこの時も、悲しいというより、恐いというのがその時の気持だった。
今振り返って見て、幸せ薄い母だったなと思う。




その年の夏、親父は再婚した。お店にとっては、緊急事態だったろう。
病弱とはいえ必死になって働いた母が亡くなったのだから。
若い衆は3・4人いたし、親父と俺、女手はおばあちゃん一人。
直ぐにも後添えをと言う声がでても無理はない。でも今の時代ならこんな大変な家に来る人はいないだろう。
先妻の子供(俺の事だ)はいるし、姑はいるし、店は重労働の魚屋だし、若い衆は狭い家にごろごろしてるし、なにより貧乏だし、親父はのん兵衛だし、取り柄はなんにもない。

それでも世の中とは不思議なもので、こんな家にも来てくるれ人があった。
お客さんの一人、Mさんの奥さんが、自分の田舎長野に似合の人がいるというのだ。
お見合いをした様子も無かったから、経歴と写真だけで話はとんとんと進んで行ったようだ。
「おふくろ」がなんで、この話に乗り気になったのか本当の所は良く分からないが、敢えて推測すれば、こんなことかなと思う。
おふくろの兄貴(多摩川の叔父さん)が当時四谷でクリーニング店をしていて、おふくろも何度か手伝ったことがある。
東京のイメージが既に出来ていて東京に嫁に行く事にあこがれていた。
本家の兄貴夫婦と同居していて、歳も30過ぎて焦りが出ていた。
正直おふくろはそれほど美人ではなかったし、当時30を過ぎれば出遅れたという思いが強かった筈だ。
親父の写真に惑わされた?。背こそ低いが顔はそこそこだし。
そんなこんなで、仲人口に半分だまされて嫁いできたのだと思う。
おふくろが、来てくれる事になって、信州から熊のような大きな人が来るんだってと、若い衆が噂しあい、病弱な母に懲りた親父が、丈夫な人を選んだんだと俺なりに納得した。

結婚式の夜、隣の部屋で先に寝ていた俺の耳に、親父とおふくろの話し声が聞こえた。
親父はくどくどと俺のことを頼んでいた。いい子にならなければいけない 、俺はそう思った。親父に恥を掻かせる訳にはいかないし。
明くる朝、俺がおふくろに、「お母さん」と言葉をかけたらしい、そしておふくろが喜んでいたという話しを人づてに聞いた。
勿論入れ知恵もあったろうが、子供心にそうしなければいけないという思いがあったのだろう。

病弱な俺を心配したおふくろが、カルシュウム注射を打つことを奨め、O 医院に通うことになった。
毎日1本、100本打ちつづければ丈夫になるということで、毎日通い続けた。 この注射をお尻に打つと、足の先から体中がふわっとあったまってくる。
この注射が効いたのか、その後の乏しい食料事情(戦中戦後の)が逆に幸いしたのか、疎開先の空気が良かったのか、子供から大人の体に変わる(精神的にも)時期だったのか、いずれにしてもこの頃から、俺は少しづつ変わってきたような気がする。

おふくろには本当に感謝している。

小学校の思い出というより、その頃の思い出のほうが多くなってしまうが、昭和16年12月8日太平洋戦争(第二次世界戦争)が始まった5年生の頃までは、支那(現中国)で戦争が行われていても内地はまだまだ平和だった。

その頃、良く提灯行列が行われた。
上海が陥落した、南京が陥落したと言っては提灯行列が行われ、花電車が走った。
その最たるものが、昭和14年(1939)11月に行われた紀元2600年の記念行事だ。
これは国を挙げての祝賀行事だった。お祝いの歌もできた。
各町でも祝賀行列が行われたり、神社や古跡の修復が行われた。
今、近くの神社の境内にある鳥居、常夜灯、参道、石碑などすべてこの時につくられたものだ。
祝賀行列には魚屋の組合も参加した。夜になれば提灯行列、花電車と一日中賑やかだった。

それが太平洋戦争が始まってから、内地でもだんだんに戦時色が濃くなり、街をあげての灯火管制の演習が行われたり(真っ暗になった町に興奮して走り回った。)商店街を戦車が通ったり、小学校に偉い軍人さん(荒木大将)が演説に来たり、物が少なくなって配給制になったり(魚も)、尋常小学校から国民学校になったり、世の中がどんどん変わっていった。
「撃ちてし止まん」「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」そんな標語が町に氾濫した。

子供の世界でも、お小遣いを倹約して、お国の為に寄付することが、はやり始めた。
幼友達の中から、僕たちもやろうという声が出て、毎月少しづつ集めて陸軍省に持っていった。
「なかよし子ども会」(代表は俺)の名で寄付し、お礼に人数分の絵葉書(3枚くらいが封筒に入っていた)を戴いた。
ところが髪結いさんの子のS枝ちゃんの分がない。寄付が毎月ではなかったので、人数に入れなかったのだ。お母さんが怒って来たが、あれはどう解決したんだっけな。
みんなで、流山(T洋品屋さんの田舎)や馬橋(後の疎開先、母の田舎)へ「芋ほり」に行った事もある。

子供の世界はまだまだ平和だったが、大人は大変だ。
お店のYさんや、Mさんにも赤紙が来て、出征していった。
町会主催の出征兵士を送る送別会が、神社の境内で、毎日のように行なわれていたのだ。
Mさんの時は、町から5名の人が同時に入営するという事で、合同の歓送会が行なわれた。
うちの親父が、5名の親戚を代表して挨拶する事になった。普段は結構しゃべるし表通りで魚屋をやっているという事で皆さんに推されたのだろう。
うちの親父が大勢の人の前で挨拶するなんて、見たことも聞いたこともなかったので少し自慢だった。という事で、友達を誘って見に行ったのだ。
お宮の前に晴れの5人が、見送りの大勢の人と向き合って整列し、町会長や在郷軍人会、国防婦人会等の代表のはなむけの挨拶があり、いよいよ出征兵士の親族を代表して(Mさんの親御さんは田舎に居たので親父が父親代わりだった)お礼の挨拶をする為に、親父の名前が呼ばれた。
背の低い、貫禄の無い親父がチョコチョコと歩み出て、『今日はどうもありがとうございました』と、だけ言うと、ぴょこんと頭を下げてさっさと席に戻っていった。
なにか肩すかしをくったみたいで、友達なんか誘って来るんじゃなかった、他の人みたいに、家に居るときみたいに、もっと威張ってもっとしゃべれば良かったのにと、少しがっかりしたのを覚えている。

昭和17年8月、弟が生まれ俺は一人っ子ではなくなった。

そして、18年3月 I 国民学校を無事卒業することになった。



嵐の前の静けさ
S商業1年の時


S商業の受験の時、T商業やK商業など神田地区の2.3の学校の願書も貰って来た。それまで一人で電車に乗ったり、知らない街を歩いたりしたことのない俺にとって、これは大冒険であり、一人前の男になったような高揚感を覚えた。
戦前の子供の行動範囲はそれほど狭かったのです。
俺の町では考えられない、高いビルが並んでいるし、銀杏並木も綺麗だし、学生やサラリーマンなど、歩いている人達も違うし、なにか外国に来たような気がした。
浅草(それも誰かに連れられて)意外の東京は知らなかったのだ。
S商業の受付で願書を貰っていたら、在校生が声をかけてきた。
その制服を見てビックリ、背広にネクタイ、カッコいい!
「何処と何処を受けるの、この学校は良いよ、頑張りな」
とたんに俺の気持は固まったね、ようし頑張って、この制服を着てこの街を歩くぞ。
俺って単純なんです。
なのに、受かってみたら、この年から制服は普通の国民服(学生服)になった。贅沢は敵になったのだ。
ただ何人か、兄貴がこの学校の先輩の奴が、お古ではあるが背広にネクタイで登校してきた。くやしかったな。
入学祝に絵描きの叔父さんが参考書(地図帳)を買ってくれると言うので、神田や早稲田の古本屋街を捜し歩いた。叔父と一緒に学生街を歩いて、俺も一丁前の学生になったような気がした。
すでに物が不足してきていて新刊は手に入らなくなっていたのだ。
入学試験も紙が大切だと、筆記試験は無く口答試験のみ、当時吃音がひどかった俺は非常に不安でしたね。
それでもなんとか合格して、この学校に通うことになった。

環境が変わるとこうも違うのかと言うほど俺は変わった。
第一に健康になった。1年生の1年間、俺は無遅刻、無欠席。皆勤賞を貰った。
小学校時代には考えられないことだ。
そのせいか勉強も分かるようになった。小学校と違って、学科毎に先生が変わるし、(どの先生も個性があって素晴らしかった)簿記とか商業法規とか実務的な勉強も好きになれたし、漢文、英語(これは苦手だった)、それに教練など一からの勉強が多く俺なりに意欲がわいた。
小学校と違って、通信簿に席次表が載っていて、俺も上位にいることが分かり、身の丈にあった学校に入って良かったなと自信を持った。
クラブ活動は無かったけれど、武道の時間があり、剣道か柔道のどちらかに所属した。
俺は柔道部に入った。
何ヶ月かして、同じクラスで柔道部にいた、H君と仲良くなり(帰り道が浅草橋まで一緒だった)少し早く終わったので寄り道をして行くことになった。
京橋に出て、二人でボートに乗ったのだ。今では埋め立てられているが、戦前はまだ掘割があり、貸しボート屋さんもあった。京橋の脇には京橋警察署が建っていた。
ボートを漕いで遊んでいたら、警察の窓からお巡りさんが「これ上げるから」とお菓子を差し出した。丁度俺が漕いでいたので、側によりHが手を伸ばした瞬間、その反動でボートが離れてしまいHはあわてて手すりに掴まったまま下半身は川の中へドボン。
なんとかお菓子を貰い、Hも助かったが楽しい思い出になった。
教練の演習で習志野(当時陸軍の演習場)に行った事がある。日中は厳しい演習にあけくれるが、夜中に肝試しと称して一人ずつ野っ原を歩かされる。そんなこともあった。 今で言えば、自衛隊体験入隊と言った所ですかね。

夏休みに、初めておふくろの田舎長野に行った。それも一級下の女の子を連れて。と言っても怪しまないで下さい。親父達の仲人Mさんの娘で、送っていっただけです。
初めての夏の信州は(正月に家族で行っている。その時は厳寒の信州にびっくりした。)神田の町を初めて訪ねたときと同様のカルチャーショックを受けた。
連なる山々、澄んだ空気、小川のせせらぎ、東京や馬橋(母の田舎)では感じることの出来ない大自然の素晴らしい景色が広がっていた。
いずれにしろ、まだまだ子供だった俺にとって充実した平和な(勉強も遊びも)時だった。

だが、世の中は大きく動いていた。それまで兵役が免除されていた大学生にも出陣命令がだされて、10月21日 雨の神宮で出陣式が行われた。
12月に家で働いてくれていたE代さん(おふくろの姪)も田舎に帰ることになり、上野駅まで見送りに行った。この時の光景は忘れられない。
「キイット勝ちます、勝アーたせます、キイット勝ちます勝たせます」
繰り返しくりかえし、この言葉だけを歌いながら、駅のコンコースいっぱいに、幾十となく輪になって(その輪の中心に出征してゆく大学生がいる)まるで気でも違ったかのように踊り狂っていた。
出征して行けば最前線に送られて、生きて帰ってはこられないことを知っているかのように。
戦時中ゆえの悲しい事件も起きた。俺の斜め前の席にK君というのがいて、無線通信に興味を持っていた。自分で組み立てて内緒で楽しんでいたらしい。ところが特高かなにかに見つかりスパイの容疑で取調べを受けた。
そのことが原因かどうかは不明だが、その後自殺した。はっきりしたことは分からないが。

明けて昭和19年1月には、国民勤労動員令が出来て、店のYさんも徴用されて軍需工場へ行った。魚も隣組単位の合同配給制になり、余った人手は軍需工場に徴用されていった。
それまで魚屋のご主人だった人が、一工員として馴れない仕事に引っ張られたのだ。
それほど、物も人手も逼迫してきたのだ。特に最前線で戦う兵隊さんや軍需物資を作る人達が。
幸い内の親父は、魚の配給業務員として、そのまま残ることになった。
そして3月7日に、学徒動員令が出来て、学生も勉強だけをしていればよい時代では無くなってきた。
S商業も新年度(4月)から強制的に工業学校になった。商業など要らない時代になったのだ。

風雲急を告げる時代に入ってはきていたが、俺の学生生活で最も充実した一年間はこうして終わった。



打ち寄せる嵐
二年生の時


工業学校になったからと言って、建物が変わった訳でもないし、設備が新しくなったわけでもない。先生も変わった様子はなかった。
今これを書いていて、製図の勉強など誰に教わったのかどうしても思い出せない。
ただ、工業学校になるということで、T定規や三角定規、コンパスなどを揃えた。
コンパスのセットなど中々手に入らず、家の近くにあった卸元で中古を手に入れた。
一年生の時勉強した、商業系の学科は全て無くなり、製図などを習い始めたのだ。
油っ手の俺は、図面を書いているうちに紙が汚れてしまい、手こずったのを思い出す。
そして、元々商業の学校に機械設備などあるはずもなく、二学期から実習という名目で工場に行くことになった。
機械科と電気科に分けられ、(一組は電気科、二組は機械科、三組は半分ずつに分けられた)機械科になった俺は下落合にあった「関東重工業」に行くことになった。

この頃から日本の戦況は極端に悪くなり、本土空襲は現実のものに、本土決戦さえ視野に入れた非常時になっていった。物資も極端に少なくなってきた。
4月には「京浜地区居住者強制疎開令」が、7月には「学童集団疎開令」が出され、小学生も田舎のある子供は田舎へ、無い子供は集団で地方へ疎開するようになった。

「関重」(関東重工業の事、以下こう書きます。)へ行くのには、南千住から日暮里へ出て、山手線で高田の馬場へ、西武新宿線に乗り換え下落合下車、徒歩10分くらいだった。
初めての遠距離通勤だ。当時の下落合は、まだまだ田舎で「関重」の近辺にも畑が沢山あり、農家も点在していた。
関重で最初にしたこと、それは「ヤスリ掛け」だ。万力に、小さく切断した丸棒を挟み、ヤスリで真四角の鉄のサイコロに仕上げるのだ。なんにも知らない商人の子供を相手に工場に馴らさせる苦肉の策だったのかな。
一週間くらい後から、工場内の色々な機械の扱い方を教え始めた。
元々「関重」はプレス工場で、大型の「水圧プレス」や「シャーリング」、旧型の「けとばしプレス」をはじめ大小様々なプレス、そして溶接設備がある軍需工場としては中規模の工場だ。
ところが、この急激な変化に俺の体が付いてゆけず、一年何ヶ月ぶりかで休んでしまった。
あくる日、昨日の復習として「シャーリング」の体験実習があった。
前日休んでいる俺は見よう見まねで、前の奴の通りに動いた、つもりだった。
「なにやってんだ」指導の工員さんが青くなって怒鳴った。
俺の左手は、厚い鉄板も一刀両断の大きな刃の真下に差し込まれていたのだ。
もし、そのまま右足のペタルを踏めば左の手首は完全に無くなっていただろう。
そのことに気が付いた俺も真っ青になった。
幸い前日休んだ事を知った指導員は、それ以上俺をとがめる事は無かったが。
教室内と違った、現場の怖さを知った瞬間だった。
しばらくして、我々も工員の一員として作業のラインに乗った。
俺の仕事は切断された鉄板を電動プレスを使って円筒状にする作業で、第一工程だ。
出来た製品は溶接に回され、研磨に回されて完成された製品になる。
この製品(長さ1メートル位、直径10センチ位)が何に使われるのかは軍事秘密で我々には分からない。仲間内では飛行機に取り付けられ爆弾を吊るすのだとか言われていたが、重いし本当の所はいまだに分からない。

「関重」に行っていた4ヶ月ほどの間に嬉しいこともあった。
月に一度くらい「くずもち」の特配があった。すでに食糧事情が逼迫していて、何を買うにも配給切符が無ければ買えない時代になっていたが、軍需工場で働いている人には「特別配給」といって切符なしで物がきたのだ。
近くに「くずもち」屋でもあったのか「関重」には出来立ての「くずもち」が一人一枚ずつ特配された。
家に持ち帰って皆で食べた。砂糖や黄粉が無くっても(そんな物は手に入らない)あの時食べた「くずもち」の味は忘れられない。
いまだに「くずもち」は大好物だし、黄粉がなくっても蜜や砂糖が無くっても美味しく食べる事が出来る。
女房や子供達は不思議そうにしているが。




4月に出された「京浜地区居住者強制疎開令」が急速に具体化され、9月頃からアサヒ会通りも取り壊される事になった。(思い出1に記載)
同じ隣組に写真屋さん(飯島さん)があって、秋元お茶屋さんの角で記念写真を写していただいた。
俺はすでに「関重」に勤めていたので写っていないが、戦前の貴重な写真になった。
長年住み続けた多くの家屋、現役のお店もアッと言う間に取り壊されて空き地(防火帯)になった。只1本残っていたお風呂屋さん(五色湯)のエントツもロープに繋がれ引きずり倒された。
11月29日に日本橋周辺が空襲に会い焦土と化した。焼夷弾による本格的な東京空襲が始まったのだ。
前にも述べたが、親父が河岸の帰りに現場を目撃してビックリ仰天、東京にいては命も危ないと、急遽母の実家松戸市幸谷(新松戸)に押しかけ疎開をすることになった。
12月のある晴れた日、親父が手配した牛車に荷物を満載して、弟は荷物の上に、下の弟(5月に生まれた)を背負ったおふくろと俺が牛車につきそって幸谷まで歩いていったのだ。
突然の来訪者に幸谷のおばあさんはびっくりしただろう。戦争末期だからこそ出来たことで今では考えられないが、当時は命からがら田舎へ疎開する人はごまんと居たのだ。
幸谷の家でも跡取りのMさんが出征していて農作業は出来ない状態だった。
さっそく空いていた納屋を貸していただく事が出来た。天井もない、荒壁いちまいの、そして電気も入ってない家だが、とりあえず荷物を運び入れて落ち着く事が出来た。
親父もここから浅草に通うようになった。
電気も無い家にどうやって暮らしたのか?。(電力会社に申し込んでも直ぐには敷いてくれない)親父が無い知恵をしぼりだして考え付いたのは、鯨にたよることだった。
魚の配給品に塩蔵の皮鯨があった。今では貴重品だが、戦前の関東地方にはこれを食べる習慣が無かったから売れ残ったらしい。これを貰ってきた親父は、薄く切って鍋でいためて油を採ったのだ。皮鯨は全部脂身だから、かなりの鯨油が採れた。採ったカスも食べる事が出来た。その油を小皿に入れて帯芯の切れ端を浸し火をつけて灯りにしたのだ。
教科書に出ている弥生時代の生活に後戻りしていた。この生活は戦後になって電気が引けるまで続いた。

そして俺は1月から南千住の旧王子製紙、「王子兵器」に実習ではない学徒動員として働く事になった。
隅田川に面した広大な敷地に、製紙工場当時の工場群が建ち並び周りは赤レンガの塀に囲まれた大きな工場だった。(現在は、警視総監が撃たれたことで有名になった億ション群になっている)
隣は陸軍の繊絨工場(元はラシャ場と言われていた)だった。
だが、製紙時代の名残は、川に面した空き地に転がっている大きな丸太だけで、工場内には兵器(主に機関銃の弾丸)を作るための機械だけだった。
その中の一つ、ターレット旋盤で弾丸の先頭部分を作るのが俺の受け持ちになった。
「関重」同様、一番骨の折れる一番汚れる第一工程が、一番体力の無いチビ組に回されたのだ。一番楽な、座ってでも出来る検査が、体格の良いデカ組だった。
当時それほど感じなかったが(これは嘘、検査組は製品が出来なければ仕事がないわけで、暇になると用も無いのに我々の所に来て油を売るわけで、頭にきていた。)思い返せば、こんな不合理なことをやっていたから戦争にも負けたんだ。思い出して又頭にきた。
なにしろ、このターレット旋盤という奴、六本のドリルと切断用の刃があって、切れなくなる度にグラインダーで砥がねばならない。戦時中で素材も悪かったのか中々能率が上がらなかった。
この頃は征空権もアメリカの物になり、常時空襲警報が発令された。最初の内はその都度防空壕に逃げ込んだが、そのうちに慣れてきて「退避」の号令がかかるまでは作業を続けるようになっていった。空爆が始まってから「退避」の号令がかかるのだ。
ある日、防空壕に退避していたら飛行機が落ちてくるという。みんな表に飛び出して空を見上げると一機の飛行機が煙をあげて落ちてくる。当然敵の飛行機と思って喜んでいたら、翼に日の丸が描かれていた。そして、そのまま目の前の隅田川に機首から突っ込んでいった。大きな大きな水煙が上がり、そこに七色の虹がかかった。
陸地に激突すれば被害が大きくなることを恐れた操縦士が、自ら川に飛び込んでいったのだ。(合掌)
この頃になると、敵機から宣伝ビラが良く撒かれてきた。漫画(偉い軍人さんが芸者を抱きながら一杯やっている脇で、兵隊さんが戦っている)とか、もうすぐ日本は負けるのに皆騙されていると書かれたチラシとか、そんなビラが、キラキラ光る銀紙(レーダー妨害の為とか)と一緒に空から降ってきた。
本当は拾ったり読んだりしてはいけないのだが、さっと目を通した後で先生に届けた。
学生とは程遠いこんな生活の連続だったが、思春期の男としての密かな楽しみもあった。
この工場には我々のほかに、J女子高やS女子高の生徒も動員されてきていた。
たまに、意図せずに偶然に(本当です)女子生徒と一緒に狭い防空壕に入った時など、空襲中にも関わらず異様に高ぶったものです。作業しながら仲間内で、JよりSのほうが綺麗な子が多いとかなんとか盛り上がるのです。
元来S女子高はキリスト経系のお嬢さん学校で美形が多かった。
こんなことも見た。昼食後の時間に食堂のカーテンを閉めて、中でミサをしていた。
表向きはともかく、ミサは途切れることなく続けられていたんですね。
13・4になっていた俺等は子供から大人に成りかかっていた(戦争には関係なく)。
女性に興味をを持って当たり前、俺も疎開先の納屋で密かな独り遊びを始めていた。

3月10日のことは、前にも記したが、あくる日親父は焼け跡を見に行った。家の近所は焼け野原になっていて、まだ熱くて焼け跡に入る事も出来なかったようだ。ただ防火帯(強制疎開地)のお蔭で所々、まとまって焼け残った地域もあるとのことだった。
三日ほどあと、俺も親父と一緒に焼け跡にいった。なにか使えるものが焼け残っていないか探しに行ったのだ。勿論あるはずも無かったが。
ただこの時、南千住の駅から自宅の焼け跡に向かう途中の道端に、男女の区別も分からない程、真っ黒になって焼け焦げた遺体が、そこここに転がっていた。どうする事も出来なかったが。
数日後、これ等のご遺体を玉姫公園に運んで埋葬しているのを目撃した。(後日、この御遺体はお骨にして震災祈念堂に合祀したそうです)
工場の周りも被災したが、工場は焼け残って無事だった。

こうしてS工業の二年生としての一年間は過ぎていった。



メリケン嵐か神風か
三年生の時


4月になって三年生になったからといって、終業式も始業式もやるわけじゃないから、工場生活に特別変化はない。
土曜も日曜もない、まして春休みもない「月月火水木金金」の毎日だった。
ただ遠方に疎開していったり、戦災で亡くなったりして、工場に来る人数は段々に減ってきた。
4班に分かれた各班の班長が、その日の出欠席を毎日昼食後に先生に報告することになっていた。俺も班長の一人だったが、ある日、皆で駄弁っていて4人の班長が揃って報告に行くのが遅れてしまった。この時は怒られたな。職員室は合同だったから、よその学校の先生方のいる前で怒られるのはこたえた。
4月の半ば頃だったと思うが身体検査があった。後で分かったことだが、この検査の結果、健康に問題のない半分位が夜勤組に回された。俺もその中にいた。
一台の機械を2交代24時間フルに使って生産を高めるのだ。
夜勤組が何時から何時まで働いたか、はっきりとは覚えていない。
ただ夕方家を出て、明けてから帰宅することに変わりは無い。
よく言うのだが、この頃の癖が俺を夜型人間にしたのだと思っている。
只一つ嬉しいことに、毎日、夜中に夜食が出るのだ。具の入っていないただの「素うどん」だが、食べ物に飢えていた若者にとって、この暖かな「素うどん」は美味しかった。

戦況ますます利あらず、本土決戦も近いと感じ始めた頃、こんな事があった。
王子兵器に慰問団が来た。それも真夜中、夜食の終わったあとに、その一行は来た。 元オペラ歌手の四谷文子と言う方を中心とした慰問団で、俺にとって馴染みは無かったし、歌った歌も覚えていない。
ただ、そのあとの男の歌手の唄が妙に脳裏から離れない。
「吹けよ吹け吹けメリケン嵐、どうせ吹いても迷い風、大和島根はゆるがぬ島よ、吹けよ神風どんと吹け、どんと吹け、エイ エイ オー」
曲も歌詞もいっぺんで覚えてしまった。
特に最後のエイエイオーのところで、やせ細った身体でコブシを振り上げる様子が、歌詞と反比例してなんともやるせなく、悲しげに聞こえた。
日本は大丈夫なのかな?そんな気持が頭をよぎった一瞬だった。

沖縄本島に米軍が上陸し、広島、長崎に新型爆弾(原爆)が投下され、ソ連も参戦してきて、それでも本土決戦での逆転勝利を信じていた8月14日、明日の正午に玉音放送があるから必ず聞くように言われた。
15日のお昼前、夜勤明けの眠りをさえぎられて、起こされると、庭にラジオが置かれていて、みんな集まっていた。
ラジオからの玉音は雑音が多く、はっきりとは聞き取れなかったが、一億玉砕ではなく、連合軍に降伏するのだという事は分かった。
負けたのだ。声も無かった。どうすれば良いのか、これからどうなるのか、皆が呆然としていた。
とうとう神風は吹かなかった。




2・3日して工場に行ってみた。先生も来ていて、9月から学校に戻るように言われた。
工場では出来上がった弾丸も未完成の弾丸も防空壕に埋めていた。 占領軍が来て戦争協力者として処罰されるのを恐れたのだ。

敗戦が決まってからの、疎開先幸谷での生活は様変わりした。
疎開している理由が無くなったのだから。
家が焼け残った人はどんどん戻っていったし、あらゆる伝を求めて、お金を使って東京へ東京へ引き上げていった。
ただ我が家のように、家は焼け、伝もなく、お金も無い家だけが、何時まで居るのといった白い目で見られ始めた。
外地からもどんどん復員兵が引き上げてきた。幸谷の家でも出征していたMさんが帰還してきた。
日を置かずして結婚し、(結婚適齢期の男女がいっぱい居た)農家として働き始めた。
どうしても納屋を空けなければならなくなった。
幸谷のおばあさんにしてみれば、俺が孫というだけで、娘(俺の母)は既に亡くなっているのだから。俺にとっても子供の頃から慣れ親しんだ幸谷の家がこんなに居ずらかった事は無い。この時期、おふくろにとって幸谷は「針のむしろ」だったろう。何も言わなかったが、つらかったと思う。
さすがに親父もあせったようだ。たまたま電車の中で出会った元のお客さんEさんに頼み込んで、一時同居させて頂く事になった。11月頃だったかな。
Eさんは、戦時中疎開先として松戸市内に一軒家を借りていて、既に同居していた長男夫婦は東京に戻り、お孫さん(4歳位だったかな)との三人暮らしだった。
そこの一間、長男夫婦の居た部屋をお借りする事になった。

9月になって、学校に戻ったが(元の商業学校になった)なにを教えたら良いの か、なにを勉強したら良いのか、学校も生徒も、もちらん国も分からなかったと思う。
しばらくの間、焼け跡整理や焼け跡に畑を作ったりしていた。
皇居前広場にも畑を作りに行ったな。
戦後の学校は暫くの間、無秩序な状態が続いた。それまで「撃ちてしやまん」「鬼畜米英」「天皇陛下の御為に命を捧げろ」と言っていた、同じ先生が百八十度違うことを言うのだから、付いて行けるはずもない。
戦前の教科書の頁を墨で塗りつぶし、あるいは糊で貼りあわせ、昨日までのことは全て間違い、これからは天皇陛下中心ではなく、国民中心の自由な民主主義の時代になると言われても。
まして明日の食べ物もなく、遠い疎開先からの通学であり、疎開先で転校したり、退学したり、亡くなった者もいて、戦前三クラスあったクラスが一クラスになっていた。
勉強などする雰囲気ではなく、反発する生徒のストライキもあちこちの学校で起きた。
始業時間に遅れてくる者も多くいた。疎開先から神田まで通学するのは当時の交通事情では大変なことなのだ。同級生の中には土浦から通って来る者もいた。
遅れてきた生徒は、そのまま屋上に出て一時間目をやりすごし教室に入る。寒い時など古い机や椅子を薪代わりにたき火をして寒さを防ぐ、タバコは吸う。俺も良くその仲間にいた。(奇妙に俺はタバコは吸わなかった)
教室に入っても勉強についていけないのだ。二年生から敗戦の三年夏まで勉強などしていないのだから。数学などいきなり微分積分といわれても分るはずもない。
休まず通学するだけで優等賞状をもらえる状態だった。
その頃の俺は勉強する気などまったくなかった。二時間目にも間に合わない時はズルして町中をほっつき歩いた。お金もないからほっつき歩くだけだ。
その頃横浜には良く行った。なんで横浜だったのか、良く分らないが。戦後一時期の横浜、それも今の中華街近辺は戦前抑圧されていた朝鮮人や中国人が外国人として認知され一種の治外法権地になっていた。昼間から街頭で公然と博打が行われていた。マジックまがいの小道具を使って、素人から金を巻き上げる大道博打だ。そんな露天が焼跡に幾つも出ていて、見ているだけでも結構面白かった。
電車賃がもったいないから良くキセル乗車をした。もう時効だよね。
金町で途中下車しては駅前の古本屋で戦前発行の「新青年」を立ち読みしたものだ。
大胆にも期限切れの定期で途中下車して見つかったこともあった。この時は確か罰金を払ったな。自動改札機では絶対に無理な大昔の話です。

親父の仕事も時代に振り回されてころころ変化していった。
戦時中の統制が徐々に解除され、さかなの統制も11月20日に解除された。
自由販売になったのだ。ところが市場に魚は入ってこない。
正規の流通ルートは、ずたずたになっていて、闇市全盛の時代になっていったのだ。
日本堤の魚屋は戦時中の名残もあって、焼け残った二軒のお店や、駅前の露天で組合単位の商売をしていた。

明けて昭和も21年になり、Eさんの所にも居ずらくなり(一月位といって頼み込んだらしい)再度、こんどは浅草の本家に頼み込んで、清川に戻ってきた。
本家の家は、焼け跡のこの地を借りる事が出来て、防空壕を直してそこにTさん夫婦が住んでいたのだが、この春、住まいと工場の二棟を建てて、すぐ隣に引っ越していった。
そのバラックに我が家が引っ越すことができたのだ。
「狭いながらも楽しい我が家、愛の光の差すところ」親父がほろ酔い機嫌になると良くこの唄を歌っていた。
立てば屋根に届くほどの低い天井、小さな窓、雨戸一枚の出入り口、六畳くらいしかない狭い部屋(青テントを想像してください)されど親父が言う通り、だれにも気兼ねの要らないこの家は、久しぶりの一家団欒を味合うには十分だった。
ちゃんと便所もあった。幸谷の家でも松戸の時も、貰い便所で、随分遠慮して苦労した我が家の家族にとって、それだけでも極楽だった。
ただ周りは全部焼け野原、所々にバラックがポツンポツンとあるだけ、たまにお風呂に行くにも三ノ輪まで行かねばならず、風呂の帰り、家に着くまでにタオルがカチンカチンに凍ってしまった。この冬はそれほど寒かった、と言うより吹きっさらしだったんだものね。
3月16日 再び魚が統制されることになった。
どうにもならない戦後の混乱期が過ぎ、戦後復興に向けて、世の中が少しずつ動き始めたのだ。
学校も少しずつ落ち着きを取り戻してきた。富国強兵の日本から、文化国家日本として、日本を再建するのだと声高に言われ始めた。

激動の一年間、三年生時代はこうして終わった。
振り返ってみれば、本当に大変な一年だったが、日本中が同じような目にあっていたわけで、中にはもっともっとひどい目にあった人達も大勢いたから、なんとか頑張る事が出来たのだと思う。
昭和19年頃からこの頃までの日本の家庭は何処でもそうだが、ご多分にもれず我が家にとっても一番大変な時期だった。親父にとっても決断の連続だったろう。妻子をどうやって戦火から守るか懸命に努力した日々ではなかったかな。色々と世間並みの苦労はあったが、怪我一つせず、家族揃って戦後を迎える事ができたのは親父のお蔭だ。



嵐去れども
4・5年生の時


戦後の混乱期が過ぎたといっても、少しずつ落ち着きを取り戻してきたと言っても、生活が変わったわけではない。これから長い間続いた、敗戦国日本の貧しいつらい生活に慣れてきたというだけだ。
S商業に入ってからの3年間は、やたら記憶に残っているのに、4年生のこの時期の記憶があまり無い。
勿論、学校には通っていたのだが、勉強もしていたはずだが、これといって思い出せない。
ただ流されて、なんとなく通っていただけだったのだろう。
食糧難は相変わらず続いていて、正規の配給だけでは食べていけず、闇で買ったり、田舎に買出しにいったりしていた。闇の品は高いし、買出しに行けば捕まるし、それでも行かなければ食べるものが無いし、皆が食べることに必死の状態だった。
買出しに行くにもお金だけではなく、焼け残りの着物を持ってゆくのだ。 戦前、貧しかった農家は、都会の人の持ち込む着物に喜んで物々交換に応じてくれた。ただ、それも最初のうちだけで直ぐに飽和状態になって、着物の値打ちは下がっていった。
戦中戦後の食糧難の話になると必ず出てくる「すいとん」「いもごはん」「豆ごはん」。
どれも今考えられる品とはまるで違う。例えば「いもごはん」はごはんにお芋が混ざっているのではなく、いも(それも農林1号という大きいだけで不味い芋)の回りにご飯粒が付いているだけです。
「すいとん」も色が着いただけの汁の中に、黒いだんごが浮いているだけです。
配給の玄米を一升瓶に入れて、ハタキの柄を差し込んで突っついて、自家精米をせっせとやったり、
買い出してきたイモを、帰路、南千住の交番で没収されたりしたこともあった。
俺は経験がないが、買出し列車に一斉検査が入り、捕まるのを恐れて、一生懸命に手に入れた食料を捨てて逃げる人もいた。
この時期のことだったと思うが、法に携わる者が、法を犯すわけには行かないといって、配給品だけで生活し、餓死した検事が出た。こんな凄い人もいたのだ。そんな時代だった。
この年の夏は暑かった。特に我が家は。なにしろ屋根は板葺きの上にタール紙(トタン屋根の下張りに使う紙)が張ってあるだけ、低く窓も小さく、蒸し風呂に入っているのと同じだ。バケツで何杯も屋根に水を撒いて暑さを凌いだりした。

そうこうしている内に、5年生になった。
占領軍の統治下に置かれた日本も、その政策に沿って変わっていった。
22年4月から教育制度も六三三制度になった。S商業も我々が最後ということだ、ただ希望すれば1年余分に在籍して、S高校卒業の資格が貰える事になった。
この制度を利用したのは、商業5年で大学受験に失敗した奴が、1年留学して新生高校卒業の資格で再度現役で受験したくらいだ。
制度改革の一環なのか、クラブ活動も行われるようになった。俺は文芸部に入った。
5年生だけのクラブ活動で十数人いたのかな、I 君が部長になり、文化祭(といっても小学校の学芸会のようなものだった)を取り仕切ったり、文芸新聞を出したり、校内放送を流したりした。
俺にとっては新聞発行が面白かったな。A4版一枚の新聞だが、ちゃんとした印刷物で、原稿取り(校長先生や部長先生)やら生徒からの募集、原稿用紙に清書して字数の確認、校正、割り振り、印刷所との連絡、交渉など、パソコンなど無いアナログの時代、一から十まで初めてのこと、喧々諤々で楽しかったし為になった。隔月に3・4回出したかな。

5月3日に、新しい日本国憲法が発布された。
今、改正(改悪?)問題で揺れ動いている憲法も、当時の日本人にとっては明るい日の光が差してきたと、大喜びしたものだ。
もしあの戦争に勝っていたら、軍人さんだけが大手を振って、負けた今より住みずらいと誰もが感じていた。
戦争に負けて生活は苦しかったが、それは皆同じであり、戦前戦中の暗い世相を振り返れば、日本人にとって、この時ほど未来に明るい希望を感じたことはなかったのではないか。
学校にも新しい先生が入り、大学受験を目指す生徒や、就職する生徒は真面目に勉強をするようになった。
俺のように家業を継ぐことが決まっていた奴が一番不真面目だった、かな?
S商業の卒業旅行は箱根芦の湯「松坂屋旅館」に行った。記念写真を見る限り、俺は不良学生だったようだ。
夏休みの頃から、I 先生(商業簿記、あだなは、かあちゃん、なにかというと「かあちゃんに買ってもらった…」 から始まるのでこのあだながついた)に誘われて良く山に行った。
皆まだ山の装備など無い時代だ。
大菩薩に行った時のことは良く覚えている。
奥多摩の方から昇り始め、未完成で工事中の小河内ダムを下に見て、頂上の山小屋で泊まる予定が、真夜中になってしまい、見当たらずに露営することになった。
そこらへんの小枝を集めて飯盒炊飯して、たき火をしながら一夜を明かした。
明け方、正面に富士の雄姿があった。素晴らしかったなあ。そして直ぐ下に予定していた山小屋の屋根が見えた。帰りは塩山に降りた。
昇仙峡から増富を回り通仙峡に出た時は素晴らしい紅葉だった。
谷川岳に行こうと水上に降りた時、雪が降ってきて、登山はあきらめ湯沢に行ってスキーをすることになった。スキーを着けたのはこの時が始めてだ。
スキー靴など無く、軍靴にベルトで締めていくのだ。リフトなどまだ無い時代だ。それでも始めてのスキーは面白かった。くたびれたけど。
帰りに土浦から参加したY君が我が家にとまっていった。新築の家に。

22年4月には、教育制度だけではなく、食料政策も変化した。
魚の配給も基準さえクリヤすれば、誰でもが出来るようになった。
個人営業、所帯別の自由登録になり、魚屋も基準である300所帯、1500人以上の登録を得なければ配給店になれないことになった。
親父もうすうす感づいていて、少し前から店を出すべく土地を探していたのだが間に合わなかった。
まだ本家のバラックに住んでいて、お店も無く、おふくろを督励し、戦前のお客さんの伝を頼ってなんとかこれをクリヤしたのだ。
そして7月、戦前の場所とは少し違うが、同じアサヒ会通りに借地して家を建てる事が出来た。家といっても今で言えばバラックで、屋根もトントン葺きという瓦を載せる前の状態だ。
平屋で間口二間半奥行き三間、三尺の土間に六畳四畳の二間、便所と土間の台所が付いた家だった。
だが卒業記念に写した写真の裏書に「木の香薫る新築の家にて」とあるのでも俺の嬉しさが分かる。
家を建てるにあたっては、おふくろと同郷のMさんのご協力を戴いた。
この頃になると副食品もかなり出回ってきて、配給の魚も良くなければ売れなくなり、配給品を拒否しはじめた。鮮度の良い魚は相変わらず闇で出回っていたのだ。
表向きは配給品や市場で拒否品になった魚、裏では闇の魚を扱ってお客さんのニーズに合わせていた。
明けて23年4月、S商業を卒業した俺が魚屋になった時は、そんな状態だった。



魚屋になって
23年3月、S商業をなんとか卒業して、17歳を迎えた俺は代々の家業である魚屋になった。魚屋に生まれ魚屋で育った俺は、魚屋になることに、なんの抵抗も感じなかった。
当時、長男は親父の家業を継ぐのは当たり前なのだ。今と違って。
まして頭のあまり良くない俺に迷いはなかった。
ただ戦前の自由な時代と違って、この時はまだ統制中だ。自由な商売はできなかった。 経済的には苦しかったが、逆に自由な時間はたっぷりとあった。
急激なインフレを抑えるために統制経済は続けられたが、世の中が落ち着くにつれ、食料品も闇で出回り始め、徐々にではあるが自由経済に向かって進みつつあった。
魚屋も例外ではなかった。
前回にも書いたが、配給品と統制外(拒否品も含めて)の魚の販売が表立っての仕事だが、陰で闇の魚を売るのも、お客様のニーズに答え、生活してゆくための大切な仕事だった。ただこれには危険が伴ったのだ。

俺は配給を受ける為に毎朝、市場に出かけた。毎日市場に行っても必ず配給品があるとは限らない。あっても少量しかなく全部の所帯に回るほどは無いことが多かった。
すでに個人営業が建前になっていたが、仕入れの段階(配給品の受け取り)までは班(支部)単位で行われ、市場で各店に分荷する形をとっていた。
だから俺のような新米でも用が足りたのだ。
市場にいっても、なかなか入荷がなく、割り当てもこないから、(11時頃までは待たされ、なんにも無い日も多かった)暇つぶしのために色々なことをした。
ほとんど毎日のようにやったのが分荷場(今の仲買店舗、当時ここで荷待ちをしていた)で行われた「すじ」という博打だ。一枚の紙に十本の線を引き、二つに切って、親が0から9までの数字(すじ)をランダムに書き入れ、子が二箇所に印を付けて争う「オイチョカブ」の一種だ。俺も嫌いではなかった、若造のくせに。
あまり派手になって最後には司直の手も入った。たまたま俺は席を外していて助かったが。
みんなして銀ブラしたり、デパートに長靴のままでぞろぞろと、買うでもなく見物に行ったり、歌舞伎座の一幕見を見にいったこともあった。
ある時は、映画を見に行っていて「日本堤の魚屋さん、配給の魚が入りましたから至急お戻りください」と途中で呼び出され大慌てした事もある。
戦後すぐは、貨物の市電を利用して配送した時代があった。市場の中に引込線があって、うちの組合は山谷の停留所で荷を下ろして店に持ってきたのだ。
この頃はまだ親父が河岸にいっていて、屋根もない市電に荷を積み、その上で大っぴらに「オイチョカブ」をやっていて、それも毎日の事、手入れがあって当たり前、電車を止められ何人かがしょっ引かれた。
親父はこの日休んでいて難を逃れたが大騒ぎだったらしい。大胆不敵というか無知というか、銀座のど真ん中を博打をしながら騒いでいれば、いかに戦後の混乱期とはいえ捕まって当たり前だ。
いかにも昔の魚屋らしい武勇伝ですね。
俺が河岸に行くころにはトラックを使うようになっていた。ところが車は少なく燃料も少ないから、配給品があるのに中々配車されない、俺など若手は良くこの順番待ちに並ばされた。
なかには個人でオート三輪を持つ人もあらわれた。運動神経0の俺がこれに乗り込み急発進させて、あぶなくよその人を怪我させそうになった。以来俺は車の免許を取らない。自慢にはならないが。
市場への往復には自転車で行った(殆どの魚屋がそうでした)。配給品が少量の時は各自が自転車で運んだのだ、築地からお店まで。
ある日、鯖節(丸の鯖の生利)が配給になり各自自転車に積んで帰ってきた。
我が家は登録人口が多く、鯖節はかさばって、自転車の荷台にうず高く積み上げられた。
重さもあるが、なによりバランスが取れない。それでもなんとか田原町の交差点まできた、信号(この頃はめったに無かった)が黄色に変わり、一瞬迷ったのが悪かった、自転車はゆっくりと倒れていった。
交差点の真ん中に鯖節は散乱した。柔らかい鯖節は折れるは、崩れるは、それでも必死になって拾い集め、詰め直して、やっと店までたどり着いた。被害は最小限に抑えた。

ここらで統制経済から自由経済に移る過渡期にあった「拒否品」についてふれておこう。
24年頃から少しづつだが、色々な物が出回ってくるにつれ、配給だからといってなんでも捌ける時代ではなくなってきた。鮮度の落ちた品、飽きられた品、食べつけない品等が、捌けなくなってきた。当然魚屋も処分に困るから、これらの品を正規の値段(公定価格)で受け取るのを拒否しはじめた。
これが「拒否品」で、結局値段を下げたり、正規のルート以外に回して処分し始めたのだ。
自由販売移行への第一歩だった。
拒否品を仕入れるには、分荷員と相対で交渉しなければならない、分荷員はかっての仲買さんが多かったから戦前からの顔が利いた。親父の出番がきたのだ。親父も再び市場に来るようになった。
「かつを」など一本一本がそれなりに違うから、ちょっと痩せているから、傷があるからといって、わざわざ手鉤で傷を大きくして受け取りを拒否したりした。
品種さえ同じなら、どんな品でも同じ値段というわけには行かなくなってきたのだ。

そこへゆくと闇の魚は、良い品は高く、欲しい品はそれでも良く売れた。
闇の魚はほとんど「かつぎや」と言われた人たちが持ち込んだのだが、なかには浦安の貝屋さんが持ち込んだり、市場から流れてきたりもした。
当時、職の無い人は大勢いて、手っ取り早く稼ぐには「かつぎや」が一番だったようだ。
たまに手入れ(一斉検査)があり、運ぶ途中で折角の魚を没収されたりもしたのだが。
裏の住宅のFさんや、Iさん、網代の床屋さんの兄弟など、我が家専属の「かつぎや」さんももいた。
だが統制経済には変わりは無い、取り締まりも厳しかった。
主に警察(経済)の取り締まりだが、都の検度課(本来はハカリの検査だが、当時は配給品の分量をごまかしていないかを調べた)もうるさかった。交番のお巡りさんとは随分仲良くしたのだ。
うちの店が表通りにあった所為で、Mp(米軍の憲兵)が来た時には本当にびっくりした。
たまたまジープで通りかかって立ち寄ったらしいが、闇の魚を扱っていたわけで、弁解の余地無く送検された。
この時は町会の人に嘆願書(普段は配給業務に励んでいて無くなったら困るとか)を出して頂いたり、馴染みの警察の方の骨折りでなんとか始末書だけで済んだ。
物が出回って来るに連れ、配給品を捌くにも店で待っているだけでは捌けなくなり、お客さんの近所まで回るようになっていった。人手が要るようになったのだ。
それまで「かつぎや」をしていたFさんが、仕事がきついから店で働きたいと言い出し、戦前徴用されて辞めていったYさんも店に戻りたいと言ってきて、二人に店で働いてもらう事になった。
大八車(毎日借りてきた)に魚を積んで、「魚の配給です」と表回りをするのだが、いつも「助宗たら」や「ほっけ」ばかりでは次第に売れなくなっていった。
最初の頃、俺は恥ずかしくて「魚の配給です」と大きな声が出なくてまいったな。

いつか統制が解除されるのは時間の問題だった。自由販売になったらそれなりの(戦前なみの)施設も作らなければならない,冷蔵庫とかウインドウとか作らなければならない。そうしなければ商売にならないのは目に見えていた。ほかの商店も段々に増え、どんどん綺麗になってきた。
だが、家をお店にすれば、寝る所が無くなる、たまたま「おばあちゃん」の問題も出て、裏に住いを建て、六畳間をつぶしてお店を広げることになった。
ふたたび、おふくろと同郷のMさんにお願いして、今度は本建築の住いを建てたのは24年の中頃だったと思う。
六畳に四畳半、床の間もあり、玄関に回り廊下の付いた瓦屋根の立派な家だった。
だが、この家は当時の我が家にとって分不相応な家で、使い勝手も悪く(おばあさんの隠居所という考えもあって、店とは離して建てた)お金もかかって後で苦労することになった。
24年8月には妹が生まれ、我が家は6人家族になった。
そして25年の4月から、お客さん(Kさん)の紹介で中学卒業のKが佐野から来る事になった。
段々に我が家も自由営業に向けての準備が整ってきたのだ。

配給の魚と闇の魚という、相反する中途半端な営業が終止符を打ったのは、昭和25年4月1日に統制が解除されて、完全な自由営業に戻るまで続いた。



 
二十歳前後

25年4月1日、魚が自由販売になった時、俺は19歳になった。
ここまで書いてきて気が付いたのだが(気が付くのが遅い)、俺の誕生日3月30日は年度末であり、世の中の大きな動きも、俺の誕生日に合わせて動いていたのだ。二日ずれているが。
4月18日にKが入店した。石浜のKさんの紹介で栃木県佐野市の出身だ。
人手は多くなって身体は楽になったが、裏の家を建てた借金や、店の造作にかかった借金で親父は益々やりくりが大変だったのではないかな。
ただ4月1日に戦前から続いた魚の統制が無くなり、完全な自由営業となって、警察の目も、検度課の目も、勿論MPの取り締まりも無くなった。本当に自由な商売が出来るようになった。
残っていた25年の日記の4月1日の欄に「ものすごい豪雨の為、表商いは出来ず、12時頃第一便が、1時頃オートバイに満載の荷と共に親父も帰ってきた。
雨の中で店拵え絢爛豪華な店になった。4時半頃雨も上がりお客さんが込み始め、昼寝していた親父も起きて店としては上々の売れ行き、今日から一日おきにYさんにも泊まって貰うことになった。
主たる今日の入荷、生いわし八箱、冷するめ三箱、めじまぐろ、真カジキ一本13、300匁、あこうダイ等々」とある。統制解除初日の熱気が感じられる。
商売も共同営業から完全に個人営業になった。そして警察に変わり保健所と税務署が魚屋の天敵になっていく。
表回りも、配給ではなく出張販売という形でそのまま続けられた。
相変わらず大八車での表売りを俺とKとで回っていたが、店の近くは次第に売れなくなり(店に行けば何時でも売っているわけで)二人で手分けして遠いお客さんのみ自転車で回るようになっていった。
26年3月30日 俺は二十歳になった。
妙なところでケジメをつけたがる俺は、記念写真を写しに行ったり、タバコを吹かしながら(この日まで煙草を吸った事の無い俺は咽ったり気持が悪くなったりした)吉原を素見したりした。
戦中あった徴兵検査は無くなり、まだ成人式など無かったから、自分でケジメをつけたのだ。
既にお酒だけは、親父の変わりに出ていた組合の会合などで、飲ん兵の親父の倅だから飲める筈と「駆けつけ三杯」をお椀の蓋で飲まされ、気持悪くなって、もどしたりしながら次第に慣れてきていた。
仲を素見すのも段々に慣れ、素見すだけではなく、足しげく通う様になっていった。
ちょンの間、時間、泊り、なんとかホマチを作っては男を磨いていったのだ。
これは当時の男の感覚で、今の時代、女性陣には顰蹙をかう話だが、まだ公認の場所(赤線地帯と呼ばれた、他に青線地帯と呼ばれた非公認の所もあった)が幾つもあり、男なら誰でも通ったのだ。女性(の身体)を知らない男など二十歳を過ぎた一人前の男として認められない時代だった。
そんな男ばかりではなかった、というご意見は無視します。
同業の先輩に連れて行って貰ったこともあるし、小学校や中学時代の仲間と遊びにいったこともある。
学校時代だけではなく、この時代の、一緒に飲み歩いたり遊び歩いた思い出があるから、今の友達があるのだ と思う。

4月にKの家の紹介でA子が入店する。後に俺とA子は結婚する事になるが、A子との事はボチボチ記す事とする。
昭和26年6月に次妹 Y子が生れ、我が家は家族7人、住み込みの従業員2人、通いの従業員2人の大所帯になった。