「吾亦紅日記」の中から、「軍師」をテーマにしている日記を抜粋しています。
【No.4】指揮官と参謀 2003年5月15日(木)

司馬遼太郎の『この国のかたち 一』(文春文庫)を読んでいたら、興味深い文章に出逢いました。日露戦争時の満州軍総司令部・総参謀長、児玉源太郎は、長州人でありながら、「テゲを心得ていた」、と。
司馬は、まず薩摩藩のテゲについて、語り始めます。テゲとは、「上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごまとしたさしずはしない」という態度を指すそうです。その好例として、薩摩藩出身の政治家あるいは軍人である西郷隆盛、大山巌、東郷平八郎の名前を挙げています。一方、山県有朋(長州藩出身)には、テゲはなく、こまごまとしたことにまで口を差し挟んでいたと言います。
しかし、同じ長州藩出身(厳密には、長州藩支藩の徳山藩出身)でも、児玉源太郎はテゲを心得ていたと、冒頭の話につながります。日露開戦直前、児玉源太郎は、内務大臣兼台湾総督の要職(天皇陛下の親任官)にありましたが、対露戦を研究していた川上操六、田村怡与造(いよぞう)亡き後、「この戦の作戦を指揮できるのは自分しかない」と、みずから降格して、参謀本部次長(勅任官)に就きました。台湾総督はそのまま兼任しました。
台湾の統治については、民政長官の後藤新平に印鑑をわたし、すべてを委任します。司馬は、こう表現しています。「児玉の人格は玄妙というほかない。大山に対しては精密そのものの補佐者でありつつ、一方後藤に対してはまったくのテゲであり、一人格にして同時期にそういうことをなし得た」(上掲書143頁)。大山とは、さきほどの大山巌で、児玉の上官にあたる参謀総長のことです。大山・児玉コンビは、日露戦争の最中、現地に司令本部を移し、それぞれ満州軍総司令部・総司令官、総参謀長となります。
ほかの書物に目を通しても、「児玉の性格を一言でいうと放胆、豪快と細心周到にして事務的な面が同居していた」(『陸軍大学校』上法快男編、芙蓉書房 156頁)と描写されています。これで一気に、児玉源太郎は、私の好きな歴史上の人物のひとりとなりました。
同じく、指揮官としても参謀としても一流の人物が、田中角栄元首相です。自民党幹事長時代の辣腕ぶりはつとに伝えられています。田中角栄が、総理大臣に就任して、「いま太閤」ともてはやされていた時、こども心に、「この人こそ本物のリーダーというに相応しい人物だ」と注目したほど、歴代首相の中でもひときわ輝いていました。田中角栄は天才的政治家でした。田中角栄の悲劇は、参謀として自分のような優秀な人物を持つことができなかったことだと言われています。
「指揮官と参謀」というのは、私にとって興味のつきないテーマのひとつです。
日露戦争の年表もご覧ください。
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