灌木が不揃いに這えて行手を遮り歩きにくい尾根の上を忠実に辿るよりは右手の泥の斜面(赤土の壁)を滑り降りた方が簡単そうに思えたので、靴スキーのバランスで100m程を滑り降りる。登りよりは楽に済む下降の方が得意なのは辛いのは嫌いだという生まれながらの性分からくるのだろう。それで尾根を忠実に辿ったら沢につくのに十数分はかかるはずが十数秒で済む。
着いた場所は本来の狙いのかさぎ沢とカヤノ沢の分岐点よりはカサギ沢に入って400m程の位置だった。そこから分岐点までは大きな滝があるとか難しいところは無く、小さなナメが続く凡庸でブラブラ歩きするには格好の地形なのだ。
直ぐに目的方向である榛の木丸側に登り返そうとも考えたが、分岐点まで行ってからでも遅くない。カヤノ沢の滝場の最上部くらいは見てから榛の木丸に登ったほうが変化があって良いではないか!なんていうようにも、行き先は決めていたが、具体的にどこから取りついて登り返そうとは決めていなかった。
いずれをとろうとそれほど変わらないはずだった。ようは取り留めもなく漫然と歩いていたんだ。カメラを片手に持ったまま。こういう時って、一般的に良いことは起こらない事になっているらしい。
沢というのは上空から鳥になって広く俯瞰しているのなら別だが見通しが良いようで、実は悪い。なんとなれば流れの中に大きな石(岩)は転んでいるし、平坦だと思っても1m位の段差もアッチこっちにあって、岩の影の段差の下なんてところに釣り人がじっと釣り糸を垂れていたりすると、数mの位置まで近づかないと、そこに♪何があるか♪ なんてことが普通であるように確認できないことも多いものさ。
潜んでいたのが釣り人ならコンニチハと挨拶を交わせばコミュニケーションが始まる。グッド・ラック
しかし、それが熊だとすると、アナタならどうする?
そうなんだよな。
それも可愛い子熊なんてのではなく、成長した野生タップリの雄熊だったら!
ツキノワグマといえど、侮れないゾ
♪あなたな〜ら♪どうする〜♪
夢まぼろしならいいが、現実なら全く冗談じゃあないヨ
中間尾根からカサギ沢に降る (中央の岩の向こうに熊がいたのだが、全く気がつかなかった)
10m程先の岩の上に黒いものが首をもぞもぞと突き出した。見つけたのはこちらが一瞬だけ早かった。首は近くで音がしたので何かな?というように岩の上に突きだした頭をこちらを向けた。そして
熊だ! ビッびっくり(実感)
人だ! ビビッびっくり(推定)
となった。
全長はおおよそだが1mは越える。体重は90kgは越えているんじゃないだろうか。柵の中や鎖につながれているのを安全な位置から観察したのと違って、逆毛立つ恐怖の中で見たことと、格闘して怪我を負った事の顛末から、ことさら大きかったと言いふらすほうが虚勢を張るのに都合が良いからそう言うんだろうと思われるかも知れないが、秋の山の栄養をタップリと取り込み、全身がつやつやと輝く黒毛に覆われた熊の成獣であり、その時無意識に写したカメラの画像を確認しても迫力満点の月の輪熊の輪郭から印象と実態に大きな乖離はないと考える。確かな大熊だった。
ヤベッ!!! !! !
ここは沢の中 おまけに上流側にマシラがいて、下流側が熊というのがヤバイ
熊は上に逃げると言うからマシラが熊の退路を断っている格好になる。
熊はギロッとした目でこちらを睨む。マシラもガッと目をかっ開き、既に逆毛だっていたかもしれない。
さてどうする。
過去何回か熊に遭遇したことはあるが、目線が会う前に熊の方が退散し、あるいはこちらがゆっくりと退散することで自分自身が襲われると感じたことはなかった。しかし、この熊の目線はぎらぎらと血走り、いままでのとは明らかに雰囲気が違っていた。どうしようか。
出来ることは何だろう。
死んだ真似か。
背を向けて逃げだすことか。
しかし、距離がなさ過ぎる。熊が走り出したら一秒そこらで、この場まで飛んでくるだろう。逃げたとしても沢の中である。全力疾走できるような整地されたグランドではなく、走ったら二本足では岩と石に足を取られて転倒するのが関の山であり、その上に熊に覆い被ぶられて押さえ込まれたら結果が目に見えている。転ばなかったとしてもスピードの差は大きく、直ぐに追いつかれ背後から襲われる。
だから、このままそっとそっと距離をかせいで行くのが最良だと考え、熊を睨んだまま一歩二歩と後ずさりを始めた。頭で考えたと言うより、全身がそのように反応した。
これで熊が間を詰めて来なければ
そう思ったときさ
熊はうめき声を上げて突進してきた。マシラの方向に
ヤベッ!!!
ほんとうにどうしよう。
どうしようも糞もない。逃げ出して背後から首根っこでも叩かれたら一発でいかれてしまう。それよりは構えて攻撃をかわそう。
そのように、やったろうじゃないかと気が変わるまで一瞬だったとおもう。熊は沢の水の中から右手の斜面寄りに一気に駆けてくる。
その間のわずかな時間に周囲と足場を確認した。熊を迎える場所は沢の中の岩床の上である。熊はそこに疎林帯砂砂利である50cm程の段差上から1m先の沢中の位置にいるマシラに突進することになる。一撃目の対応は彼が飛びかかってくる一瞬前(ぶつかる3m前程の位置で)に決めた。
それは
のど元への右足のトーキック。なぜかそれを冷静に決めた。
こっちだってイヤでもアドレナリン・ばんばんになり、脳みそが瞬間に高速計算を行い、それを最善の策と決めたんだろう。次にドーパミンが恐怖を忘れさせてくれる。
熊が走り出し、熊の喉元キックを一発目として、その後に双方が引くまでの時間は合計で10秒も無かったとおもうが、この間の事は死ぬまで忘れない。(ぼけでしまった場合は保証の限りではない)
1ラウンド目
熊が突っ込むタイミングに合わせて左足に半歩体を開いて打った一発目は思惑どおりに綺麗にヒットした。熊なんかに負けはしないとは思わなかったが、何かをしなければとの局面でのとっさの反応としては上々だ。面喰らった熊が体をマシラの左側面を通りすがに繰り出した攻撃は右太ももに食い込んだ最深3cm長さ10cmの数条のひっかき傷だった。しかし、太ももの一番太い部分の脂肪の上だったからか、ちょっと叩かれた感触はあったがダメージは全くない。
もっとも熊だってマシラのキック程度では驚きはしてもダメージにはならないだろう。反省とすれば、この一撃を喰らわしたら、そのまま全力で駆けだしたら熊は喉の痛さに気を取られて追ってこなかったかもしれないと思うこと。
2ラウンド目
一回目の攻防が済んで、こちらは身を翻し身構えた。ショックを喉に食らった熊は5m先まで勢いのまま、つんのめっったが、直ぐに反転し、2mまでの距離に来たところで後ろ足で立ち上がり突撃戦から接近戦に変えて腕を振るってきた。
動きを止めた接近戦は熊の得意な攻撃らしい。立ち上がるとマシラの頭よりは高かった。一発目の攻撃で熊が逃げてくれることを期待していたことと脳みそのキャパシティ不足から二度目の攻撃をどうするか考えていなかった。この間に石を手にして備えるか、頭突きにするか蹴飛ばしにするか狙いを予め決めておけば打つ手も違ったかもしれないが、二度目は相手の攻撃に会わせて防御する後手に廻ってしまい、これがまずかった。
熊は左利きだった。右手であいての左肩を押さえて体の動きを止めさせ、反対の左手でフックをかましてきた。右腕を顔の位置に上げてガードしたが、熊のパワーは圧倒的で最初のフックは左手の肘で受けてかわしたつもりだが(肘から上腕に深く食い込んだ熊の爪条痕が残り、肉がえぐれた)だが、右腕ガードの上からのフックは容赦なくマシラの左顔面を引っかいた。それに連れてガードが少し顔の前に寄った。それを見通したかのように次にガーンとした熊の左フックの一発がマシラのこめかみ付近にクリーンヒットした。こめかみが裂け、耳から唇までの頬が爪に数錠に渡って切り裂かれた。幸い動脈には損傷は無かったみたいだが、相当ぐらっと来た。血のにおいが立ちこめた。熊の「グルルッ グルルッ」といきりきったうめき声が間近に響き、次のフックパンチが飛んできた。爪は頬のあたりを欠き切って口蓋内に達した。
「うっ このまま数発食らったら死ぬぞ コンチクショウ」
そう思ったとき、熊の顔が目の前にあった。口が開いていたか閉じていたかは覚えていないが、その鼻面に向かって頭突きをかました。考えてそうしたのではなく、とっさに体が反応した。ガンという眉間へのショックと熊の鼻のグシャっと湿った感触が記憶に残った。(この攻撃でマシラの頬骨が折れたらしい)
熊はビッと声を出したが、フックした後に腕に頭を押さたまま、沢の水の中に両方もろともドッポンと落ちた。このまま水の中に押さえ込まれたり、上から喉とか首を咬まれたら一巻の終わりだ。
3ラウンド目
ところが、どっこい、落ちた瞬間に膝がうまく熊の下腹部を蹴り上げた。これに驚いたのか利いたのか熊は5m飛び離れた。
水の中に立ち上がり、その位置で熊と一秒二秒三秒とにらみ会う。熊は小刻みに「グヮ〜ッ」唸る。こちらのスキをうかがい次の攻撃をどう仕掛けようかと考えているんだろうか。
短い時間のはずだが、次の事態が頭の中でグルグルと回るとても長く感じる時だった。
ここまでの攻防をアマチャルールによる攻撃の手数、ヒット数では熊にはおとりはしないつもりだが、相手にいかにダメージを与えたかという判定基準で当てはめて、ことを客観的に判断すれば、明らかに熊が優勢で、この状態で再び攻撃を二度三度と繰り返されたらマシラがこの場から脱出など出来ない状況に陥ることはあきらかだ。
そう感じたとき、マシラの喉から大声が出た。「お〜ぉぉぉお!〜」
何でそうしたのかは自分でも分からないが思い切りの声だった。
その声をマシラが仲間を呼ぶ声と勘違いしたか、マシラの雄叫びと驚いたのか、あまりの大声にあきれたのか、熊は更に5m下がった。そしてマシラの声は驚かせの大声から悲鳴の声に切り替わった。
戦い始めて、この後になって始めて怖くなったんだろうとおもう。その声に反応したのか、熊はマシラが先ほど降ってきた尾根に入り、マシラを睨みながら睨むながら、まるで喧嘩に負けた愚連隊兄ちゃんが
「覚えていろよ!」
と捨て台詞を吐き捨てるかのように時折こちら側を振り返りる仕草を繰り返して林の中に消えていった。夢か幻か、ついさっきまでのことなのに呆然と沢の中に立って見送る。
熊の消えていく様を確認してからマシラも反対側の斜面(榛の木丸側)に20mほど登る。そこで気になる頬に触れてみる。爪でえぐられた肉が耳から垂れ下がっているように感じた。垂れ下がった肉を手で押し戻したけど、傷の接続面に段差があり、以前の頬の感じにはならない。しかし、大きなダメージを知るのが怖くて、それ以上は確認できなかった。手も汚れていただろうから、それ以上触れなかったのは感染防止の面からも正解だったと思う。
血はダラダラと垂れるけど、動脈が敗れた気配はないから止血はいらないと判断した。いいや、気が動転して、いざという場合用のテーピングテープがウェスト・ポーチの小袋に5m分ほど常備してあるの忘れていたというのが正解だ。
次に口の中が血っぽいのはどうしてだろうと指を口に入れると前歯上下の三本が根元からなくなり、四本目もグラグラ、更に二本が割れていた。グラグラの歯は手にしただけでもげたのでカメラケースの中に放り込んだ。頭にも傷があるようだが、血でべたべたしている髪の毛が覆っているので、怪我の程度の感触がよくは分からない。
腕も足も痛かった。だが、まあまあ歩けるのだから、この場でダメージを確認することはない。それから続く斜面を登りだした。馬酔木の幹を手がかりにして30m程歩く。
熊の来ない場所に待避しなくては
さっさと病院に行かなければ
しかし、なにか感覚が違う。
何が違うんだろうか。
前が明瞭に見えないんだ。
目に血が入ったんだろうか
さっきの喧嘩で目がやられたんだろうか。でも、そんな感触はなかった。違う。そんなに重大なことではない。
そうだメガネが無いのだった。
さっきの戦いの最中にどこかに吹き飛んだに違いない。マシラの視力は裸眼0.03に0.01だから、普段の生活でもメガネが無いと不便でしょうがない。まして、これから辿ることになるルートはいずれを取っても仕事道だから前を良く見て歩かないと道を失うことになる。ダメージいっぱいみたいだから途中での道間違いなんて体力的にも精神的にも避けたい。もしも不整地の急なガラ場に遭遇したりすると、足元を踏み間違って転落になりかねないし、道をうしなった場合には、元に戻ろうと急な斜面を長く登り返す事になると、今以上に出血が増すことだって考えられる。今は歩けそうだが、いつまでもちゃんと歩けるとは限らないから、ともかくも早く他力にお願いできる安全地帯まで着こう。のんびりとはしていられない。
そう思うとメガネを探さねばならなかったが、先ほどの決闘場に戻ってメガネを探すのは何ともイヤだった。さっきの熊が何か餌が残ってないかと再び戻るとも限らないからだ。それにメガネが見つかったとしても、あれほどの取っ組み合いの最中のことだから壊れてしまっている可能性は高い。あっても役に立つとは限らない。
しかし、それでもメガネは探す必要があると考えた。熊は顔を思い出すのも嫌なくらい嫌だけど、今の置かれている状況と、これからたどるコースを考えると大きな道間違いは一番怖い。道を失い、道無き山中の途中で失血死に至るなんて事になれば、ユミコちゃんに骨も拾ってもらえない可能性も出てくるからだ。そうなった場合、熊に対する不注意を犯したマシラにとっては神が与えたやむを得ない天罰であったとしても、少なくとも僕の大好きなユミコちゃんにとっては限りない不幸に違いない。(そうであって欲しいというマシラの願望ですが本人が本当にそう思っているかは分からない)
それでいったん先ほどの場所まで戻った。
血があたりに飛び散っている。大半はマシラの血である。熊のも鼻血分くらいは混じっているだろう。ぶつかったあたりを中心に目を皿のようにして5分ほど探した。岩に近づけ、沢の淀みに顔をくっつけるようにして。しかし、メガネ無しの目では枯れ枝もイワナもメガネのフレームも区分けが着かず結局分からなかった。何時熊が戻ってくるか分かったものではないという警戒感が頭の中の大半を占め、周辺の木立の間に熊が、こちらを見て再び飛び出すタイミングを計っているのでないだろうかとの気持ちが目がついついそっちに向けるので、しっかり落ち着いて探すという事が出来なかったから見つからなかったとも思える。落ち着けと頭では叫ぶが、気持ちは全くそうなっていないというのが本当だろう。
なんとしても探そうと思ったメガネだが、何時までも探してもいられない。
熊も怖い。
早く下らないと。
日が暮れる前には里に下りなくては
イライラとする時間。やがて
見つからなければ諦める。そうするより他無かった。
さて、ここからの下山をどうするかである。
携帯は持っていない。直ぐそばに登山道があるではなし。近くで森林整備でもやっていれば別だが、広い地域を数年に一回だから通常はそうそう滅多に人が出入りする場所でもない。そんな場所だから、ここから一歩も動かずに他の人の助けを求める事は出来ない。そうなれば出来るだけ早く自力で安全地帯に着くことだ。
一番近いのは姫次まで行って通りすがりの登山者に援助を乞い彼等の携帯で連絡を頼むというのが考えられるが、姫次付近から関係機関と連絡が取れるとは限らない。もしも、携帯がつながらないとすれば、善意の登山者が東野か青野に下山するか、蛭ヶ岳の小屋まで行って連絡するのだが2時間は必要だ。さらに回収までは早くてヘリコで60分、人手で搬出となると蛭ヶ岳からやってきたとして、下まで3時間はかかるだろう。お願いされた登山者に取っては、たまたまの通りすがっただけなのに不注意者のせいで自分たちの楽しみを中断しなければならない迷惑千万な事である。
それよりも、榛の木丸から魚止め橋に降る道が一番里に近いし早い。熊と遭遇した地点は源流部で沢はごく浅く、登り返すにはなだらかな斜面を距離は僅かに100m程度登れば尾根上に着く。心臓の負担は少ない。下りもジグザグの仕事道が緩やかに降っていく。普通に歩けば一時間で下降できるはずだ。道さえ間違わなければというのが条件になるが、メガネ無しでたどるルートがちゃんとした登山道では無いので一番の問題だ。大丈夫だろうか。
しかし、もう、こういう事態になってしまった。なってしまった以上は楽観的にいこうよ。だって何とか歩けるじゃん。キチンと見えなくとも何回かは降った道だしさ。たとえメガネが無くとも何とかなるだろうと。ホント何とかなるよ。
本来なら榛の木丸から造林小屋に降りる予定だったから、まあそれほど予定コースとずれていないというのも選定した理由になる。
斜面をひと登りすると、反対側に間子小屋沢の展望が開ける赤土の露出部の所で尾根にあっさりと着く。順調だ。緩く登り、降り、そして再び緩く登り返せば1332mPに着く。尾根に出てからは道は明確であり、ピークまでの距離はおおよそ400mだ。
ピークからは左手方向の間子小屋沢中流域へ下降する道は記憶に従って避ける。1292m(榛の木丸)へはぼんやりだがピークが分かったので方向を見定めて降る。1292mピークは灌木が生い茂り、踏み跡も平坦な分だけ踏み跡が不鮮明になるので、方向を定めるのは過去の記憶とぼんやり見える水源の森境界杭の並びが頼りである。
下降の最初の問題は、そこから南東尾根(間子小屋左岸尾根)と魚止め橋へ降りる道は最初は同じで、降りだして直ぐに分岐点があり、左方向へ降っていくのが魚止め橋上のヘヤピンカーブの所に降りる道のはずなのだが、この分岐点がどこであるのか見分けられなかったことだった。20m先が見えさえすれば、「水源の森」の杭や黄色の境界杭、それに路肩に組んだ丸太により、仕事道が延びていることが分かるはずなのだが、いずれがいずれか、あたりを見渡しても木々も草も一緒に見えるし、落ちた枯れ枝も境界標識も区別が付かない。
それでも足元だけは分かる。だから仕事道が明瞭に踏まれていれば、その上に乗っかっているのか、道を踏み外しているのかは識別できるのだが、不鮮明になると歩いている方向が正しいのか間違っているのかは判断できない。たとえ10m先に明瞭な道があってもそれを目当てに歩くなんてことはできない。
そんな状態なので分岐があったのか無かったのかも分からなかった。
エイヨッ ママヨッ と進む。頭を動かすと血が垂れてくる気配があるが、静かに真直ぐしている分には血の流出は少な目のようだ。 普段は近道をするダラダラの折り返し道も忠実に辿る。そうして道を外さないよう用心に用心して歩いたつもりだった。どれくらい歩いたのかは分からない。しかし、おそらく多分奥野林道から伝動に渡る旧の水平歩廊にかかる直前くらいで道を失った。例によって傾斜が緩やかになるころで、そんな場所はどうしても踏み跡が薄くなる。どんなに足元を見ても、既に道は細い点々とした獣道に変わっていて、そのまま直進(右斜め下がりに緩やかに下降する方向)して良いのか、自信が持てない。分かるポイントまで登り返すと血が噴き出して来そうな気がして、登り返せない。あたりは緩やかな杉の林である。南東尾根を下降しているのか、魚止め橋上のヘヤピンカーブへの仕事道を下降しているのか、一体どちらを下降しているのかも、その時点でも確信は持てなかった。
もしも南東尾根だったら、丹沢観光センター側に出るには廃水平歩廊をを辿る必要があるが、何カ所かの崩落場所を通行するのが面倒だ。廃道の水平歩廊を反対にたどると大平の旧キャンプ場までの距離は短いが、そこから宮ヶ瀬までの距離は長い。確実に連絡を取れる地点は奥野隧道になるが、ずいぶんと歩く必要がある。
いま歩いているルートがその南東尾根で無ければ良いのだが
いずれにしても 出たとこ勝負。
杉の林のまっただ中で斜め右下への下降を止め(このまま突っ切るのが正解だった)、下への最短距離を降る。最初は緩やかだった斜面は下から早戸川の水音が聞こえてくるころには急なガレ場、露岩帯になってしまう。露岩といっても安定したものは少なく、蹴飛ばすと転がり落ちるような石が積み重なり不安定な急斜面が続くのだ。
こんな局面はイヤだなと慎重に降ってきたはずなのに
だからといって来た道を引き返したって、正しい道が見つかるかどうかは分からない。
水音が聞こえるなら早戸川が近い。それならば、いずれかの林道までもそれほどは遠くないはず。注意は必要だが短時間で済むだろう、不安定な砂礫面を横断し、岩の急斜面帯を縫うように下降する。細くて急だがなんとか灌木伝いで下降ができた。距離はそれほど長くはなかったと思うが、具体的にどんなコース取りだったかは覚えていない。そして1mの石積み段差は飛び降りる事になるのだが、下が見えないのと、ショックで出血しないかと不安だったが、そうするよりなかった。そして積み石側壁を降りて、ようよう 車の通れる林道上に降り立った。見知った場所だった。伝動と魚止め橋の間の丹沢観光センター側やや近いところである。(予定したポイントよりより400m程伝動側の林道)
ああ ここか
これで帰れる。ホットした。
100mくらい歩いた地点でこれから大滝でも見に行こうかとう子どもを連れた若夫婦がやってきた。
その二人に尋ねる。
「私の風体 異様ですか」
「怪我はひどいですか 自分では分からないものなんで」
聞くまでも無いことだったらしい。子どもは目をカッと開いてマシラを一瞬見ただけで身を翻して母親に抱きついた。そして顔を母親の股の間に埋め、それからは二度とマシラを見なかった。
「おじさん あなた そこ動いちゃだめヨ 顔はめちゃくちゃで血だらけ 直ぐ救急車呼ぶから」
親切なその言葉に素直に従おうかとも思った。
熊にやられたと伝えると二人は緊急連絡の付くところまで送っていき、救急車を手配すると申し出てくれた。しかし、彼等の車を汚すことになるし、第一、子どもが恐怖に怯えているのに同乗しては、なおさら子どもの心に傷が付くかも知れない。なにはともかく一時間は歩いて降りられたんだし、すぐそこに自転車もある。もう一時間程度歩いたからといってどうってこともない。そう思った。
「ここからは下りの一方だから、自重に任せれば自然に着く宮ヶ瀬から自分で救急車呼ぶ」 とせっかくの申し出を断り、自転車に跨る。
魚止め橋に着いて (熊との遭遇後の最初の一枚) ここから自転車で宮ヶ瀬に降る。
降るのに夢中だったのか途中ではシャッターを押すことは忘れていた。中央のシミはレンズにこびり付いた血だ。
後からユミコちゃんが言うには
二人は宮ヶ瀬在住のご夫婦でユミコちゃんのお友達のお友達だってさ
ユミコちゃんが熊の話しを友人に話す前に、友人の方から
「土曜日、私の友達が宮ヶ瀬の奥に行ったら頭から膝まで全身血みどろで顔もズタズタに切れている人が山から降ってきて、それを見た子どもは引きつけを起こすし、その人に車に乗れと行っても大丈夫だからと言って言うことを聞かないし・・・」と言われたそうだ。
「それは、私のダンナの話しヨ」ってなった以降の会話が、どんな方向に進んだのかをユミコちゃんは教えてくれない。
日本国中5人の知り合いをたどれば、殆ど全員が友達だって言うから世間は狭い。
確かに宮ヶ瀬までは部分的な登りあっても勾配は緩やかで距離は短く、98%が下り一方の道だ。メガネが無いので道の上の石にタイヤを取られてはと気には掛かるが、スピードを殺していけば何とかなる。
鳥屋鐘沢出会付近で後方から走ってきた車から先ほどの夫婦がもう一度「車に乗っていくように」と声を掛けてくれた。いくら一度は断わられた相手とは言え、状況から見ればあまりにも心配だと、わざわざ後を追いかけてきてくれたのだろう。ありがたい。
が、子どもはあいかわらず母親の膝の上に顔を埋めたままのようだった。申しわけない。
来たときには綺麗だと感じていた早戸川渓谷の紅葉も全く目に入らなかった。早戸川林道をバードウェッチングする人たちの往来もどうでも良かった。路面の不整地を確認しようと、目をこらすと頭をかがめることになり、そんな姿勢をとると、こめかみあたりから血が垂れるのがわかる。
宮ヶ瀬駐在に届ける前に宮ヶ瀬バス停の電話ボックスからユミコちゃんに連絡する。いったん収容されたら直接の連絡は難しく、他人からの限られた連絡では悪いことを想像して無用な心配を掛けるのがいやだったし、そこまで帰ってきたことで、その程度には心の余裕が戻ってきたとも言える。
「熊に襲われた。ここまで帰れたのだから命には別状無いとは思う。今から救急車で運ばれるから準備はしといてくれよ」と連絡する。
投げ出した自転車が転がる電話ボックスの周辺には人は沢山いたようだった。(血だらけの)帽子を深くかぶり、いぶかしがる彼等の目線を遮って電話を続ける。
「えっ クマ クマに」
彼女は肝が据わった女性である。指名手配されていた強盗犯人を窓口で見破り、警察がくるまで引き留めたという話を聞いたことがある。そっとやちょっとで悲鳴を上げたり大騒ぎはしない。フンフンと話しを聞き
「命は大丈夫なんだよね わかりました 子細はあとで聞くから。警察と消防には自分で連絡できるの?」とその時点から次の準備を始めるのだ。
こんな沈着な彼女に対してマシラが実生活面で勝てるわけ無いのだ。所詮マシラはユミコ様・お釈迦様の掌(たなごころ)の中でうろちょろしている孫悟空みたいなものさ。
宮ヶ瀬駐在の勤務室は空席だった。
駐在さんてだいたいが勤務室にいない。朝は本署に出向き、本署の訓話、当日の勤務計画説明と指示を受け、拳銃を受け取り、日中は計画どおりに管轄エリアの見回りに行き、夕方には本署に当日の報告と返納に出向くなんていう忙しい執務なので、駐在の席を温めて座っている時間なんていうのは殆どとれないと駐在勤務の甥が言っていた。
執務室の机の上に置かれた連絡電話を持ち上げ、事故を申し出る。
「すみません 厚木近在の何某です。申し訳ない 熊に山中で襲われ、ケンカしたが負傷した」
電話の向こうで
「エッ熊! 熊ですか 場所はどこですか」
宮ヶ瀬駐在に決まっているじゃないか。
それくらい警察の電話なら交換機を通った瞬間から分かっているはずなのに、なんでそんなこと聞くんだよ
「いやいや 熊の出た場所ですよ」
机の上にこめかみから落ちてきた血が三滴四滴と滴る。電話の向こうの警察官は
「そうだ。事故の様子より、まずアナタの状態はどうなんですか」
「血が電話を置いてある机の上にポタポタと垂れている最中です」と伝えると、まずは救急車を呼ぶからじっと座って待てと言う。そうこうするうちに駐在勤務室にドアをせわしく開けて駐在さんが入ってきた。
マシラの様子については駐在さんが以降の本署への報告を行う。やっぱり顔のあたりがひどいらしい。
それが一段落したところで、身元の説明できるものを見せてくれ等とマシラの身分特定を行う。次に熊と総合した場所、熊の風体、格闘になった経過を聞き取り、ソレを逐一電話で連絡する。
質問では、そもそもなんでそんな場所で熊に会うことになったのかというのが一番の難儀だった。正直に言えばマシラだけでなく、そりゃあ熊にも聞いてよ と応えたかったな。しかし、「山歩きで」との理由は原因に対する結果であり、原因としてはマシラが不注意にも熊の居る場所にクマに警戒の時間を稼がせないまま飛び込んだのが一番の理由だと思う。人間が今からそちらに向かうとの警告音を事前に発して熊に伝えなければならなかったのを、ついつい下降の勢いのまま駆け下り、熊がいるかも知れない事への備えを省略してしてしまったことを深く反省しなければならない。
場所の特定も面倒だった。駐在所には早戸川周辺を図示できる地図はなかった。それさえあればしっかり場所を指定できる自信があるのだが、当初のヒアリングでは質問側が早戸川と本谷川の区別がきちんと出来ていなかった。マシラの歯が五本ほど無くなったことで発音が間抜けになり聞きにくいと言うことも影響したのだろう。熊の第3者に対する危害防止の観点から事故箇所と熊の特徴を特定したいという警察官の熱心さは確かなものだったが山の場所特定って地図がないと、なかなか説明するのは難しい。
場所の特定が、結局その時点では出来ず、治療が終了した後にマシラが示した地図の地点をPM9:30すぎにユミコちゃんから駐在さんに連絡して、警察の場所特定がようやく終わり、事故の発表はその直後に相模原警察署からあったと後に聞いた。
事故場所にはどうやって行ったのかって。
自転車で行って、終点から歩く。それ以外に現場に着く方法はヘリコくらいだ。
終点から現場までの時間はどれくらいなのか。普通の足で3〜4時間、早い足で2時間程度なんて問答が繰り返し続く。そうこうしている間に救急車が到着する。人命優先の処置が優先する。
先ほども述べたとおり、駐在でも血は止まっていなかった。受付デスクの上にたらたら血が垂れるのを衣服や帽子で拭ったが、血の跡は拭い消えない。右の太もも右肘は痛いが、どんなになっているのか怖いのでここでもズボンやシャツを下げて確認するのをためらった。しかし、歩行には何の障害は無い。たいしたことはあるまい。消防車には自ら乗り込み、搬送ベッドに座った。救急隊員は本人名称と現住所と希望する処置先の確認を行い、顔の傷を視認した後に酸素マスクをかぶせられた。ここから以降、病院の処置終了までは一歩も動かず全て人任せとなり身動きは許されない。
出来るなら厚木地区の病院をと希望したが、救急隊員は頭部のダメージ、顔と全身の裂傷、熊の咬傷ということから伊勢原のT病院に受け入れを要請し承諾を得た。(事故エリアは相模原市、受け入れの体勢だって似たような状態だし、二ヶ月前にK病院に11月後半での手術を予約してあったことなど、以降の治療日程が重なる事等を考慮すれば、K病院が都合が良かったのだが、この時はそれを少しも思いつかなかった)。自宅に搬送先を連絡も入れてくれたのをマスク越しに聞く。
おかげさまでユミコちゃんは持病の診断書、投薬、着替え一式をもってマシラが病院に運ばれて間もなく到着したと聞く。
救急車に乗るのは気分は良くない。
生まれて初めて救急車に乗ったのが30年ほど前の谷川岳一ノ倉テールリッジの事だった(HPのどこかで既報だったように思う)
20m程上からの先行者の落石を体に受けてリッジの露岩帯途中から雪渓まで40m転落して後閑の病院に運ばれた時だった。あの時は全身泥ネズミだった。
今日は熊と格闘して水にはまり、それに血が滴って、やっぱりぐしょぐしょした濡れネズミだ。30年の歳月の間に救急車の装備は格段に良くなり、走路のショックもあんまり感じない。搬送してくれる隊員は
「体の状態は大丈夫ですか なにか変なところはありませんか もう■分ほどで到着しますよ」と取り扱いも丁寧に取り扱ってくれて救護のレベルは格段に上がったと感じる。
運ばれる事故の当事者としては親切に手をさしのべていただき、申し訳なさでいっぱいだった。 だからといってもう一度乗りたいとは思わない。
愛川町消防署隊員の皆様 本当にありがとうございました。
お手数をかけて申し訳ございませんでした。
T病院:救命処置室?に集まっていただいた医師は脳外科、形成外科、口腔外科、皮膚科の先生方、麻酔医、それに熊の咬傷を見てみようという物好きな先生が数人いたようだが、そこからは目をつむっていたのでよく分からない。上着を外され、パンツを外し、下着ははさみで切り取られた。頭部のCTスキャン、全身のレントゲン写真、傷の確認を行う。傷の概要は以下のように聞こえてきた。
頭部:CTでは脳内に異常は無い。(脳みそはスカスカだから壊れなかった?)
X線で頬骨骨折 折れているが綺麗に折れており、ずれたり曲がったりしていないので手術不要
目視所見で
頭頂部 熊の手によると思われる打撲痕(骨までだが深くない)
右こめかみ部 熊の爪による裂傷(三スジ)
右頬部 熊の爪による裂傷が耳部から唇まで(口の中からベロで触ると裂傷があるのが分かるが一皮分を残し突き抜けてはいない)(二スジ)
左顎部 右頬部からの連続傷が一スジ 別に熊の爪が深く刺さった跡が一箇所
右上腕 肘付近 爪が深く入った痕跡が二箇所 それに続くと思われる裂傷三スジ
肩下付近 爪による裂傷(五スジ)・・浅い
右上脚(ふともも)爪が一箇所深く長さ10cm程 平行して爪による裂傷三スジ
右下腿 熊の足の爪によるひっかき傷(二スジの傷)
左下腿 熊の足の爪によるひっかき傷(二スジの傷)
口腔
その時の確認で漏れ、治療されなかった爪の跡が、他に数カ所あった。
熊の爪による裂傷、咬傷患者はこの地域では珍しいらしく、今後の参考と治療の効果を見るためとデジカメ写真を撮られたようだが目をつむっているので何ポーズ撮られたのかわからない。目を開けられないのでフラッシュだけを感じる。
治療時間は長かった。熊の爪や歯には種々の雑菌が着いているので破傷風や化膿の可能性が高いとのことで、傷の各所を薬液により丁寧に洗浄することから治療が始まった。この洗浄は傷部に局所麻酔を打ちながら行なうのだが、内部の雑菌を洗い流すため、血で固まった傷口を一旦は広げ、押し出すため傷口および周囲をグルグリとマッサージして絞り出すのだが、このマッサージが何とも痛い。
麻酔してあると医師はおっしゃったが、とても利いているようにはは思えなかったが、口で「クッ」と踏ん張ればがまんできる範囲だったから麻酔は効いたんだろう。
それが終わると縫合する。痕跡を小さくするためには細かく短いピッチで縫合するらしい。特に顔の表面は特別に注意して縫合するのが通常なのらしいが、今回の場合、雑菌により内部より化膿する可能性が極めて高く、その場合の治療の容易性を考量すると、皮膚が落ちない程度に荒く縫合する必要がある。イヤなら別だが、化膿して内部に拡散すると顔が代えってぼこぼこになってしまう事もある。アナタは男性だし、生活面でもそれほど困らないでしょうから、顔に跡が残るのは覚悟したらどうですかと縫合担当の女医さんからマスク越しに言われて二択から一つを選べと言われれば医師の勧める手段を選択する他の余地はない。
その結果縫った状態はユミコちゃん曰く、頬が落ちない程度に結びつけてあるだけヨ だった。
その程度でも全身の縫合数は40箇所くらいに及んだ。
さて、緊急処理室に5時間もいると いろんな患者様が運ばれてくる。処置ベッドは少なくとも四つはありそうだ。自分の処置が一通り済んで、周囲の様子がわかるように気が落ち着いてから運ばれてきた患者様は合わせて四人
1.仕事中にプレス機の操作を誤って右手人差し指と中指をタコの姿焼きのように押しつぶした若者が一人(本日以降の診察で既に三回ほど一緒になった)。工場の労災担当が付き添っていた。
設備がトラブり、普段と違う処置を二人で行っているときに勘違いして操作したプレスの金型に指を取られたらしい。つぶした指を持参したが、修復は不可能と医師が断言した。
「その指はどう始末しますか ご自分で始末なさいますか 葬儀屋さんに依頼しますか 葬儀屋さんだとそれなりの費用がかかるようですよ」
怪我のいきさつを聞いていると私の職場でも起こりそうな過程なので、耳が離せなかった。マシラより後でやってきたが先に退室した。
2.その隣ではお爺さんが脚立の上で作業していた落下し、頭を打ってしまったとのこと。
怪我の程度はそれほどでもないらしいが、事故により本人の気の動転が大きく、大きな声で何回も呼びかけないと返事が来ず、その返事もうめき声にリズムが乗った状態というのが気がかりだ。ベッドで運ばれて退室した。
3.隣のベットには心筋梗塞のために運ばれてきたおばさん。こちらは静かに治療を受けていた。軽度との事で、点滴を受け終わったら「暫く通院するように」と言われて処置室を歩いて出ていった。
そして、破傷風対策の点滴を行い、滅菌ガーゼに首から上と腕・脚をぐるぐる巻きにしてから医師の所見を聞く。
「大けがです。しかし、いずれも急所を外れています。すごくラッキーだったと思います。ちょっと外れたらこめかみは動脈でした。頬骨骨折は綺麗に割れています。でもずれていたりしていないので手術の必要はありません。このまま外からテープで固定しておけば治癒します。頭の傷は小さくても沢山血が出ます。幸い骨までにはひっかき傷は達していないのでテープで寄せておきます。
これから怖いのは化膿です。飼い犬や猫に咬まれただけでも、多くの人が化膿します。かなりひどい場合もあります。特に今回は野生の熊です。爪には多量の雑菌が着いていたはずなので今後化膿すると考えるのが妥当です。精一杯傷口の洗浄を行いましたが結果は5日くらいかからないと分かりません。抗生物質は必ず飲んでください。破傷風は可能性は無いとは言いませんがとの程度に考えましょう。自宅に帰ったら雑菌を寄せ付けないようこまめに消毒して下さい。抗生物質と消毒液を出しておきます。明日は休みなので月曜日に確実に来院して治療を受けてください。暫く傷や化膿のため体がジンジンすると思います。もしも異常を感じたら至急に医師にかかってください。
忘れ物しないでね ハイご苦労様でした」
3時頃に治療室に入り、19時30分頃ようやくユミコちゃんの待つロビーに出る。
彼女には「ゴメン」の一言しか出なかった。
タクシーが揺れると、顔が痛い。
マシラの好きな映画に「マタギ」主演 西村晃 監督 後藤俊夫 がある。
巨大熊と老マタギの格闘をマタギの掟・確執と家族愛を織り交ぜて好評を得た映画だ。この映画をマシラは少なくとも五度は見た。主演の西村晃の演技は本物のマタギに習い(実在する狩猟だけを生業とする最後のマタギをモデルにしたと言われている。このモデルとなったマタギは後日事件沙汰を起こし新聞紙面をにぎわせたという記憶がある)渋い演技を見せていた。春先の山での大熊を、猟犬の命をかけた覚悟の援護により熊槍で仕留めるのが最後で最大の見せ場になっている。
その映画でのクライマックスでの格闘より、マシラの場合、犬と槍が無い分だけ熊との距離が近かったように感じた。もっとも今回の熊は映画での1.6mはありそうな大熊ではなく、ちび(マタギでの主演犬)が村祭りの催しである猟犬品評会でのオトリの熊程度の大きさなのだから、今回の方がすごいなんて、えらそうな事は言えない。
映画はフィルムに焼き付けられスクリーンに映し出される。映画には主題があり、訴えるものの狙いが制作者側にズ〜んとあって、それが見る側に共感を得ることにより興業が成り立つ虚像の世界だが、こちらは生身のガチンコであり、当事者としては戦うことの恐怖を頭の脳天から足の先まで電気がビ〜ンと走った状態で過ごしたのだった。
エンタメント性がうたいの映画と違い、何事も無く平々凡々が市居の我らの日常生活では一番良いことなのだ。自分以外の人に、今度のことをどのように表現したら具体的に良く分かってもらえるのかを文書にキチンと書き表す能力がなく、その分だけ茶化して書くしかなく、それが鬱陶しくジリジリする。でも、これがマシラの筆力ですから勘弁してください。
丹沢の熊
丹沢では過去に熊に合った事が四回はある(他にもあるかも知れないが直ぐは出てこない)。
間近に吐息を感じたのは柏原(焼山)だったし、遠目に見たのは大滝峠付近だった。伊勢沢四の沢を登ったときに感じた獣の気配は今度の熊の小さな頃だったのだろうか。今年になって宮ヶ瀬尾根でも見た。しかし、相手が気づくより数秒前にこちらが気づき、刺激しないようにして事なきを得てきた。そもそも丹沢の熊は人を襲わないと言われており、救急隊や警察に聞いた限りでは彼等は人が襲われたという記憶は無いという。(七沢に今年熊が出て通行人が怪我をしたと言う事実がある)
当然ながら、マシラが気がついた回数よりも、熊の方が気がついて素早く待避したくれたおかげで、無用な争いを起こすことがなかった件数の方がずっと多かったというのが今までの遭遇の状態だろう。
獣の臭い
事故の翌日、ユミコちゃんが病院から回収した衣服・ウェストバックの洗濯を行ってくれた。
帽子は温湯で手洗いしたが二度洗っても血で洗面台が真っ赤に染まった。カメラは血で全面がコーテングされていて、電源スイッチを押してもレンズ筒がこびり付いた血で固定され動かずエラーになってしまい起動出来ない。お湯を浸して絞った雑巾で何回か血を拭い、ようやくスイッチが入った。沈胴式のレンズ筒の奥の血は取りきれない。
上着はポリウレタン繊維を厚く重ねた冬用である。ユミコちゃんが冬にはちゃんとした服を着ていくのよと買ってくれた。鉄砲うちのおじさんへの見分けが良いように目立つ黄色である。ナイフを突き刺してもなかなか貫通しにくい素材だと思う。この袖部分に小さな穴が一つだけ開いたが、他にはひっかき傷であり、綻んだ数カ所の繊維が少しだけ伸びているだけだった。この対擦過に強い特性は、熊の爪の引っ掻き傷を弱める効果が相当にあったと思う。衣服の上から強い力の爪は、当然上腕に食い込みはしたが(深さ5cm程度?)その後、爪で引き裂こうとする力をポリウレタン繊維が周囲全体の面で力を受け分散させることで長い傷になることを防止するのに役だったと思う。
パンツは安物のトレパンだ。繊維は粗い。幸い下半身に対する大きな攻撃は最初の一撃だけであり、後はもみ合いの過程で熊の足の爪で引っかかれた左右足の弁慶の泣き所の擦過傷くらいだったので、最初の一箇所を除いて大きな損傷はない。
下着は病院で遺棄したので、どうなっていたのかは不明。
しかし、何よりユミコちゃんが洗濯で異常と思ったのは臭いだそうだ。人の血の臭いとも牛の臭いとっも違う。鹿とも当然違う。青臭く粗々しく、これぞ野生の熊の臭いというのが鼻にこびり付いて、これを洗濯機に入れて洗ったら、それ以降の洗濯物に獣臭がこびり付いてしまうんじゃ無いかと、マシラの服は洗濯機の入れる前にシャワーで湯煎されて、足踏み洗いを加えてからようやく洗濯機に入れたんだそうだ。ユミコちゃんはそれでも服が臭いという。熊の体に全身で触れたのは2ラウンドから3ラウンドに移る本の一瞬である。たった一瞬の接触でも野生の臭いは強く衣服に転写するんだろう。それほどなのにマシラ自身は山にいる間も、救急車に運ばれてるあいだも、自宅に帰ってユミコちゃんに、そう言われた今でも自分で臭いを嗅いでも全くその熊の臭いというのが分からないのである。あの瞬間から臭いの感覚が変になっているのかも知れない。
マシラの目つき
熊との戦いの瞬間に体に放たれたアドレナリン(麻薬成分のドーパミンもだったかも)は戦いが終わっても消えなかったらしく、ユミコちゃんは
「アナタの目 怖いよ 獲物に対して、いつでもかかってこいという目を今でもしている」
「怖いからちょっと目尻さげて」
と言われても、その眼光は変わらなく、三日目にようやく
「目つきが元に戻った」
と言われた。
ユミコちゃん曰く、それは怪我をしていて顔が腫れたり、形相が変わったからとは全く違い、喧嘩中の獣に触発されて獣そのものの目に変わり、いつでも戦おうという気持ちが頭の芯に残ってしまったんだろうという。本人にはそんな気は全くないのだが、私にも野生の記憶が輝くことがあるらしい。
目つき以外に変わったことがある。白髪の量である。顔を怪我して暫くひげ剃りが出来なくなった。大半が黒かったはずが伸び放題のひげを鏡で確認すると八割が白髪になっていた。事故で一瞬に白髪になったか、それまでの変化に気がつかなかっただけなのか。それは分からない。こんな白髪はさっさと剃ってしまいたいが傷が邪魔して、伸びっぱなしと言うのが気に入らない。
写真集です
自宅6:40〜宮ヶ瀬湖〜早戸川林道〜魚止め橋(伝動手前)8:25〜伝動8:35〜雷淵8:55〜雷平9:00〜雷滝9:20〜カヤノ沢分岐9:55〜ゴータガヤ滝10:45〜又兵衛の沢出会11:10〜又兵衛沢の左岸尾根を登る〜蛭ヶ岳・草の平と地蔵ヶ岳の中間点の小ピーク付近で登山道に出る11:30〜地蔵尾根入り口11:35〜原小屋跡(水場確認)11:40_50〜姫次12:05_10〜カヤノ沢とカサギ沢分界尾根下降〜カサギ沢へ下降(カヤノ沢カサギ沢分岐点から3〜400m程上流12:30〜熊と遭遇12:33〜P1332m〜榛の木丸(P1292m)〜魚止め橋の伝動側300m程の位置に下降〜魚止め橋13:40〜早戸川林道〜厚木警察署宮ヶ瀬駐在に事故報告14:25頃〜救急車により搬送 以降時間不詳
朝方は雲があったが徐々に晴れ、午後には素晴らしい山歩きが楽しめる(はずだった)2007/11/03
皆様を、お騒がせしまして、ほんとうに申し訳ありませんでした。
いつも歩いている場所ですし、まさかという気持ちが警戒感を鈍らせ、その結果として熊に遭遇し格闘に至ったものと自省しております。
その結果、警察や消防の方々には被害発生防止のための近辺への啓蒙活動、それにマシラの搬送等のお手を煩わせてしましました。猟友会の方々には狩猟解禁時期の活動プランを変更しての駆除活動の実施を強いることになりました。
丹沢の山愛好者様や渓流釣りのファンの皆様には近隣での山遊びヤマメ釣りプランの変更や取り消しをやむなくさせたと思います。
清川村、愛川町の小学校では子ども達に山に入ることを止めさせる呼びかけがなされたと聞いています。お騒がせいたしました。
それに、マシラに遭遇しなければ、静かに暮らしていたはずの山の熊さんにも驚かせてゴメンなさい。これから暫く鉄砲や猟犬に驚かされることになるかもしれませんがマシラには止めることができません。ご容赦下さい。
その他の大勢の皆様にも、当方が気がつかないご迷惑をおかけしているかも知れません。
以上、皆様に多大なご迷惑をおかけし、スミマセンでした。これから山には入る場合には、十分に注意して入るようにいたします。
もちろん、これで山遊びを止めるわけではありませんが、いい年こいてという声もあり、方向性の多少の変更を行わないと周囲からの理解が得られないし、もともと年齢や持病からくる体力の面からボチボチ路線変更の時期だろうと自覚していたのですから、少し変化すると思います。どのように変化するのかは、今のところは予測不能です(具体的にどうするかは何も考えていないということです。ぼちぼちと考えていきます)
どのように準備を行おうと、注意を心がけようと街中と同じように山でもある確率では事故は起きます。人と山の関わり合いは共存もすれば対峙する関係もあるのが”山あそび”です。社会生活で明日のことが事前に分かると断言できないことは山でも同じだとおもいます。だからこそ、そのような事への対応の覚悟はこれからも、今まで以上にしっかりもった山遊びを継続したいと思います。
ただし、今回の事故をふまえ、山に(社会に)関わる多くの人への迷惑を最少にする努力を継続して行わなければならないのは当然だとの自覚を更に深く心にとめ、今まで以上に慎重に行動する事を心に誓い、重ねて今回皆様にお騒がせしたことをお詫びいたします。
最後に、たくさんのお見舞いを頂き、ありがとうございました。十分な返信が出来ず、さらなるご心配をおかけした方々も多かったでしょうが、ご容赦願います。傷からくる口蓋内の違和感を除けば普通の生活での歩行には障害は感じません。元気になりました。
11月28日 マシラ
追伸 11月10日
サブちゃんとMさんに手伝ってもらい宮ヶ瀬駐在所に自転車の回収に行った。駐在さんには形ばかりのお礼を申し述べる。
すぐ帰るには時間が早いというのでドライブがてら早戸川国際鱒釣り場へ。奥の入り口に雨に打たれている”熊出没 けが人出た”の張り紙見る。張り紙は雨に打たれてマシラのほっぺのように破れていた。その隣に「熊出没」の警報表示板がガムテープで二枚止められている。即席でも何でも良いから、直ぐ出来る警報を出して被害拡大を防ごうという心遣いだとおもう。関係者には本当にお手数を掛けさせてしまって申し訳ない。山での遊びを楽しもうという山愛好家や、渓流釣りの皆さんにも、マシラの不注意からこのような警告が出されたのであり、申し訳ない。ごめんなさい。
雲がたれ込み、雨がしとしとと降る中で大勢の釣り屋が、それぞれの釣り場で竿をふるっていた。
夕方 駐在さんから電話があり、猟友会に襲撃熊を狩るための出動要請がかかっていることをうかがった。一度人を襲って征服欲を味わった熊は、それまで抱いていた人は怖いものだという警戒心が大幅に薄れ、熊の方から人に寄ってきて二度・三度と人を襲う可能性が高まり、通りがかり人が極めて高い危険に晒されることになるので行政として放っておけないのだそうだ。狩れないにしても、肝がつぶれるくらい程度には驚かせておかないと二次被害を防止することにならないらしい。そうだとしたらマシラは、そのような作業を行う猟友会の方々、あるいはこれから危険にさらされる可能性のある山歩きの方々にも多大なご迷惑をおかけしたことになる。
また愛川町に住む人からは、小学校の生徒に対し、学校から
「山では大きな熊がでて人を怪我させた」ので、山に入るのは止めましょうとの注意も出されたとのこと。本当にお騒がせしています。
追伸 11月16日
半分くらいの抜糸が終了した。顔面には傷跡がくっきり残っているが、心配した化膿は無かった。腕と脚はまだ予断できない。頭の傷もようやくふさがった。歯の抜けた顔がなんともふやけて、それにサ行の発生は声が抜けてしまい、何ともしまりが無い。ユミコちゃんは「間抜けと話しをしているみたいでヤダ 当分は口を開かないで」という。
歯の痛みはようやく治まったが根っ子から抜けた歯の治療には200万円が必要だと言われ、さてどういう治療にしようか思案中である。彼女は金は出すが、その代わりに定年を3年延ばして働けと言う。これも嫌だな。
追伸 11月18日
※さて来週から今回の怪我には関係なく予定された入院となります。
(もともと体のアッチこっちにボロが出ていた内科の治療の一環として切除手術を行うことをニヶ月前に決めていた)
T病院での治療と併行でK病院で見ていただいた結果、熊の怪我の状況は少しだけ注意を行う必要があるが、まあ大丈夫でしょうとのことだったので予定通り行うことにした。しかし、こちらでも「クマ」と言った瞬間から大笑いのネタになってしまい、だれが言いふらしたのか元々の診察科の先生方や看護士までお見舞いと称して入れ替わり立ち替わりマシラの顔をチェックに訪れた。ヒマがつぶれるのは歓迎だが、同じ話を何回も行うのは我ながら情けない。
そんなわけなので当分、HPのメンテナンスは停止となる。
みなさん お元気に 暫くですがグッドバイ
追伸 11月27日
11月20日に入院し、予定どおりの手術を終え退院しました。前回(一年前)の手術と違って熱が出たので、病院の中を歩きまわるのが苦痛でパソコンの打ち込みも最少にして、大半の時間をベッドの上に横になって過ごしたのだが、それでも同日入院・同日同じ手術を行った20代/ガラは190cmは越えるという柔道好きな若くてたくましい男の子と同室だったが、どういう理由か彼よりは手術痕の治癒が早く、彼がまだお粥を食べるのが苦しいと言っているのにマシラは痛み止めもいらずに堅いご飯を食べられ、彼から「やっぱクマに喰われて野生の血が入ると怪我の治りも早いのかなあ」とうらやましげな言葉に見送られて二日早く退院することになった。
追伸 11月28日
T病院へ
顔への化膿が全くないのは本当に幸運であると言われた。全ての抜糸が終わり、脚と腕のテープも「もう不要」とのこと。ただし顔の補強テープは傷口を少しでも小さくするため三ヶ月ほど継続だとのこと。破傷風対応の注射は三本がセットだとかで、最後の一本は一年後くらいに打つ予定と聞く。その間、顔の傷は経過を見るので数ヶ月に一度は診察するとのことだが、緊急性のある治療は一通りは終了した。
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