(ある登山パーティの話)
  
大人の童話(その2)
  (リーダーの決断)

急峻な雪渓を5人の山男が登っていった。
メンバーはいずれも経験豊富なクライマーばかりだ。

この日に備えての充分な訓練も繰り返してきているし、装備も万全だ。

しかし、今日の雪面は固くクラストしており、まるで氷の壁みたいだ。
雪面のどこにクレバスが隠れているかも分からない。

今のところ天候は安定しているが、いつ雪崩の発生があるかも予測出来ない状況にある。
一瞬のスキが大事故を引き起こす危険は誰にもよく分かっている。
5人のアルピニストはしっかりとアンザイレンし、万一メンバーの一人が滑落するような事態が発生すれば、
ただちに滑落を食い止められるよう緊張しつつ身構えていた。

パーティのトップは、当然のことながら広瀬リーダーが慎重かつ熟練した
ピッケル捌きでルートを切り拓いていく。

一歩一歩慎重かつスピーディに上りつめた場所は垂直な氷壁の基部。
「さあ、ここからが本番だ。慎重に行こうぜ。」
広瀬リーダーが全員に気合いをいれ、メンバー全員が頷いた。

硬い氷の壁にアイゼンを蹴りこみ、ピッケルとバイルを駆使して、トップを行くのは勿論、
広瀬リーダーだが、パーティの全員は改めてリーダーからの指示を受けなくとも
自分が行うべき仕事を充分心得ているから、それぞれが自分の任務を遂行する。

悪絶きわまる氷壁も彼らは決して怖れたりはしていない。

悪場を抜け、1ピッチ、2ピッチ、リーダーが着々と高度を稼いでいくにつれて、
他のメンバー全員もドンドン上部への登攀が進んでいく。

苦闘数時間、遂に全員が氷壁最上部に集結し、登攀は成功した。
しかし祝杯をあげている余裕も時間もない。

稜線で白いガスが激しく動いているのを見た広瀬リーダーが呟いた。

「風が出てきたな、間もなく吹雪になりそうだ。できるだけ急いで下降だ。」
アイスハーケンにカラビナをかけ、ザイルを使用しての氷壁下降は
アップザイレン(懸垂下降)のテクニックに熟達したメンバーにとっては容易いのだ。
僅かな時間で全員が無事に氷壁の基部に降り立った。

しかし、その場所から雪渓を見下ろして皆が愕然とした。
視界は完全にホワイトアウト、霧が深く10メートル下部の様子も見えない。
こうした雪渓では登りよりも下降が遙かに困難であることはアルピニストならば
誰でも知っているから広瀬リーダーが格別な注意を与えることもない。

「杉野、お前が先頭だ。しっかりアンザイレンして慎重に行け。」

リーダーに指名された順にザイルを結び合ったメンバーが一人ずつ
白い霧の中の雪渓下降にかかっていった。

登りの時のトップはリーダーの務めだが、下降時は一番難しい
最後尾を固めるのはリーダーの任務なのだ。

万一最後尾を固めるリーダーが滑落したりすれば、彼をジッヘル(確保)
してくれるメンバーなどいないのだから、リーダーは間違っても滑落など許されない。

パーティ全員の姿が霧の中に消えてしまってから、広瀬リーダーは慎重な
ピッケル操作で急峻な雪渓を一歩ずつ下降開始した。

しばらくはなんとか順調に下降していったが、突然吹きまくる
吹雪の中から悲痛な叫び声が聞こえてきた。

「リーダー!リーダー!タイヘンです。早く来て下さい!」
広瀬リーダーは、事故発生かとイヤな予感がした。

だからといって、慌ててグリセードなどで下降できるようなヤワな斜面ではない。

更に慎重に下降していくと、メンバーのうち3人が集まっている姿を発見した。

「どうした?何が起きたんだ?」
「杉野の姿が見えないんです。」
「なに?杉野がいないって?アンザイレンしてなかったのか?」
「いえ、確かにザイルは結んでいたはずなのですが、このとおり、
杉野と結んでいたザイルが解けているんです。」
「ザイルが切れたのか?」
「切れた様子はありません。
ザイルが彼のハーネス(安全ベルト)から外れたんじゃないかと・・・」
「杉野はザイルが外れたの気付かないほど未熟な奴じゃないはずだがな。」
「ひょっとすると・・・」

そう言ってメンバーの一人が、すぐ下の雪面を指さした。
雪渓を横切ってそこには不気味な亀裂が走っていた。
「杉野は、このクレバスに落ちたんじゃありませんか。」
「ウム!」

頷いた広瀬リーダーが深いクレバスの底を覗き込んだが、全く何も見えない。
「それしか、考えられんか。」
クレバスの縁に腹這いになった広瀬リーダーが大声で叫んだ。
「杉野!杉野!」「杉野、大丈夫か!」
応答なし。

真っ暗なクレバスには広瀬の悲痛な叫び声が虚しくコダマするばかりだった。

「リーダー!オレ、杉野を助けに行きます。クレバスの底に落ちてると思いますから。」
「リーダー!オレにも行かせて下さい。」
二人のメンバーが同時に叫んだ。
「まあ、ちょっと待て。」
あたりの様子を見回してから広瀬リーダーが苦しげに言った。
「雪渓の状態がひどく悪いようだ。恐らくこれから雪崩れてきそうだ。
それもデカイ奴がな。この際、急いで退却しなくちゃなるまい。」
「リーダー!仲間を見捨てるって言うんですか!」

3人のメンバーの抗議の視線が広瀬リーダーに集中した。
「可愛い後輩の杉野を見殺しになんか出来ないと言う気持ちはお前らと同じだ。
オレだって一人ででもクレバスに潜り込んで杉野を助けに行きたいさ。
しかし、リーダーのオレとしては、今はお前ら全員を無事に
下山させることの方が大切な任務なんだ。
急げ、これからただちに退却する。杉野のことは考えるな。」

決然と指令した広瀬リーダーの目には涙が浮かんでいた。

登山家としての心得を充分に弁えているメンバー全員の中で、誰一人として、
「多数決で決めたらどうでしょうか。」
などと発言する者はいなかった。

春が訪れ、雪渓の雪が消えた頃。
その時のメンバー達は杉野の姿が消えた付近を必死に捜索したが、
遂に杉野の遺体を発見することは出来なかった。
そしてある日、たった一人、その沢の出合で花束を胸に抱えながら、
深々と頭を垂れている広瀬リーダーの姿があった。

(追記)

この物語をお読みになった皆様は、この話は日露戦争当時の旅順港閉塞作戦での
出来ごとを私が小学生時代に修身の授業で習ったものを私なりに登山家の世界に
置き換えて翻案したものとお気づきになられたかと思います。
しかし、広瀬中佐の話をご存じない方のためにこの話の概要をご紹介しておきます。

広瀬武夫中佐(当時少佐)の指揮する福井丸は港口に到着、
総員後部甲板に集合を命じた直後、魚雷を受けた。
探照灯に照らし出された福井丸には要塞砲と駆逐艦の速射砲が集中、
全員ボートに移り退艦しようとした。
そこで杉野孫七兵曹長がいないことに気が付いた。
杉野は爆破装置操作のため艦首に向かったきりだった。
広瀬は「杉野!杉野!」と叫びながら捜し回り、敵弾の砲煙の中、
ボートと船内を三度も往復した。
いよいよ福井丸が沈む段になり、脱出を決心、ボートを漕ぎださせると
自ら爆破スイッチを入れた。
上げ潮のため脱出のボートはなかなか進まず、探照灯に捕捉されたままだった。
敵の哨艇が速射砲でボートを砲撃、銅貨大の肉片と血だらけの海図を
残して広瀬の姿は消えていた。

福井丸の要員18名のうち広瀬を含む3人が戦死、杉野は行方不明、4人が負傷した。
他の閉塞船では負傷者6人のみだった。
広瀬は戦死後、海軍中佐に昇進。
杉野は海軍兵曹長に昇進した。
広瀬の胆力と部下との心のつながりは広く世に広まり軍神となった。
戦死の報はロシアにも伝えられ、広瀬の家族に届いたアリアズナ
(広瀬の恋人だったとされる)の手紙が残っている。

以上の話を修身で習った他に唱歌の時間にも下記の歌を歌った鮮明な記憶がある。

轟く砲音 飛来る弾丸。
荒波洗う デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫。
「杉野は何処、杉野は居ずや。」

広瀬中佐は軍神と崇められ、日露戦争終了の後から大東亜戦争が終わるまでの
長い間、国民的ヒーローとしての座を確保していた。
しかし先生から広瀬中佐の物語を教えられた時、私はコドモながらも一瞬、何かヘンだと感じたのだった。

中佐が懸命に部下の杉野兵曹長を探し求めている間、他の部下達は中佐が
杉野を救出して少しでも早くボートまで戻ってきてくれることを祈っていたはずだ。
そのボートにもロシア軍の砲火が集中しており、一刻も早く脱出する必要に迫られていたのだ。
しかし、部下思いの広瀬中佐は身の危険も顧みず杉野を探し続け、遂に戦死してしまった。
これはまさしく軍人精神の鑑ともいうべき立派な行動として称賛されたしかるべきだし、
私とて軍神広瀬中佐を卑しめるような発言をしたくはないのだが、この行動は指揮官として
正しかったのかどうか、疑問を感じたのだった。

広瀬中佐は杉野を捜すことによって、他の多くの部下達の生命を危険にさらしてしまったのではないのか、
と先生に質問する勇気はコドモの私には無かったのだった。

そして、その時の私の疑問は60年後の現在に至る迄解明されてはいないので、
敢えてこのような童話を作り、読者諸賢のご意見を伺いたいと思う。

我が日本国のリーダーたるべき人物の資質と共通するテーマだと信じるからだ。