13【バード・ゲージ】
太陽はいつの間にか東の水平線を昇りきり、既に中天近くにまで高くなっていた。
女はようやく目覚め、傍らに寝ている筈の男の姿を探していた。
しかし、そこには既に男の姿は無くほのかに彼の体温が残っているだけであった。
女はベッドの上で上半身を起こすと、自分の銀色の髪の毛を掻き上げた。
やがて小さく溜息をつくと女はベッドから降りて、けだるい身体をシャワールームへと引きずって行った。
バルコニーに有るジャグジーでゆっくり湯船に漬かりたかったが、残り少なくなった時間が
それを許さなかったのである。
シャワーのハンドルを捻り少し熱めのお湯を、昨夜の余韻が未だ残っている身体に浴びせた。
女は自分の身体に残っている火照りを鎮めるため、徐々にシャワーの温度を下げ最後には水を浴びていた。
だが、彼女の心は鎮まる事は無かった。
シャワールームから慌ただしく出た女は、髪の毛をブローする間もなく乾ききっていない身体に、白いシャツだけを羽織った。
彼女のサイズにしては大きい、明らかに男物のYシャツであった。
足元からは未だ水が滴っていた。
ベッドルームの脇にあるキッチンの冷蔵庫を開けてみると、そこには新鮮な食材が揃っていた。
大きめのボトルに入ったミルクを始め、アサリや蛤、鶏肉にハムやソーセジに至るまでいずれも
地元の業者から直接納められてくる、地場物ばかりであった。
それは、この家の管理を任せられている老夫婦の誠実さを物語っていた。
女がいくらこの食材を浪費しても、次に彼女が訪れる頃には又新鮮な食材が補充されており、
特に彼女と此の家の主の好物である発泡ワインの小瓶は途切れる事は無かったのである。
女は暫く冷蔵庫の中を眺めると、何かを思い付いた様に2、3の食材に手を延ばした。
大きめの寸胴でパスタを茹で始めると、傍らのコンロでアサリとベーコンを白ワインでボイルし、
ガーリックと胡椒で味を調え、ミルクで作ったホワイトソースに合わせて行った。
パスタが硬めに茹で上がると、そのソースをからめ数種類のハーブで仕上げた。
次に新鮮なカツオを軽く炙ってタタキにすると、手で千切ったレタスをサラダボウルに敷き詰めた。
その上にカツオを載せ、揚げたニンニクで風味を付けた手製のドレッシングをタップリと振り掛け、
付け合わせのサラダを作ったのである。
どちらも彼女の得意料理であった。
女はそれを大きめのトレーに載せると、緩やかな螺旋階段を降りていった。
勿論、そのトレーには発泡ワインの小瓶が2本並んでいた。
階下には20畳はあるワンフロアーのリビングルームであった。
左友の壁面は一面キャビネットで、左側には巨大なオーディオセットが並んでいた。
デジタル音源の他にアナログレコードのターンテーブルやオープンリールデッキまで備えられていた。
右手にはほぼ壁面一杯の液晶ディスプレイが設置され、鮮明な画像を再現するのは勿論の事、複数の情報を表示する事が可能であった。
だが、前方に大きく張り出した窓際のロッキングチェアーに座っている男に取って、眼前に広がる風景こそが最大の関心事の様に思えた。
男は身じろぎもせずに外の風景を眺め続けていた。
窓の外には大きく湾曲して見える太平洋の水平線が展開し、沸き上がる雲と船のマストが空と海の境界を示していた。
右手には、遙か昔に海底よりせり上がった断崖が幾重もの地層で幾何学模様を描き、日本のドーヴァー海峡と呼ばれ、観光シーズンには多くの観光客の眼を楽しませていた。
左手にはなだらかな丘陵が続き、その丘には似つかわしくない無機質で大きな風車が幾つも林立していた。
日本政府の肝入りで実施された、代替エネルギー政策の一環として建てられた風力発電の風車である。
当初は実験的な意味合いしか無かったこの施設も、見慣れて来るといつしかこの海辺の地域にとって、なくてはならない物となっていった。
『太陽と風に抱かれる、エメラルドタウン』…これがこの町の入口に掲げられている看板であった。
男の屋敷は太平洋に臨んだそんな町の岬の突端に建っていた。
海側から見たその建物は岬の崖に貼り付くように建っていて、そこからは5階建ての屋敷の様に見えていた。
だが、地上からは4階建てにしか見えなかった。女が目覚めたベッドルームはその最上階であり、男のいる
リビングはその階下、つまり地上からは3階の位置にあった。
「相変わらずねぇ…。飽きないの?」
女は男の側にあるサイドテーブルに、先刻作った料理と飲み物を置いた。
だが、男は振り返るでもなく只窓の外を見続けているだけであった。
「ハァ…、判ってるの?この料理はサービスなのよ。契約以上の事をやっているんだから
少しは、感謝して欲しいもんだわ。」
女は流石に頭に来たらしく、少し強い口調でそんな不満を口にした。
「……」
それでも。男は何も言わなかった。
女はやがて諦めた表情を浮かべながら、発泡ワインの小瓶を手にするとそのまま自分の口に運んだ。
甘酸っぱい液体と炭酸の刺激が喉に広がっていった。
「…お願いだから…食べて。
…一口でいいから…」
彼女は男の側に座り込むと空いている左手で顔を覆った。
その時、胸のポケットに入れていた女の携帯の着信音が鳴った。
「はい、リタです、ああもう時間ですね。…いえ大丈夫予定通りです。10分で出ます。」
女はそう言って携帯を切った。
携帯の液晶画面には12:00の時刻が表示されていた。
その時刻はシンデレラ達に取っては昼夜の違いは有っても、今も昔も変わらない意味を持っていた。
女は一気に小瓶を飲み干すと、男の頬に口づけをして立ち上がった。
「じゃ、また来週ね、トオル。」
女はベッドルームに戻ると手慣れた仕草で身支度を済ませ、バックに自分の荷物を詰めると男のいるリビングを避け、エレベーターで直接玄関ホールまで降りていった。
男の姿を見ると、去り難くなることを知っていたからである。
又来週来ればいい。
女は自分にそう言い聞かせていた。
玄関のドアを開けて外に出ると、昼間の陽射しが眩しかった。
女はバッグからサングラスを取り出すと、急いで顔に掛け中2階の玄関から階段を駆け下りた。
階段の下にはガレージが有り、その奥には管理人の老夫婦の住む部屋が有った。
この老夫婦は誠実さと律儀さの他に、一流の気配りも持っていた。
何故なら彼女がこの屋敷に訪れる時には、いつの間にかその姿を消しているからであった。
ガレージには男の愛車である、国産メーカーの赤いスポーツカーが眠っていた。
低く身構えたそのボンネットにはそのメーカーのみが製造しているエンジンが収まり、
他のスポーツカーとはその存在意義で一線を画していた。
女は何気なくその助手席に目をやった。
未だ新しいシートは今まで誰も座ったことは無いように見えた。
だが、女にはそのナビシートに身を任せるのが自分では無いことを熟知していた。
女は何かを振り切る様に歩みを早めた。やがて庭を抜け屋敷の門に辿り着いた時、
既に迎えの車が待っていた。
門をくぐって外に出るとやがて扉が自動で閉まり、電磁ロックが降りる音がした。
女はふとその屋敷を仰ぎ見た。
その脳裏には幼い頃飼っていた、カナリアの鳥駕篭が浮かんでいた。