11【ロシアンルーレット】
彼が振り向く間もなく、その腕は依田の皿からドライソーセージを一切れ摘み上げた。
「マスター、ずるいね。
えこひいきは無いよ。」
この不届き者は妙なイントネーションでそう言うと、強奪したソーセージを自分の口に放り込み、
今度はピクルスにも手を伸ばし始めた。
流石に収まらなくなった依田はその腕を掴むと捻り上げた。
だが、その腕はスルリと彼の技を切り返し2つ目の獲物をその厚ぼったい唇に運び込んだ。
「うーん、素晴らしい…。
このピクルスを味わったら、祖国には帰りたく無くなるね。」
憮然とする依田に悪戯っぽく笑うと、その男は自分のグラスの透明な液体を飲み干した。
「やっぱり、マスターのオードブル。バーボンよりウォッカの方が合うよ。
そう思わない?タウリンチ(同志)ヨォーダ(依田)。」
「…貴様!…ヴォロフスキー?」
ヴォロフスキー・チャイナトロフ。
その大柄な体躯と少し赤み掛かった鷲鼻を持つ男は、かつて共産圏の情報部員としてその辣腕を振るった男であった。
その昔、この界隈がスパイ天国とか情報部員の社交場とまで言われた時代、依田も何度か顔を見たことが有った。
情報局の高田から要注意人物として、首実検をさせられたのである。
その男が今、馴れ馴れしく依田の前に立っているのであった。
「未だいたのか?」
「ご挨拶だね、ヨォーダ。
スパイは廃業、今は立派な人材派遣会社のシャッチョーよ。」
「…派遣会社の社長?」
「そ、但し扱う人材はロシア美人ばかりね。」
そう言うとヴォロフスキーは依田の隣の席に陣取り、自分のグラスに透明な液体を注いだ。
「これでも、苦労したよ。」
彼は悪戯っぽく笑うとそのウォッカを煽った。
かつてアメリカと世界のイデオローギーを2分してその覇権を争っていた彼の祖国は、今やその姿を大きく変えていた。
ペレストロイカから始まった冷戦の終結は、やがてその大国の終焉をも呼び起こした。
数々の国が独立を遂げ、連邦は古の名前に戻り、経済的疲弊は国家予算の削減を命じた。
その余波はヴォロフスキーの所属した組織にも及び、多くの人材がその任から解かれていった。
冷戦時西側の極東防衛線であった日本における活動も又、例外では無かった。
そのリストラは後方の支援者のみならず、彼のような実働部隊にまでその対象者となった。
結果、北の祖国へ戻った者が大半で有ったが、中には疲弊した祖国を見限ってこの日本に留まった者達が相当数いたのである。
抜け目のない輩は情報活動で得たネットワークを利用して、合法的な職を得ることが出来た。しかしそれが叶わない人々は、非合法な職場へと流れて行ったのである。
一時、夜の都心部・特に池袋や大塚付近にロシア系の女性達の姿を見ることが有った。
彼女達は情報収集には無くてはならない人材群であったが、その任を解かれた以上異国の地で生きていく術はそれ程多くは無かったのである。
だが、この国にも非合法なビジネスを生業にしている組織が存在している。彼女達がそんな組織の犠牲になるのは目に見えていた。
ヴォロフスキーはそんな女性達を拾い上げ、自分のネットワークを活用して非合法組織へ根回しを行い、
一つの会社を設立する事に成功したのであった。
一見合法的に見える彼の会社は、『人材派遣会社』の看板を掲げていた。
しかし、そんな彼の動きを当局も黙って見ていたわけでは無かった。
只、監視する側が内閣調査室から警視庁に移っていた。
彼は“要注意人物”から、“札付きの不良外人”へとレッテルが貼り替えられたのである。
「一級酒から密造酒へラベルが変わった訳ね」
ヴォロフスキーはそう自嘲気味に言うと、又依田の皿からソーセージを摘み上げた。
「もっともボトルの中身は変わらんから、気をつけろ。」
「…!マスター、それは無いよ。」
元寒い国のスパイは、情けない顔を大げさにするとマスターの忠告を遮った。
「うちの会社は良心的よ。一度使って頂くと納得するよ。
どう?サービスもポイント特典も一杯よ。ヨォーダー。」
ヴォロフスキーのセールストークはいよいよ熱を帯びそうになってきた。
「なにせ当社の“商品”は“愛”と“夢”。
サイコーの癒しを提供するよ。」
依田はこれ以上関わりたくは無かった。が、ヴォロフスキーの言葉が一瞬彼の耳に残り、数時間前に会っていた善樹の言葉と重なっていった。
(商品・・・勝利・・・平和・・・。)
「いいかげんにしな、お前の皿はとっくに空だ。
その上変な商売をするなら出入り禁止にさせてもらうぞ。」
マスターの怒りに、さすがのヴォロフスキーも慌てた。
「ニエット!ニエット!!ごめんなさい。いま追い出される。ニエットね!」
そう言うと彼は今思い出したかの様に懐に手を入れた。
「これをヨォーダに。タウリンチ・タカーダ(高田)からね。」
懐から出された手には一冊の文庫本があった。
依田は一瞬自分の耳と目を疑った。
それは、出てくるはずの無い男の口から、出てきて欲しくない名前が何の躊躇も無く飛び出してきたからであった。
「高田から?なぜお前が・・・」
「タカーダ。急用が出来たね。それで頼まれたよ。
お得意様の頼みきかないわけにはいかないね。これも、お・仕・事。」
似合わないウィンクの真似事をして、彼はその本をカウンターの上に置き依田の方へ差し出した。
依田はしばらくその本を凝視していたが、やがてゆっくりと手に取りパラパラと数ページめくってみた。
それは、何年も前に世界中で大ヒットしたハードブックの文庫版であった。
魔法学校とその主人公の生徒達が活躍するファンタジー小説で、当時映画でも大きな話題を呼んだ作品である。
もっとも、依田の好みでは無くかと言って高田の隠れた趣味だとも到底思えなかった。
「タカーダとは昔からの友達よ。ホントいい人よ。」
依田からの疑いを晴らすかの様に、ヴォロフスキーはまくし立てた。
「日本は変な国ね。スパイよりシャッチョーする方が大変ね。
だって、スパイは取り締まらないけどショウバイはすぐ取り締まるね。」
彼はウォッカを煽り、当然のように依田のソーセージを口に入れた。
「お陰で、タカーダには頭が上がらなくなったね。
今では当社は“防衛庁御用達”の看板でショウバイやってるね。」
依田は、この男の言う事のどこまでを信用していいのか解らなかった。
元々、胡散臭さをイージーオーダーにして着ている様な輩では有ったが、頭から否定するには余りにも生々しい話であった。
事実、日本には彼らのスパイ活動を取り締まる法律が存在していないのである。
スパイによる機密漏洩は合法・非合法を問わず、諸外国では極刑も含む重罪である事は常識である。
だが、日本には自衛隊は有っても軍隊は無い。
軍隊が無ければ軍事機密も存在し得ない。
盗むべき軍事機密が存在しないのならば、スパイによる実害は無い。
実害が無いのならば、取り締まる理由が無い云々・・・・。
この恐るべき論法によって、国益を守るのに重要な機密漏洩を阻止する術を持っていないのであった。
個人情報の保護を謳った法律でさえ、その成立までにこの国では多くの反対を受けていた。
おかげで、首都たる東京のど真ん中で夜な夜な各国の情報部員達による晩餐会が開催されているのであった。
ある東側の工作員達は、他国での危険な任務を終えた後、慰労の意味で日本の担当になったという。相手がスパイと判ってもこの国で出来る対応は、旅券や身分証明書の偽造か不備を名目に国内退去を命ずるのが関の山であったからである。
そう考えればヴォロフスキーにとって、今の状況のほうが法の網にかかっている分厳しいと言って良かった。
「でも、これで今日の仕事は終わりね。一緒に飲まない?」
彼はまるで軍事基地からマイクロフィムを盗み出した時のような、達成感たっぷりの表情を浮かべて依田にウォッカのグラスを高く掲げた。
「・・・・マスター。悪い今日はこれで帰ります。」
依田は手渡された本を内ポケットにしまうと、席を立とうとした。
「まだ、残っているぞ。」
マスターは洗ったグラスを拭きながら不機嫌そうに言った。
カウンターにはまだ半分以上残っているバーボンのボトルと、一人分以上のオードブルが残っていた。
「ボトルは、また近いうちに・・・。」
依田はそう言って、ドアーノブに向かって手を伸ばした。
「オードブルは、そのシャッチョーに差し上げますよ。
本を届けて頂いたお礼です。ってね。」
「さすがタウリンチ・ヨォーダ。気前いいね。
なにか御用があったら、電話チョーダイ。会社の名刺その本に刺してあるよシオリ代わりにね。」
店の外に出ようとした依田の背中越しにヴォロフスキーの、訛声が追いかけた。
依田は店内を振り返りその声の主に二度と会わないようこう言った。
「ブラシシチャーイチェ(さようなら)」
だがその返事は依田にとって意外なものであった。
「ダ・ザフートラ(また、いずれ)。ヨォーダ。」
ヴォロフスキーは又グラスを掲げていた。
扉を閉めた依田の前には来た時と同じ急な階段が地上に向かって伸びていた。頭を反らしてみればその先に、地上への出口がぽっかり口を開けていた。
暗闇に浮かぶまあるい明かり、そこに向かうそれはまるで月に掛かる階段の様であった。