「吾亦紅日記」の中から、「日本」をテーマにしている日記を抜粋しています。
【No.23】『日本人はとても素敵だった』2003年12月28日(日)
「台湾はとても親日的」と言われていますが、そう言われてもどうして親日的なのか、いままではピンと来ないところがありました。しかし、楊素秋さんの『忘れ去られようとしている日本国という名を持っていた台湾人の心象風景ー日本人はとても素敵だった』(桜の花出版)を拝読し、ようやく理解できたように思います。
かつての台湾の人たちは、「日本人」として教育を受け、「日本人」としての感性をもっていたのです。楊素秋さんの世代の台湾の人たちのお話を伺っていると、いまの私たちよりも日本の歴史、日本の文化に詳しく、まさに日本の伝統的精神を生きているという感じを受けます。以前、台湾人のおじさんが、日露戦争時に活躍した日本人の軍人、秋山好古・真之兄弟について語っているのを伺った時、この方がまるで自国の英雄について語るように話をされていたのに驚きました。「えっ、日本人そのものじゃないか!」と大変な衝撃を受けました。「私も駆け寄っていって、この方といっしょに話をしたい!いっしょに日露戦争について語りたい!」という衝動に何度もかられました。異国の地の人と思っていた人から、このようなお話が伺えるとは思いもよりませんでした。
前回、「グローバルな日本人」という文章を書きましたが、これは、日本人の感性を持つ人が、いまの日本の国土の外にも存在していたという認識からも来ています。民族は違っても、ひとつの国の国民として、かつて運命を共にした人々がいたということを、いまの日本人はもうほとんど知らないこととなっていると思います。ましてや、日本人として教育を受けた台湾、朝鮮などの他の民族の人たちが、「日本人はとても素敵だった」と尊敬の念を抱いてくれているなど、想像もできないことでしょう。でも、本当に、そのような方たちが存在するのです。そして、本当に、かつての日本人は尊敬に価する民族だったのです。
どんなに歪んだ歴史教育でいままで洗脳されていても、日本統治時代を生きたこの台湾の女性の生の声を読めば、それまでの歴史認識をあらためざるを得なくなるでしょう。頭ではなく、心が、自分の日本人としての感性がそれを受け入れざるを得なくなるんです。そこに、否定することのできない歴史の真実があります。
『忘れ去られようとしている日本国という名を持っていた台湾人の心象風景ー日本人はとても素敵だった』(桜の花出版)
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【No.22】グローバルな日本人 2003年12月1日(月)
私が、ものごころがついてからというもの、「日本人というのは日本のことしか考えていない。世界というものを知らない。井の中の蛙だ」というようなことを言われていたような気がします。日本人の島国根性というような言われ方もしていました。それで、すっかり私は、日本人ってそういうちっぽけな国際感覚の欠落した人種なんだなと思い込んでいました。
しかし、幕末から大東亜戦争敗戦に到るまでの日本人の足跡を追ってみて、これまでの日本人観が誤っていたことに気づきました。少なくとも、敗戦以前の日本人には当てはまらないということを知り、目から鱗が落ちるような思いがしました。
戦前の日本人というのは、自分一国さえ平和でいれば安心だなどと考えてはいませんでした。自国の安全は自分たちで護るという気概を持ち、さらに自国の安全保障のために、政情不安定な隣国の政治に、首を突っ込み、口を挟み、手を差し伸べ、そのために、あげくの果てには、大陸の超大国(清国・露国)との戦いに挑んでいきました。
帝国主義時代というのは、白人がアジア人種を搾取し、日本人も白人をまねてアジアの地を植民地化し、同じアジア人から搾取しようとしたという負の面ばかりがいつも強調して語られます。でも本当にそうなんでしょうか? 台湾・朝鮮・満州の地をなぜわれわれ日本人が領有あるいは積極的に関与することになり、そこで何を行なおうとし、実際に行なってきたのか、いま一度理性的に見つめ直してみたいと思います。
いま「国際化」ということがよく言われ、海外の情報もいまの方が速く、しかも大量にはいってきているのかもしれませんが、国際感覚は、よきにしろ悪しきにしろ、さまざまな人種が東洋の地に入り乱れていた戦前のほうがあったのではないかという気がします。いや、生存のために持たざるを得なかったといえるでしょう。大陸や太平洋の広い地域を治めていた戦前の日本人はいまより間違いなくグローバルだっただろうと思います。
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【No.16】敗戦記念日 2003年8月15日(金) 
大東亜戦争敗戦を記念するこの日に、
護国のために散りし英霊たちの
御霊の安らかならんことを
祈念いたします。
誇り高き勇士たちの名誉が
再び この国に甦りますように
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【No.11】蓮の花咲く土地 2003年6月18日(水)
アジアとアフリカの人々を、白人の植民地支配から解放するという人類史上に燦然と輝く日本人の功績を知った時、一つの疑問が生じてきました。人種間の平等という概念は、大東亜戦争において流された多くの尊い日本人の血でもってもたらされた、少なくとも決定的なきっかけを作ったと言ってもいいのではないかと思います。それほど偉大な足跡を遺しながら、なぜ日本は、かくも精神が荒廃し、いまや亡国の危機に瀕するまでに至ったのでしょうか?因果律に則して考察しようとした時、現在の日本の姿が不可解なものに思えてきました。
あれほど残虐な侵略行為を繰り返した白人たちは、いまもなお、世界をリードし、物質的な繁栄を享受しています。なぜならば、彼らは、物質文明を大きく発展させるという人類の「進化」に大いなる貢献をしたからです。その果として、いまの姿があると考えられます。
戦後の日本は、高度経済成長を経て、世界でもトップクラスの経済大国となりました。いま長期間にわたる深刻な不況にあえいでいますが、世界的レベルで見れば、なお物質的には恵まれた状況にあると言えます。しかし、一方で、いまの日本人は誇りを失い、その精神のありようは、戦前の日本人からはとても想像できないのではないかと思われるほど変わり果ててしまいました。これが、人類に平等をもたらすために、一国だけで、白人の国々に立ち向かっていった誇り高き民族のなれの果てなのでしょうか。
そう嘆いていた時、ふと、泥池から茎を伸ばして大輪の花を咲かせる蓮の姿が浮んできました。この泥中にあえぐような現在の日本において、古代の中国とインドにおいて生まれ、脈々と伝えられてきた人類最高の哲理と修行体系が、再び蘇る機会が与えられたのではないかという考えが浮かびました。蓮の花咲く土地として選ばれたのであれば、このことこそが、この小さな島国においてもたらされた最高の果ではないかと私には思われます。
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【No.10】『新歴史の真実』 2003年6月12日(木)
地下鉄の中吊り広告に踊っていた「石原慎太郎、竹村健一、中西輝政三氏が激賞!」「8万部突破!」というキャッチコピーに目を引かれ、すぐに書店に駆け込んで購入しました。
作者は、東急グループの総裁・五島昇氏の懐刀と呼ばれ、東急エージェンシーを業界第三位にまで躍進させた立て役者の前野徹氏(アジア経済人懇話会 会長)です。
表紙には、ロウソクの炎が燃えていますが、この本の内容も、前野氏の憂国の真情がめらめらと燃えさかっていて、読む者の大脳皮質よりも脳幹部分(闘志)に直撃してくるような迫力があります。前野氏の語る歴史観に、何度も目からうろこが落ちるような思いがしました。
豊臣時代とその後の徳川時代に行なわれた切支丹禁制、大正時代に施行された治安維持法は、学生時代に学んだ時、釈然としないところがありましたが、今回、いずれも当時の為政者が、国体護持のためにとった適切な処置だということがよく理解できました。キリスト教布教の背後には、スペイン、ポルトガルによる日本の征服、共産党活動の背後には、世界革命を目論むコミンテルン(国際共産党)の謀略がありました。もし、時の権力者がその謀略を看破できず、国を護るための措置を講じていなかったら、日本はどうなっていたことでしょう。
また、高校時代の世界史の授業は、ただ歴史上の出来事をばらばらに教えられるだけで、世界の歴史を俯瞰することができず、もの足りない思いを抱いていましたが、この本が説くように、東洋人の視点から世界史を眺めてみると、歴史の流れがよく捉えられるようになりました。学校で教わってきた、白人の価値基準で描かれた白人に都合のいい歴史観に、無意識のうちに拒絶を感じていたのかもしれません。日本史だけではなく、世界史も再構築する必要があるのではないかと思います。
私たちは、日本人としての、東洋人としてのアイデンティティを確立するための歴史観を持つ必要がありますが、さらに、人類の歴史を俯瞰する視点をも同時に持つ必要があると、私は語らなければなりません。前野氏は、白人による残虐な侵略の歴史を明らかにしますが、この部分を読むと、白人の足跡をすべて否定したくなります。しかし、私たちは一方で、白人たちが発展させてきた高度な文明(物質的文明)が人類の歴史に果たした役割を看過することはできません。もし、それを否定すると、正しい歴史観を崩壊させてしまうことになります。
なぜならば、この世の原理は、「進化」にあるからです。ドイツの哲学者、ヘーゲルは、歴史とは、弁証法的発展を繰り返しながら、「世界精神」という一つの到達点に向って進んでいくと説いていますが、「進化」こそが歴史の正しい方向なのです。歴史の進展のある一時期に大きな役割を果たした白人たちの功績を認めることも私たちには必要なのです。
詳細については、前野氏と若干見解を異にするところはありますが、この本が発するパワーが、燎原の火のごとく、日本じゅうに広がることを願ってやみません。
『新歴史の真実』前野徹著(経済界)1600円+税
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【No.9】不毛地帯(2) 2003年6月7日(土)
小学生のある夏休み、ナチスによるユダヤ人強制収容所「アウシュビッツ」の展示会に行き、強制収容所に入れられた人々の写真を見ました。その日から、夜になると、毎晩恐怖に襲われて、なかなか眠れなくなってしまいました。ほんの20数年前の出来事ということがショックでしたが、それ以上に、そんなことを引き起こす人間の心に潜む残酷さに、逃れがたい恐怖心を抱いたのです。
新学期が始まってようやく元に戻ることが出来ましたが、その翌年の夏休み、ある少年漫画雑誌で連載していた『はだしのゲン』を読んで、広島に投下された原爆のことを知り、また眠れない夜を過ごすようになりました。
その時、「平和な時代に生まれてよかった」と思いました。それ以来、私はずっと戦争は悲惨なもの、二度と起こってほしくないものと考えてきました。
しかし、『不毛地帯』を読み、これが大東亜戦争を「参謀」の視点から、戦略的に見つめ直すきっかけとなり、新しい視野が一気にひらけました。そして、大東亜戦争に関する本を読み、日本が開戦ぎりぎりまで対米交渉を重ね、戦争を回避しようと努力していたことを知りました。また、海外から石油など、必要な資源が輸入できなくなり、追い詰められて対米英蘭戦に踏み切ったことが理解できるようになりました。
国家戦略という視点にたつと、戦争(軍事力)が、外交交渉と並んで、外交戦略上の手段のひとつということが見えてきます。しかし、敗戦後、私たち日本人は、戦争に対する罪悪感を徹底的に植えつけられたため、国の防衛のために軍事力をもつことさえ拒絶するようになってしまい、日本人としての誇りを失ってしまったため、自国の国益を堂々と主張することもできなくなってしまいました。ひとつの自立した国家が当然持つべき、外交交渉力と軍事力のいずれも、いまの日本では充分に備わっていないといえます。
ところで、なぜ「大東亜」戦争が起こったのか、それを理解するために私は明治期の日清戦争と日露戦争にまで遡って考察しようと考えています。当時の日本のリーダーたちが抱いた「アジアの経綸」という視点を把握しないことには、この一連の軍事行動は理解できないように思われます。帝国主義という弱肉強食の国際情勢にあっては、日本一国のことだけでなく、日本の周辺諸国、そして黄色人種としてアジア諸国の独立と繁栄という広い視野から国家戦略を考えることが不可欠であったのです。
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【No.8】不毛地帯 2003年5月29日(木)
一時期、山崎豊子氏の小説に夢中になっていたことがあります。『白い巨塔』、『華麗なる一族』は、医学界や財界に鋭く迫った力作で、綿密な取材力と骨太な構想力に惹かれ、寝る時間も惜しんで、せっせと読んでいました。そして、次に手にとったのが、『不毛地帯』でした。
主人公の壱岐正は、元大本営参謀で、戦後シベリアに抑留され、帰国後、大阪の一商社に、請われて入社し、その会社を日本でも有数の総合商社へと成長させるという話です。この小説のモデルは、中曽根元首相の懐刀と呼ばれた瀬島龍三氏ということはよく知られていましたが、小説の冒頭にはこんなコメントがついていました。
「これは架空の物語である。過去、あるいは現在において、たまたま実在する人物、出来事と類似していても、それは偶然に過ぎない。」
当時、この文を見た時、明らかに瀬島さんがモデルだと思われるのに不思議だなと思いました。最近出版された『日本の証言』(フジテレビ出版)という、瀬島さんがフジテレビに出演してご自身のことなどを語られたことをまとめた本を読み、入社時のエピソードなど、小説とそっくりなことを確認することができました。
瀬島さんについて自分の中でどう評価すべきか、私は長い間、判断に迷っていましたが、『日本の証言』を読んで、この人はやはりすごい人だと思いました。頭が切れるということよりも、人間としてのすごさに感銘を受けました。一本筋が通っている人なのではないかと思われます。
『不毛地帯』を読んだ時は、次のような大きな影響を受けました。
(1)大東亜戦争を「参謀」の視点から見つめ直すきっかけとなった。
(2)極東軍事裁判に関心を抱くようになった。
(3)たった一人の人間のパワーが、組織をこれほど大きく変えることができるのだということを知った。
『不毛地帯』読了後、夢中で大東亜戦争と極東軍事裁判の足跡を追いました。今から15年くらい前のことです。
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【No.7】虹とスモッグ 2003年5月24日(土)
さらに、渡部氏は、言語学者オーウェン・パーフィールドの言葉を引用して、歴史教育とは「虹を見せることである」と語ります(『国を愛するための現代知識』渡部昇一
徳間書店)。
パーフィールドの言葉とは次のとおりです。「歴史というものは虹のようなものである。それは近くに寄ってみれば見えるというものではない。近くに寄れば、その正体は水玉にすぎない」
歴史教育とは、ひとつひとつの水玉(歴史的事実)を見せるのではなく、水玉がつくる美しい虹(歴史的真実)を見せることだと渡部氏は言います。つまり、愛国心を養うような歴史的真実を教えることが大事なのです。
私が学校で教わった日本の歴史とは、年号、人名、事件などを記憶することが中心でした。しかし、私が知りたかったのは、なぜこのような歴史的事件が起こったのかという背景、経緯、そして人間のドラマでした。何よりも、それが日本の歴史にとってどういう「意味」を持つのかを知りたくて、じりじりしていました。最終的には、確固たる歴史観を持ちたいという願望がありました。しかし、学校の歴史教育は、そんな私の願望に応えるものではありませんでした。
いまの学校における歴史教育は、私の頃よりもさらに歴史教育の理想からかけ離れたものになっているようです。私の時代は、虹を見せるではなく、赤みがかった水玉を見せる教育でしたが、いまのこどもたちは、どうやら、スモッグにおおわれているようです。
自国の歴史に誇りを持たせるどころか、かつての日本は一方的にどうしようもない悪者だったと教え、こどもたちの心にスモッグをまきちらし、精神を蝕んでいるのです。そんな状態で、どうしてこどもたちの心が健全に育つでしょうか?たとえ、こどもたちの心に、そんな教育に対して反抗心が芽生えたとしても、スモッグをまきちらすもうひとつの元凶であるマスコミが彼らの心を否応なく覆い尽くしているというのが現状ではないでしょうか?
この暗鬱なスモッグを追い払い、日本の空に再び、大いなる光によって映し出された美しい虹を見せることが急務だと感じます。
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【No.6】愛国心 2003年5月21日(水)
渡部昇一氏によると、アメリカの義務教育において、最も重視されているのは、「愛国心の涵養」だそうです。「計算ができなくても、スペリングがまずくても、それはたいした問題ではない。(中略)大事なことは、国旗に忠誠を誓うことなのです」(『国を愛するための現代知識』渡部昇一
徳間書店)。
大東亜戦争で日本が負けた後、連合軍が日本に進駐し、我が国を占領しました。そして、この時、連合軍が日本に民主主義をもたらしたのだというふうに私は教わってきました。しかし、実態はといえば、連合軍(主体となったのは米軍)が日本に植え付けた民主主義とは、自国の民主主義教育の最も根幹をなすもの(愛国心の涵養)を骨抜きにしたものだったようです。
国民国家を原理とする現在の社会体制にあって、私たち個人のアイデンティティの拠り所となるものは、自分が帰属する国、民族に対する誇りです。この誇りを失ってしまったら、どういうことになるのか、いまの日本の姿にすでに現れているといえるのではないでしょうか。
かつて明治期の日本人は、豊かな外交能力をもっていたと言われています。彼らは、白人中心社会にあって堂々と自国の国益を主張していました。なによりも日本に対して、いやアジア民族に対して誇りを抱いていました。私たちは、そんなかつての日本人の姿、私たちの国の歴史をもう一度見直してみる必要があると思います。
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【No.4】指揮官と参謀 2003年5月15日(木)

司馬遼太郎の『この国のかたち 一』(文春文庫)を読んでいたら、興味深い文章に出逢いました。日露戦争時の満州軍総司令部・総参謀長、児玉源太郎は、長州人でありながら、「テゲを心得ていた」、と。
司馬は、まず薩摩藩のテゲについて、語り始めます。テゲとは、「上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごまとしたさしずはしない」という態度を指すそうです。その好例として、薩摩藩出身の政治家あるいは軍人である西郷隆盛、大山巌、東郷平八郎の名前を挙げています。一方、山県有朋(長州藩出身)には、テゲはなく、こまごまとしたことにまで口を差し挟んでいたと言います。
しかし、同じ長州藩出身(厳密には、長州藩支藩の徳山藩出身)でも、児玉源太郎はテゲを心得ていたと、冒頭の話につながります。日露開戦直前、児玉源太郎は、内務大臣兼台湾総督の要職(天皇陛下の親任官)にありましたが、対露戦を研究していた川上操六、田村怡与造(いよぞう)亡き後、「この戦の作戦を指揮できるのは自分しかない」と、みずから降格して、参謀本部次長(勅任官)に就きました。台湾総督はそのまま兼任しました。
台湾の統治については、民政長官の後藤新平に印鑑をわたし、すべてを委任します。司馬は、こう表現しています。「児玉の人格は玄妙というほかない。大山に対しては精密そのものの補佐者でありつつ、一方後藤に対してはまったくのテゲであり、一人格にして同時期にそういうことをなし得た」(上掲書143頁)。大山とは、さきほどの大山巌で、児玉の上官にあたる参謀総長のことです。大山・児玉コンビは、日露戦争の最中、現地に司令本部を移し、それぞれ満州軍総司令部・総司令官、総参謀長となります。
ほかの書物に目を通しても、「児玉の性格を一言でいうと放胆、豪快と細心周到にして事務的な面が同居していた」(『陸軍大学校』上法快男編、芙蓉書房 156頁)と描写されています。これで一気に、児玉源太郎は、私の好きな歴史上の人物のひとりとなりました。
同じく、指揮官としても参謀としても一流の人物が、田中角栄元首相です。自民党幹事長時代の辣腕ぶりはつとに伝えられています。田中角栄が、総理大臣に就任して、「いま太閤」ともてはやされていた時、こども心に、「この人こそ本物のリーダーというに相応しい人物だ」と注目したほど、歴代首相の中でもひときわ輝いていました。田中角栄は天才的政治家でした。田中角栄の悲劇は、参謀として自分のような優秀な人物を持つことができなかったことだと言われています。
「指揮官と参謀」というのは、私にとって興味のつきないテーマのひとつです。
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【No.3】日露戦争閑話 2003年5月11日(日)

日露戦争時の軍の司令長官など指揮官の経歴を見ると、幕末に少壮の志士として動乱の中をくぐりぬけてきた人物が多いようです。彼らは、幼少の頃、武士としての教育を受けているため、日露戦争までは「士魂」が生きていたのではないかと私は推察しています。そのためか、日露戦争時の指揮官たちの人物像を追っていると、全身の血が沸き立ってきます。
今回は、日露戦争時のエピソードをひとつご紹介します。東郷平八郎大将率いる連合艦隊は、ロジェストヴェンスキー率いるバルチック艦隊との決戦を控え、鎮海湾で猛烈な射撃訓練を繰り返していました。
狙った目標どおりに撃つために、砲員たちに敵の艦型を覚え込ませる必要がありました。いまでもそうですが、ロシアの名前は長くて覚えにくいものがたくさんあります。ましてや、英語教育も充分でなかった当時のこと。安保清種・旗艦三笠砲術長は知恵を絞りました。そこで考えたのが、日本語への読み替えです。
・戦艦クニャージ・スワロフ(故郷親父坐ろう/くにおやじすわろう)
・戦艦アレキサンドル三世(呆れ三太/あきれさんた)
・戦艦ボロジノ(ボロ出ろ/ぼろでろ)
・戦艦アリヨール(蟻寄る/ありよる)
・戦艦シソイベルキー(薄いブリキ/うすいぶりき)
・戦艦オスラビア(押すとピシャ/おすとぴしゃ)
・海防艦アブラキシン(油布巾/あぶらふきん)
・巡洋艦ドミトリ・ドンスコイ(芥取権助/ごみとりごんすけ)
・巡洋艦イズムルード(水洩るぞ/みずもるぞ)
たとえば、
「目標、呆れ三太、打方始めエ」
と号令をかけ、会心の成果をおさめたそうです。(『連合艦隊の栄光と悲劇』吉田俊雄・PHP文庫)
単に艦名を覚えやすくするというだけでなく、巨大なロシア艦隊に対する恐怖心を取り除く効果があったのではないかと思います。
一方、陸軍の満州軍総司令部・総司令官、大山巌は、敵の総司令官クロパトキンのことを、日記に「黒鳩金」と記していたようです。(『坂の上の雲』4 司馬遼太郎・文春文庫)
いずれの逸話にも、「日本精神、ここにあり!」と感じました。白人の力を侮ることなく、しかし決して圧倒されない明治期の気骨ある日本人の姿を垣間見たような気がしました。
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【No.2】奈良県十津川村 2003年5月2日(金)
最近、『日本一よくわかる政治と経済の話』(太陽企画出版)を読みました。
小泉政権のことなど、非常にわかりやすくておもしろくて、一気に読み終えました。小泉首相が変人だったから、日本の孤立を防ぐことができたというくだりは思わず、手を叩いてしまいました。ところで、小泉首相には、やはり8月15日の「大東亜戦争敗戦記念日」に、靖国神社に参拝していただきたいと私は思います。
さて、この本の最後に、奈良県十津川村という奈良県の五分の一の面積を占める村の話が出てきます。竹村さんが、この村に講演に行かれた時、同行した奥様が、こうおっしゃったそうです。「田舎というか、他の地方の人とここの人は違う。。。プライドがある」、と。
それを読んではたと思い至りました。確か、この村出身の私の祖父母も、自分たちは「士族である」という誇りを抱いていました。
作家・司馬遼太郎によると、十津川村の人々は、徳川時代、百姓の身分であったにもかかわらず、自分たちは「武士だ!」と強烈に自負していたため、自分たちで士装を整えていたそうです。そして、彼ら「十津川郷士」たちは、幕末の京都における宮廷警備、戊辰戦争での功績を認められて、明治時代になると、村びと全員が、士族に列せられたそうです。
しかし、祖父母たちの思い出を探ってみると、士族としての誇りよりも、「この村は大和民族発祥の地である」という、素朴で、そして揺るぎのない確信が、この山深い山村の人びとたちの誇りを支えていたのではないかと思われます。
戦後の民主主義教育によって、白人コンプレックスと贖罪意識に陥っていた私が、日本人としての誇りと自信を再び取り戻すことが出来たのは、そういった祖父母の姿を見つめ直すことによってでした。