/タイトル/原点/僕が企業に就職しなかった理由 1993/11/10 日本経済新聞夕刊より。
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中学から進学塾に通い、受験進学校の洛南高校(京都市)に入学。京都大学工学部で大学院修士課程まで行ってバイオテクノロジー(酵母菌)の研究をした。しかし、大学生活も終わり近づき人生の進路を考え始めたころ、私の頭にある言葉がよみがえってきた。それは「菩薩(ぼさつ)になりなさい」「社会のぞうきんになれ」という三浦俊良先生(洛南高校校長=当時)の言葉だった。 このまま企業に勤めて、化学の道を進んでいいものかと悩んだ。当時私は、山ノ内母子寮という児童福祉施設に週二回ボランティアとして通っていた。そこで出会った子供たちやお母さん方は、苦しみのふちからはい上がろうと、必死に生きていた。ボランティア活動をする中で、福祉の世界のおいて自分が必要とされていると感じるようになった。 バイオテクノロジーは花形。私が抜けても研究者はいっぱいいる。しかし日本の福祉はベタ遅れだ。その向上のために自分の人生を使いたいと思った。もし人生が二度あるものなら、一度は化学の道に、もう一度は福祉の道に、とも考えた。 福祉の道に進もうと決めた時、大学で研究を親身に指導して下さった先生方や先輩、そして父母は猛反対。「何を言っているのか。将来のことを考えて、絶対に今までの研究を生かせるところに就職すべきだ」と色をなした。友人たちも「お前、何考えてんねん?六年も化学を勉強したのにもったいない」とあきれて言った。 悩みに悩んだ。しかし結局は、自分自身はごまかせないと思った。一度しかない人生。後悔しない生き方をしたい。これはおれの人生。他人の価値観じゃなくて、自分の価値観で生きると決めた。 当時世話になっていた山ノ内母子寮の芹沢栄之寮長はこう言った。「福祉が遅れているのは政治の問題。政治家は票にも金にもならない福祉の現場の声には耳を傾けない」。この時点で、福祉現場の声を行政に届けるパイプ役に将来なりたいと切に思った。
大学院を出たあと、松下政経塾に入って、高齢者福祉の研究に取り組んだ。福祉の中でも老人問題が深刻化しつつあるからだ。1989年には8ヶ月かけて英、米、スウェーデン、デンマーク、シンガポールなどの老人ホームに泊まり込み、実習して回った。 欧米には「寝たきり問題」は存在しなかった。足腰が不自由なお年寄りも車いすに乗って街を散歩してた。家族に過重な負担を負わせる日本の貧しい福祉制度が、寝たきり老人を増やしていることを知ったのである。 中でも日本のある老人病院で実習した時のショックは今でも忘れられない。動き回るからという理由で、ベッドにヒモで縛られる痴ほう性老人。寝たきりのまま2年も3年もずっとベッドの上で暮らすお年寄り。「兄ちゃん、助けて!」と言ってお年寄りにギュッと手を握られたこともあった。ああ、この問題からはもう逃げられない、とその時思った。 つらい戦争を経験し、戦後の廃虚から日本を世界一の経済大国に築き上げた世代が、いま社会から捨てられようとしている。「敬老の国」だと信じていた日本が、実は”軽老の国”だった。生きては二度と社会に出られない縛られた痴ほう性老人の声、嘆きや願いを社会に届けなければ。これが私の使命だと思った。
今は相変わらず福祉現場で実習させてもらう一方で、原稿執筆や講演に走り回っている。「豊かな日本を築いた世代に、人間らしい尊厳のある人生の終末を」と訴えている。父母は、土曜も日曜もなく厚生年金もない私の生活を憂い「他人の老後より自分の老後を心配しなさい」と嘆いている。 「趣味は?」とよく聞かれるが、私の場合は趣味も仕事も日本の高齢者福祉をよくすることだ。こんな好き勝手な生き方ができてとても幸運だ。こんな生き方ができる一つの理由は、日本が豊かになったからである。共働きが増えたからだと思う。もし「お前が1人で妻子を養え」と言われたら、私のような生き方は無理だろう。幸運にも今は共働きだから生活していける。共働きが増えるこれからの時代には、男ももっと自由な生き方ができるのではないだろうか。 実際、私の生き方に関心を持った大学生から相談を受けることがある。しかしほとんどの場合、最終的には「親が反対するから。親を安心させるため」などという理由で、彼らは企業に就職する。そんな時私は「親の人生じゃない。君の人生じゃないか」と心の中で思う。 不況の中で就職戦線は厳しさを増している。こんな時だからこそ、人生の進路に悩む若い人たちには、他人の価値観でなく、自分の価値観で人生を選択してほしい。自分の内なる声に従って、生きてほしい。 |